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それ、指導案に書く必要ある?

言葉による見方・考え方って何???

職場の後輩がとても困っていたので、どうしたのかと尋ねたら「言葉による見方・考え方が書けません」と頭を抱えていた。小学校では新学習指導要領が本格的に施行され、指導案にも単元構想図に中に位置づけて書くのだそう。これそのものはそんなに難しいものではない。実験やグラフなどに頼らず、言葉を使って様々なものを説明(表現)できるようにしてくださいな、というようなもの(であると私は勝手に思い込んでいる)。

国語という教科は他の教科とは違って何か特別なものなのだろうか。確かに、他の教科に波及することが多い。だから、今回のことも、国語における言語活動は他教科に大きな影響を及ぼすからちゃんと国語を勉強してくださいと10年前に言われて、それが形を変えただけで言われていることは同じようなことなんだと思っている。

ところが、指導案に書くとなるとこれが書けない。

社会的な見方・考え方や数学的な見方・考え方とはやはりどうも違う。国語的な見方・考え方とは表記されておらず、言葉による見方・考え方となっている。なぜだ?

他教科とはやはり一線を画す国語科

たしかに、言葉は共有され意思を疎通できるツールである。文字である場合もあるし手話等である場合もあろうが、言葉である。当たり前だが、言葉は国語の時間だけに使っているはずがない。どの教科においても言葉を介して意思の疎通を図り言葉を介して理解をすすめている。

なので、言葉による見方・考え方を考えたとき出てくる答えは、日本人としてしっかりと言葉を自由自在に操れるようになりなさい。(操れるようにさせなさい。)ということだろう。いやー、これはとても大変だ。

そもそもひらがなは女性が作り出した文化だし、その前に使われていた文字は漢字でありこれは外国から伝わってきたものだ。その当時使われていた言葉と現代語とは大きく形が変わっている。それは、誰かが指示をして変えたものではなく、使いやすく便利なものに進化していったと考えるのが自然。(細かく研究すればそんな単純なものではないと怒られそうだが……。)

私は、「おいしい」とき「やばい」とは言わない。でも、多くの人が「ヤバい」と言う。

この表現を規制することはできない。むしろ、言葉の可能性を広げている。なしくずしとか確信犯とか、本来その言葉がもたなかった意味も、使う人が多くなったら、それが新しい意味として通用している。(魯迅の故郷みたい。)

だから、そんな言葉遊びみたいなものに時間を使うのはもったいないと後輩に話したら、それでは指導案がOK出ないから帰れないって。

「ねらい」とも「手立て」とも違う、「言葉による見方・考え方」って何さ?言葉を自由自在に使いこなせるようになるために、新しい言葉をどんどん獲得していこうよ、でええじゃんか。

んー、時間がもったいない。もっと、授業が上手にならんと。そのために指導案を書くなら賛成だが、上役のOKのために指導案を書くのはちょっとずれてる気がするなあ。

なんか、順番が違うんだよなあ。

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