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落語には耐えられない? 子どもたちを変化させたのは国語科なのか

前回の記事(個性の尊重とのバランス オールマイティーを求める矛盾)でM-1を引き合いに出した。国語科はどこへ向かっているのか。ある意味の嘆きにも捉えていただけたようだが、なるほどと大きく頷けるコメントををいただいた。

M-1をまったく見ていない上でのコメントなので的外れかもしれませんが、との断り書きをした上で、M-1は漫才のチャンピオンを決める大会であると認識しています。漫才は、持ち時間の中でネタを振り、ボケとツッコミを交えながら、最終的なオチにもっていく掛け合いの過程を楽しむものだと思っています。
昨今のテレビ番組は、漫才をあまり放送してないように思いますし、1分のネタも、3分のネタも、5分のネタも、小ネタの繰り返しで成り立っているように思います。その方が視聴者受けがいい(視聴率が取れる)のでしょう。
面白くないところをつまんで面白いところだけを放送する、もしくはちょっとしたボケとツッコミで単発の笑いを取れる、そういう瞬発力の高い芸人がテレビに求められているのだと思います。今年のM-1の優勝とテレビの露出の関係から、アドリブの面白さや一発芸(瞬間芸)的なものが求められる
世相と、漫才の精度の高さにギャップが生じてきたと読めるとも言えますが、厳しく言えばメディアにでられないというのはアドリブがきかない、瞬発力はない、ということもできるかと思います。ただ、M-1の優勝は、単発の小ネタの詰め合わせでなく漫才として評価してくれていると、個人的にはうれしいです。
そういう意味では、落語を聞かなくなった、聞けなくなった子どもたちが瞬発芸ばかりを好んで見るようになったことと、国語力が落ちていることは無関係ではないだろうと思います。
NHKのディレクターが、かつての中継といえば15分くらいを現場にまかせていたものが、今は2,3分で切り替えないと視聴率が下がってしまうことと、その結果、現場から5分以上の中継をできる人がいなくなってしまったと嘆いていました。耐性がなくなってきたのは、子どもだけの話ではないようです。
携帯メールで予測変換を使って文章を書くような世代に、「じぶんを表現すること」の重要性をいくら説いたところで、如何に楽してその技術を習得するかには腐心しても、その後ろにあることばの豊かさには一顧だにしてくれないのだろうなぁと絶望的な気持ちになったりもします。おたがい、がんばりましょう。

なんとも耳の痛い、胸につきささる言葉だ。国語力の低下は明らかに文化の衰退につながる。便利になっていくことを否定するつもりもないし、それを受け入れないつもりもない。しかし、進化していく過程においてなくすべきものとなくしてはならないものは存在しているはずである。国語力は国語科だけでなく他の教科にも影響を持っている力だ。

テレビをつまらなくしてしまったのは視聴者であり、その視聴者を生み出しているのは教育であったんだな。

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