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自らに問いながら今日も大人を生きる あの頃の自分に会えたなら

少年の頃、あれだけなりたかった大人に、今本当になりたくなかったと言えてしまうのは、あの頃は大人という言葉に憧れていただけであって、大人という本質の部分を見ていなかったからなのだろう。早く大人になりたいという気持ちが先立ってそれを見ようともしていなかったし、むしろそれを見たくもなかったかもしれない。自分だけは違うというような一種の傲慢な勘違いも手伝って。
あの頃はただ、自由がほしかっただけ、責任の伴わない自由が。

いざ大人になってみると、自由とは常に責任が伴うものだと気づかされる。あの頃夢にまで見ていた自由が、もう自由ではなくなっていることを自覚したとき、すでに臍を噛むことしか残されていないという無残な己の姿を鏡で見ることになるとともに、それに徐々に耐えられなくなってきているという毎日を繰り返す。
次第に生きる意味さえ見失うかもしれないが、そこに諦めとか見ないふりとか、いわゆる「大人」が子どもにするなするなと言っているものを自らするようになったとき、ようやくかろうじてなんとか生きていられるのかなと思われる。
大人になることは、楽しくもなんともなかったということなのだろうか。

大人にだけ許されている酒とかたばこ、車の運転なんかも、実は大人が生きるための言い訳に使うものと考えれば、もしかしたらつじつまが合ってしまうかもしれない。
大人たちがわいわいとお酒を飲みながら、車の話や釣りの話、時には仕事の話をしていたのを、羨望の眼差しで見ていたのは遙か昔。しかし、あの頃確かにそれは楽しそうに見えたのだ。自分も早く仲間に入りたいと思って背伸びをしながらジュースを飲んでいたのだ。
もしかしたら、そこに本質があったのかもしれない。楽しそうに見えていたその裏側にある葛藤を、自分は見ることができなかった。
今、楽しいとは?


言い訳だけど、その頃の大人にも問題があった。まだ子どもだからという言い訳の元に、彼らも大人の本質を見せようとしていなかった。隠せるモノはひた隠しに隠して、大人とは楽しいことだよ、生きるとは楽しいことだよという嘘を見せていた。
諦めるな!見てみないふりするな!正直者が馬鹿を見るようなことするな!と。
そして、あるとき急に、その全てを大人自ら否定し始める。自分のものさしを使って、近くにいた子どものことを大人になりつつあると見極めた途端、そろそろ諦めろ、見ない方が良い、知らんかったことにしろ、と本質を語り出す。時に押しつける。
小3ショックとか中1ショックとか、そんなものとは比べものにならないだろうショックに耐えられた者だけが、大人として生きることを許される。諦めながら自分の心を見ないフリをして、気づかないフリをして生きていく。鏡に映る自分の目は見ずに、服装と髪型だけ整えて今日も外へ出る。

まれに、大人の中にも信じてきたモノを信じようと自分の信念に一縷の望みを託して生きようとする者がいる。だが、それは社会からうっとうしいやつとして扱われたり変わったやつとして見られたりしてしまう。たぶん、諦めていない人が少数派で、諦めたやつが多数派だから。
そういう大人は時として“暴走気味”だなんて揶揄される。その人は確かに暴走気味なのだろう。しかし、それは本当に暴走なのだろうか。誰かの手に負えなかったからそれを暴走と表現するしかないのか。誰かのものさしが、その人を計るのに足りているのか足りていないのか。見極めは難しい。
往々にして、そういう場合見極める側の立場が上の場合が多い。下の声は消されていく。大人として生きる資格がないという烙印を押されたかのように。

消された声を拾い、見極める目を開け払え。
真実の器に欺かれぬよう。

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