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燃える闘魂アントニオ・コンテ特集!


※音声用の資料になります!下記から音声を聞きながら御覧ください。


11-12シーズン

11/12シーズン。カルチョポリ以降、ずっと苦しんでいたユベントスの監督にコンテが招聘される。ちなみに前シーズンのユベントスはセリエA7位でフィニッシュしている。

当時のコンテ監督はセリエBでは活躍していたものの、セリエAでは目立った実績もないので、驚きの抜擢だった。選手としてユベントスOBだったことも抜擢の一因だったのだろう。

初期は、442。このシステムは424とイタリアで言われていて、その攻撃的なチームの姿勢が注目を集めていた。

ユベントス11/12シーズンは3バックよりも4141、433型が多かった。ピルロ、マルキージオ、ビダルを同時に起用できるメリットを考えて布陣を変えたのかもしれない。さらに期待の若手だったボヌッチがミスしても我慢強く起用し続けた。

そして、結果は驚きの無敗優勝。リーグ戦だけに集中できるとはいえ、驚きの結果だった。

結果

リーグ優勝 CLなし コッパイタリア準優勝

12-13シーズン

アサモア、イスラ、ジョビンコ、カセレスらを移籍で獲得。また、大きいのはフリーでマンチェスターユナイテッドユースからポグバを獲得。ここはSDだったマロッタの手腕を感じさせる部分だ。実はベントナー、アネルカらをフリーで獲得しており、ここは前線の軸になる選手を欲しているといった印象だ。

このシーズンはコンテの代名詞3142が完成したシーズンだったと言えるだろう。アンカーのピルロを抑えても、世界屈指のリベロとなったボヌッチがゲームメイクできることで、セリエAを蹂躙。

結果的にセリエA連覇、CLでもGLを突破し、ベスト8まで進出。ハインケス率いる3冠バイエルンに敗れた。

結果

リーグ優勝、CLベスト8(バイエルンに敗戦)、コッパイタリアベスト4敗退

13-14シーズン

テベスを獲得したユベントス。おそらくCLでの活躍を考えての補強にも見えた。

このシーズンも3142。ここにテベスというタレントを組み込んだ形だった。しっかりと補強を活かしてパワーアップした印象だった。

無敗優勝ではないが、勝ち点102とセリエAを圧倒して優勝。しかし、CLではGLで敗退しELでも格下ベンフィカ相手に敗れた。

結果

リーグ優勝、CLGL敗退ELベスト4、コッパイタリアベスト8敗退

闘魂

14年の夏、コンテ監督は、ユベントスのシーズンオフキャンプ中に、契約を解除し、そのままイタリア代表の監督に就任した。

ユベントスとすれば予定外の契約解除であり、ここにコンテ監督の難しさがある。一説によれば、ユベントスの補強方針に疑問を抱いたコンテとフロントが衝突しての契約解除だったと言われている

勝利のために妥協を許さない闘魂が、クラブ側へも向かってしまった。

14~16コンテアッズーリ

コンテ監督の作り上げたイタリア代表チームは、おそらく練習がハードだったのだろう。詳しく数字を追うことはできないが、代表合宿中によく負傷による離脱者が出ていた記憶が強い。

コンテのイタリア代表は3142、424、4141、3421など、さまざまなシステムで戦っていた。選手選考に関してもコンテ監督が好む選手が多く招集され、逆にコンテ監督のプレーパターンに合わなさそうな選手は、招集されても出場機会が限られていた。

GL第1戦、ベルギー戦

1-0勝利

5バックでタレントを封じつつ、ボヌッチからジャッケリーニへのスーパーなロングスルーパスで先制。

GL第2戦、スウェーデン戦

1-0勝利

終盤まで苦しんだものの、交代で入れたザザが強引なポストプレーから、エデルへとつなぎ、エデルのカットインドリブルからゴール。なんとか勝利した。

GL第3戦、アイルランド戦

0-1敗戦

イタリアとしては首位通過が決定していたので選手をターンオーバー。ただ、アイルランドのイタリア対策は完ぺきだった。

ベスト16、スペイン代表戦

2-0勝利

コンテアッズーリのハイライトであるスペイン代表戦。スペイン相手はイタリアの3CBとデロッシを捕まえきれず、イタリアが保持からの攻撃でチャンスを多く作る試合だった。逆にスペインが作ったビッグチャンスは、ピケ、ラモスのセットプレー、パワープレーだったことがスペインの苦しみを表していると言えるだろう。

