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思い出はこころの中にあればいい

レコードをどうしようかなあ・・と最近よく思う。

実家に帰ると、かつて集めていたレコードが200枚くらいある。
以前はもっとあったんだけど、半分ほどは、数年前にまとめて中古レコード屋さんに引き取ってもらった。

その中には「中学時代に初めて買ったアルバム」なども含まれていた。手放すのを迷ったが、あのとき思い切って処分しておいてよかったと思う。思い出は、記憶の中にあるだけで十分だ。

残った200枚

後に残った200枚は、単なる思い出というより、今でも実家に帰ると楽しんで聞いているものばかりである。

しかし、レコードプレーヤーが壊れてしまった。新たなプレーヤーを買いなおして愛聴していこうか、それとも、このさいぜんぶ処分してしまおうか、悩む。

ちなみに僕の理想の老後のイメージは、「海辺のこじんまりした一軒家で、昼間は釣りをして過ごし、夜になるとバルコニーでワインなど飲みつつ、これらのレコードを聴きながらすごす」というわりに陳腐なものである。

そのイメージを実現させるには、これらのレコードが無くては困るし、むしろ増やしていきたいくらいなのだが、もろもろのリアルな事情を考えてみると、そういう老後は訪れそうな気がしない。

なまじ新しいプレーヤーなどを買うと荷物が増えるし、ここらで全部処分したほうがいいのではないか。

遺品には3種類ある

そもそも人はいつ死ぬかわからないし、1つ年上の柔道家だった古賀稔彦さんもなくなってしまった。

レコードなんて、あとに残された家族にしてみればゴミでしかないだろう。そろそろそういう視点からも考えてみなければならない年齢に差し掛かっている。

人はたくさんのものを残して死んでいくが、後に残す「モノ」にはおおむね3種類あると思う。

1つはだれにとっても価値のあるもの。
2つめは遺族にとってだけ価値のあるもの
3つめは故人にとってだけ価値のあるもの、である。

1つめは遺産だ。お金や、お金になりやすい証券や貴金属など。誰とってもありがたいものである。

2つめの「遺族にとってだけ価値があるもの」は、故人をしのぶためのモノであり、愛用していた眼鏡だとか、写真とか、位牌もそうだし、お墓もこの中に入れていいだろう。

3つめが、「故人にとってだけ意味のあるもの」で、ぼくのレコードはここに入る。レコードだけでなく、大量の本やDVDやゲームもここに入るし、洋服や靴もここに入る。

切手マニアの切手、自動車マニアの愛車、マンガ好きにとってのマンガも、追っかけをしていたアイドルのサインも、撮り鉄の撮った写真も、みなこの部類だ。

これらは本人にとってはかけがえのないものだが、本人以外の人にとっては、じゃまでしかない。形見にするにはかさばるし、売っても大したお金にならない。

そういうものが増えている

そして、モノがあふれている今の時代には、”3”の「本人にとってだけ意味のあるもの」が増えている。

ネット配信が普及している時代にDVDなどもらってもこまるだろうし、マンガだって読みたければキンドルで買ったほうが早い。クルマ好きのクルマは、置き場所に困るだけで、買い物の役にも立たない。

モノがあふれ、デジタル化が進む今の時代に、誰かが死んだら他人にはては邪魔でしかないものが増えている。そして、これは「2」の部類にまで侵食している。

お墓はかつては故人をしのぶための大事なものだったが、今の時代には持て余すので、墓じまいをする人が増えている。

家も同じだ。むかしなら住む場所ができてよかったかもしれないが、いまは処分に困って家じまいする人の方が多い。

そのうえで、形見も、遺族が亡くなってしまえばガラクタになる。無縁仏がその最たるものだが、故人の形見のほとんどはこういうものだ。ぼくは仏壇に母が使っていた老眼鏡を供えているが、安物であり、ぼくが死ねばガラクタである。

思い出はこころのなかにあればいい

ぼくが3歳まで住んでいた家は、親族と遺産のことでもめた際に立ち入り禁止になり、ある日取り壊されてしまった。子どもの頃に読んだ本も、遊んだゲームも持ち出すことはできず、すべて瓦礫になった。

最初はツラかったけど、今にして思えばあれでよかったのだろう。今でも、そこで過ごした日々のことを懐かしく思い出すけど、目をつぶれば、各部屋の間取りも、ちゃぶだいに夕日が差し込んでくる様子も、庭の柿の木も、はっきり思い出せるのでそれでいい。

思い出はこころのなかにあればいい。そして、ぼくが死んだときに一緒に消えていくのが一番な気がする。こう考えてくれば、レコードも本もDVDもどうすればいいか、だいたい見えてきた。

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