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壁にまつわる生活の豊かさ

家で寝っ転がり、ぼんやりと壁を眺めていたとき、ふと、壁に短い糸の切れ端のようなものが貼りついていることに気がついた。

ああ、糸の切れ端のようなものが貼りついている。

なんだか当たり前のことのようだが、僕はそのような考えが頭に浮かんだ。

これがしらすだったらどうしよう。

どうしようもこうしようもないが、僕は壁に貼りついたそれが、糸の切れ端だと気づいた瞬間、同時にそのような考えも脳裏をよぎったのだ。

僕はたまに、ご飯にゆでたしらすをかけて食べることがある。

スーパーに売っているパック詰めのしらすだ。

それがなにかの拍子に、壁に貼りついてしまうことがあっても、なにもおかしくはない。

だからこそ僕は、そのような考えを頭に巡らせたのだった。

だったらカニカマはどうだろう。

どうだろうもなにもないが、壁にカニカマが一本貼りついていたら、それはとても奇妙な光景だ。

しかし僕は家でカニカマも食べる。

それがなにかの拍子に、壁に貼りついてしまっていてもなんらおかしくはない。

いや果たしてそうだろうか。

なにかの拍子にカニカマが壁に貼りついてしまうことなどあるのだろうか。

しかし僕もぼんやりとした人間だ。

そのようなミスをおかしてしまってもなんら不思議はない。

ならトンカツはどうだろう。

いやトンカツはないんじゃないか。

だってトンカツだぞ。

未だかつて僕は、壁に貼りついたトンカツを見たことがない。

もしそれが壁に貼りついているとすれば、意図的にそうする必要が出てくるのではないか。

ボンドかなにかで貼りつけるのだ。

しかしボンドの場合、乾くまでに時間がかかる。

少なくとも一時間はじっと押さえてなければならない。

トンカツを一時間、ずっと押さえる続ける。

いくらなんでもそれはないだろう。

壁に貼りつけたトンカツを一時間押さえ続けるのであれば、その一時間はもっと別のことに有効活用できるのではないか。

玄関に花を飾る。

うちから少し歩いたところに花屋があるからそこまで歩いて行き、それなりの花を見繕ってもらい、玄関に飾るのだ。

壁に貼りついたトンカツを押さえ続けるより有意義な時間の使い方だ。

いや待てよ。

なんで花を飾るんだ。

僕はこれまで玄関に花を飾ったことはないし、花を愛でるような趣味もない。

だとしたらなぜ玄関に花を飾るのだろう。

鹿の頭の剥製ならどうだろう。

やはり飾るといったら鹿の頭の剥製だ。

飾ればなにやら雄大な気持ちになれるし、自分がなにか物凄いことを成し遂げた人間であるような気分にもなれる。

いや待てよ。

鹿の頭の剥製はないんじゃないか。

それは校長室や、どこかの議員の応接室などに飾られていればしっくりくるだろうが、うちの一人暮らしの小さなアパートの玄関には似つかわしくない。

なにかうちの玄関に飾るのにふさわしいものはないだろうか。

そうだ、テイラー・スウィフトのライブのポスターだ。

世界的ミュージシャンだし、デザインも凝ったものであるだろうから、玄関に飾るには最適なのではないか。

いや待てよ。

僕はテイラー・スウィフトのファンでもなんでもない。

なぜテイラー・スウィフトのファンでもなんでもない男が、テイラー・スウィフトのライブのポスターを玄関に貼らなければならないのだろうか。

朝の出勤のときや帰宅のとき、好きでもないテイラー・スウィフトのライブのポスターを見るたびに、なにやら居心地の悪い気分になってしまう。

それに貼られているテイラー・スウィフトのライブのポスターの方も、なんでこんなファンでもないでもない、よくわからない東洋人の男の家の玄関に貼られなければならないのだろうかと憤りを感じてしまう。

だとしたら僕は一体、玄関になにを貼ればいいのだろうか。

しらすじゃないのか。

しらすならサイズも小さく悪目立ちしないし、なにより姿形が可愛らしい。

玄関の壁に、ぽつんとしらすが一匹貼られていればなんだかほっこりとした気持ちになれるじゃないか。

よし、早速スーパーに出向いて、しらすのパックを買ってこよう。

そうすれば、より豊かな生活を送れるような気がする。

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