ベスト8、ドイツ代表戦

1-1 PKのすえ敗戦

デロッシ、モッタ、が離脱し、MFの構成が難しかった試合。さらにコンテのサッカー対策として、ドイツが3バックでイタリアを封じにかかったのも攻撃の停滞を生んだ。それでも引き分けてPK戦へもつれ込んだため、コンテの評価が下がるような試合ではない。

コンテ監督のイタリア代表を簡単に振り返ると、コンテらしいパターンサッカーに適応する運動量のある選手で構成された、まとまりのあるチームだった。ただ、離脱者の多さによって大会を通じて結果を残すことができなかったことが残念だ。

クラブシーンへの復帰

イタリア代表での闘いを終えたコンテは、欧州クラブシーンへの復帰を求めた。そして、次に監督を務めたのがイングランド、プレミアリーグの第1世代新興勢力であるチェルシー。

チェルシーは、第2次モウリーニョ監督時代の後でチームが完全に崩壊しており、その立て直しをコンテに託した。

余談にはなるが、そもそもチェルシーというクラブは、かつてイタリア人名FWゾラのような選手が所属していた過去があり、ラニエリ、ディマッティオといったイタリア人監督が率いていた過去もある。チェルシーがコンテを監督として抜擢した理由の1つは、そもそもイタリアサッカー界とは繋がりが深かったためかもしれない。

16-17シーズン

コンテのチェルシーでの新シーズンは、モウリーニョ監督のもとでポテンシャルを発揮できなかった選手たちを再生させるための闘いとなった。ただ、チェルシーは欧州カップ戦がなかったものの新戦力の獲得に成功した。特にカンテ、ダビド・ルイスの獲得は大きかった。

また、コンテ監督のチーム戦術、選手の配置に関しては、3142の形から、3421のような形へとシフトした。ここにはチェルシーに所属する選手たちの特性と、イングランドのサッカー文化が影響していたと考えている。

結果

リーグ優勝 CLEL不出場 FAカップ準優勝 リーグカップ4回戦

リーグ戦に集中して、リーグ優勝。結果的にだが、クロップリバプールにもペップシティにも勝っている。ただ、欧州戦を含めればどうなのかが次のシーズンに問われる。

17-18シーズン

コンテ2シーズン目は、監督としての個性の強さがイタリア国外の文化と衝突したシーズンだった。

主力だったコスタと衝突したと報道され、結果コスタはアトレティコマドリードへ帰っていった。また、主力だったマティッチもライバルマンチェスターユナイテッドへ放出。獲得したのは、モラタ、バカヨコ、ドリンクウォーター、リュディガー、ジルー、バークリー、ザッパコスタ、エメルソンら、どちらかというと一皮向ける必要のある選手たちを補強した印象だろうか。

チーム力として、補強されたか、強くなったかは微妙なシーズンだったと感じている。

結果

リーグ5位 CLベスト16 FAカップ優勝 リーグカップ4回戦

結果としてリーグ5位でフィニッシュ。そして、コンテは監督を解任された。

闘魂再び

解任されたのち、コンテは記者会見でチェルシー上層部、特にアブラモビッチを痛烈に批判した。コンテはリーグ5位、FA杯優勝と一定の結果を残したのに解任されたと訴えた。チェルシーは自分たちがレアルマドリードのようなクラブだとでも思っているのかと批判。

さらにモウリーニョ後にぼろぼろだったチェルシーを立て直したと自画自賛し、一部のチェルシー選手たちを力不足というようなニュアンスで名指し。さらに、後任監督がサッリとなったことに対しても、サッリがタイトルをとった経験がないこと、自身の二番煎じのようなサッカーをしていること、などを指摘して批判。かなり会見の内容は、コンテらしく感情的なものになった。

