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地上の愛とはコミットメント

心理占星術の大御所が次のような投稿をされていた。ーー占星術でよく使われる「火地風水」の心のエレメントは、仏道では「煩悩」のようなものであるーー


おおお~それわかる!ユリシスはほぼ火と風の成分だけでできている。地がゼロ、水は土星と月のみ。実質、水もシングルトンにあたる。歪みの加減(生来のアンバランスさ)がなかなかダイナミックだ。大御所は続ける。


でも、そこを見つめつつ抑えつつ「煩悩:エレメント」を鍛えて「菩提:慈悲喜捨」へ向かうように努めることができる。「煩悩:エレメント」は人間に身体があり心があるから備わるもので、これが持たざるを得ない理由とは、やはり「菩提という愛の行為」へと向かわせる大事な装置だからだと考えている。


エレメントは才能であり魅力であり、同時に煩悩・自我の歪みでもあるのだ。月という天体の特殊性を抜きにすると、おおむね、私たちはこの火地風水・4つのエレメントのアンバランスさによって、苦しみ悩み、世界とぶつかり、独特の知覚の歪みを生じさせている。


しかし、人生とはよくできたもので、欠けたエレメントや少ないエレメントを補おうとする強い無意識が働く。その上、欠けたエレメントの性質を持つ他者が、必ず近くにいたりする。私の場合は地の太陽を持つ人たちに継続性や積み重ねの大切さを教えられ、水の要素が強い人から多くを学び、また成長させていただいた。(なかなか厳しい学びだったなw)



そのようにして、強いエレメントの良さを活かしつつ、欠けた性質を補いながら、私たちはバランスを取っていく。けれども、欠けた要素はやはり弱い。どうしても弱い。だからこそ、その欠けた視点からジャッジメントを下す。それを補い続けるには訓練や意識づけが必要になる。



前回の記事で登場したデイジーから、私はとんでもない気づきを与えられた。彼女は風と水が強く、特に、水の受容性と純粋さの極みだ。魚座太陽があまりにも強く輝いているゆえ、水の本質とは何なのか?彼女に触れるだけでそれがわかる。わかってしまうのだ。


その時、私はガクゼンとした。私に足りないものは圧倒的に水だった。人の感情がわからないわけじゃない。感情を感知することが水の本質ではなかったのだ。そうじゃなくて、もっともっと根源的なものなのだ。水の本質とは「ただ感じているということ」「今、この瞬間を感じて抱きしめていること」ただそれだけだった・・・



火と風が強い私は、すぐに解決策や結論を求める。それはもはや無意識的反応なのだ。毎日の生活の中で、解決や理屈や目的なんかを一切抜きにして、ありのままをただ感じるということ、それが水だ。それ以上でも以下でもない。ただ感じる。ジワ――っと感じる。それだけなのだ。



私は「施設に入っている認知症の母は、本当のところ、どうしてほしいのだろう?」とデイジーに訊ねた。「お母さんは、認知症になる前から、自分の気持ちがわかりませんでした。自分が何をしたいのか、どう感じているのか、わからないこと自体がわからないんです・・・」



じゃあ、私、どうしたらいいの・・・そう思った時、デイジーは続けた。「何もしなくていいんです。何かをしてほしいなんて思っていません。お母さん、わからないんだね。わからないことがわからないんだねとジワーっとしてみてください。ジワーです。ただジワーっとするだけです。」



あぁ、デイジーが伝えてくれていることは、解決法や理屈じゃない。ただ認めることであり感じることなのだ。人は理解されることで、心から共感されることで、最後の救いを得るのだ・・・


それは例えば、ゴミにも愛と敬意を払っているか?食べる時に食物の命を感じているか?体の声を聴いているか?今この瞬間、地球の美しさに、生きていることに、ジワ――をしているか?そういうことなのだ。ジワーができない時、ジワーをしてほしくて、体に痛みが生じたり、感情が苦しくなったりする。それはスピリットからの声なのだ。



私はすぐに急ごうとする。急がなきゃと思う。(月の影響で)ムダに義務感や焦りを感じる。自分を追い込んで苛めようとする。でも、本当はすべてをジワーと感じることからなんだ。そうしないと、知らないうちに命や魂の在り方から脱線してしまうんだ・・・



月は恐ろしい。その強制力はハンパない。その上、私たちはエレメントの歪みを持っている。欠けている要素は意識的に訓練することで獲得はできる。けれども、完璧になんてなれない。なれないのだ。



完璧にはなれないということを知った上で、できるだけ歪みを戻していく。それは痛い。とても痛い。そして、だからこそ、覚悟とコミットメントなのだと思う。私は自分が愛を知っているかどうか、わからない。ただ、ひとつだけわかるのは、「受け入れることはできる」「決めることができる」ということだ。


自分を受け入れる。相手を受け入れる。今、この人生を受け入れる。歪みを持って右往左往している私たちが、本当に「愛する」ことができるのか、それはわからない。だからこそ、地上の愛とはコミットメント・覚悟なのだと思う。


パートナーや配偶者を変える?人に変わってほしいだと?そんなの無理だ。受け入れられないこと、相手への怒り、それもまるっと引き受ける。そう覚悟する。何もかも「自分で決める」しかないんだよね、私たち。


怖いよね、誰だって。痛いんだよね、誰だって。みんな歪みを持っているんだもの。でも、歪んでいるんだなと「わかっていること」はできる。自分はアンバランスなんだと「わかっていること」はできる。その上で、自分を開き続けていようとコミットメントすることはできる。それが地上の愛(菩提という愛の行為)なのかもしれない。

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