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気持ちのいい文章とそうでない文章

フリーランスになってずいぶんたつが、フリーランス対フリーランスの仕事はしたことがなくて取引相手はつねに組織だ。その場合、こちらは一人の人であり、相手も一見すると一人の人のようにみえるけれど実はそうではない。あいては組織全体の利益とコンセンサスを代表する窓口なのである。

ぼくのほうは自分の思ったとおりのことを述べているだけだけれども、相手は一見本人がしゃべっているようでじっさいは上司の意向やら会議決定やら内部の規約などの見えない縛りの中で発言している。

じゃあその人は人間ではないのかというとそんなことはなくてやはりひとりの人間としての顔をのぞかせる。そのミックス具合というか、組織の縛りの中で本人の人間的な部分がのぞくのを見るのは嫌いではない。

これはフリーランス対組織にかぎらず、日常よくあるコトだ。

たとえば大きな病院に患者として入院し、そこの先生に生死をゆだねた場合、こちらはその人にゆだねているつもりでも当の先生は白い巨塔の論理にしたがって動かざるをえない・・といったことはよくある。しかしそこで本音をちらりと見せてくれる人に悪い気はしないだろう。それだけのリスクを冒してくれているわけだから。

役所などもそうだ。ちょっと極端な例を挙げるなら、死刑執行のボタンを押したくて押している刑務官などおらず、みな組織の決定に従ってイヤイヤ押しているだけである。

しかし押す側は「押す役目」を引き受けているだけだが、押される側に「押される役目」などというものはなくて一人の人間でしかない。とはいえ押す側もけっして「押す機械」ではないので、あえてリスクを冒して人間味を出してくれる人もいるだろう。

ちょっと例えが重すぎたけど、アパレルの店員さんもホステスさんもビジネスの中に本音がちらつく人が魅力的なのは同じだ。それはほんのちょっとリスクをとってくれたというか心の窓を開けてくれたのがわかるからだ。

しかし逆もある。一見しろうとに見せかけてじつはビジネスというパターンであり、結婚詐欺はその典型だ。

このnoteでも、善意で書いているフリをしつつマネタイズへ誘導しようとしているのがわかるのがあり、読んでいてあまりイイ感じはしない。「気持ちのいいフリー戦略」と一体どう違うのだろう?

たぶん「自分を守りに守っている」感じがセコく感じられるのだ。読者のためにちょっとリスクを冒してくれるというか、すこしガードを下げてくれるというか、ほんのちょっと心を開いてくれればこんな風に感じないのになあ。

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