19-20シーズン

チェルシー監督を解任されたコンテ。そして1年休養となった後、イタリアはセリエAで打倒ユベントスに燃えるインテルからオファーが舞い込む。

当時のインテルは、資本体制が中華資本となり、さらに球団CEOとしてユベントス9連覇の基礎を作り上げたマロッタを招聘していた。ピオリ、スパレッティ監督らを擁していたものの、成績は伸び悩み、結果としてコンテ監督を招聘する流れとなった。

移籍市場でも積極的に、ルカク、サンチェス、エリクセン、ヤング、モーゼス、ゴディンなどイタリア国外から選手を獲得。国内では、バレッラ、センシを獲得して戦力の上積みを狙った。さらに冬の移籍市場でフリー移籍の形でスパーズのエリクセンを獲得。チームのMF陣の層を厚くする移籍だった。

結果

リーグ2位、CLGL敗退EL準優勝、

結果的に、リーグ戦では2位となった。ただ、このシーズンはユベントスがサッリ監督のもと本調子とは言えないサッカーを見せていた。逆に躍進が目立ったのはラツィオだ。ゴールデンブーツを獲得したインモービレが引っ張るラツィオは、コロナ禍がなければ、リーグ優勝してもおかしくない好チームだった。

20-21シーズン

コンテ監督としての2シーズン目。大きな補強となったのはハキミ。元々レアルマドリード所属で、ドルトムントで活躍し、インテルへ移籍した。攻撃的な右サイドバックでスプリントの速さに関してはセリエAでも類を見ないものだった。

結果

リーグ優勝、CLGL4位敗退、コッパイタリアベスト4

コンテ2シーズン目は、インテルにとって久々11年ぶりのスクデット獲得となった。ただ優勝の裏にはインテルのCLGL4位敗退でリーグ戦に集中できたという環境的要因がある。

さらにユベントスがピルロ新監督という賭けに負けたこと。ミランが復活を果たしたが若手中心であること。アタランタは大エースパプ・ゴメスが退団しながらもCLベスト16まで進出したこと。これらのインテル以外のセリエA上位クラブは欧州でも結果を出しつつ、リーグ戦では苦しんでいたという背景があった。

手放しにコンテ監督の手腕を褒めがたいスクデット獲得だった。

3度闘魂

このシーズン後にコンテ監督はインテルの監督を辞任する。理由はインテルの中華資本がコロナ禍の影響で財政的に厳しく、主力選手の放出を避けられないと判明したためだ。ここでコンテ監督とインテルの意見が食い違い、結果としてコンテ監督辞任となった。

ただ、インテルとコンテ監督の間の関係が悪化したというよりは、コンテ監督もインテルも合意の上での辞任劇という雰囲気であり、そこは今までのコンテ監督とは違う部分だと考えている。

燃える闘魂アントニオ・コンテという人

〇保持→パターンプレーでの3124、堅守5バック

〇パターンだからこその弱さ、ただインテルでは若干克服

〇人間アントニオ・コンテ、選手時代から妥協を許せないマン

アントニオ・コンテ泥水時代

05-06、06-07セリエBアレッツォ

初めての監督デビューはほろ苦い始まりだった。セリエB初監督も2シーズン目にセリエCへ降格させてしまう。

07-08、08-09セリエBバーリ

その次のバーリでは1シーズン目でチームを立て直しセリエB11位。2シーズン目はチームを完成させてセリエB優勝、昇格を達成する。ただ、バーリでもおそらくは、フロントとぶつかり監督を辞任。

09-10セリエAアタランタ

セリエB優勝の実績を引っさげて、セリエA所属のアタランタ監督にシーズン途中に就任。しかし、成績は3勝4分7敗。そのまま解任されてしまう。

セリエAレベルで通用していなかったのは驚きだった。おそらく、シーズン途中からの就任だったため戦術をチームに落とし込めなかったのだろう。ここで一旦監督としての出世コースからは外れてしまった形となった。

10-11セリエBシエナ

しかし、コンテはセリエBシエナの監督に招聘され、そこ再び結果を残す。シエナをセリエB2位まで押し上げ自動昇格権を獲得。

ここに目を付けたユベントスが11-12シーズンに監督として招聘する。このときもユベントスからすれば、第1候補ではなかったと言われている。

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