佐藤瑞季さんの写真 【女たちの邪魔をするな】

世の中では今年の春も「百合展」というものが開催しているらしいですよ。

斜に構えているつもりはないのですが、実はあまり興味を持てなかったりします。
出展している作家さんの中には好きな作家さんもいるのですが、情報を調べると、日本のロリータ寄りな美的感覚において「かわいい」とされる女の子のイメージがずらりと並ぶビジュアルイメージに、「ああ私はここにハマれない」と思ってしまうのです。

「百合展」では何人かの写真家による「百合」をテーマにした写真展示もあります。展示している写真家の方々が普段どんな作品を撮っているのかは知らないし、きっとそれぞれに、自分の表現を持っている方々なんだと思います。

ただ、私は「百合」と銘打たれて展示された写真に納得できたことがないんですよね。
それはなぜなのか。
自問自答する中で、とある写真家さんの写真について語りたいと思いました。それが、佐藤瑞季さんです。

寄りかからない女性たちの写真






著作権の問題があるので、ご本人のTwitterから埋め込みでご紹介させていただいています。
ここからでは全体が見えない写真もあるので、ぜひご本人のページに飛んで写真の全貌を見ていただけたらな、と思います。

佐藤瑞季さんは、「百合」ということを意識して撮っている写真家ではありません。でも、だからこそいいのかもしれません。
彼女の写真の中の女性たちは、関係性に寄りかからず、一人ひとりが輝いているのです。

佐藤さんは男性モデルの写真や男女モデルが一緒にいる写真も撮っていますが、そういう写真においても「性別」というものにまったく意味を持たせていない感じがします。

「性別に意味を持たせない」ということは、わざとそうしなければ実現する、ということではないと思います。
すでに社会の中に厳然としてある「女性性」や「男性性」を無化し、「一人の人間」として存在させる。そんなことをどうやって写真において実現しているのか。視覚イメージの作品制作においてまったく門外漢の私には、想像もつきません。

ただいえるのは、彼女の写真のモデルたちは、ひとりで写っていても、ふたりで写っていても、一人ひとりの命が内側から輝いているのを感じるといういうことです。

「女たちの邪魔をするな」と自分で言える女

かつてコミック百合姫に連載されていた『百合男子』という漫画がけっこう話題になりましたが、あれはまさに、女性同士の関係性を客体的に見ている「外野」が「女たちの邪魔をするな」と言う作品だったと思います。

しかし私にとっては、それを外側から言うか、自分で言うかがものすごく重要なポイントなのです。

客体化された女の子たちの関係性を消費していても、楽しくなんかないのです。それは私にとって、価値のある「百合」ではない。

佐藤瑞季さんの写真の中の女性たちは、「女たちの邪魔をするな」と自分で言える女の子だと感じます。だからこそ私は、「これが百合だ」と思うのでしょう。

最後に佐藤瑞季さん自ら、女性に「消費されて欲しくない」「内面はメラメラ燃えているんだぞという、その子自身の生き様を出していきたい」と語っているインタビュー記事をご紹介して終わりたいと思います。
こういうことが、私の「百合」であり、「女たちの邪魔をするな」なのです。

文・宇井彩野

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