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映画「MINAMATA」を観て

先日、Uniさん主催の試写会にご紹介いただいて、「MINAMATA」という映画を観てきました。

招待をいただく前、映画公開のニュースを見たときから「写真を撮る人間のはしくれとして観ておかねばなぁ……」とは思っていました。しかし、コロナなどのヘビーなニュースが流れ込む毎日に私自身が疲弊してしまっていることもあり、「観に行くにはパワーが必要だよな」と思って少し尻込みしていたのも事実。

そんなタイミングだったので、観る機会をいただけたて、とてもありがたかったのです。

※ 以下、具体的なネタバレはしませんが、ストーリーに触れた記述があります。また、台詞の引用は記憶に頼っているため、必ずしも一言一句正確ではないことをご了承ください。
※ また、今回の試写会は、お仕事としてお呼びいただいたものではありませんでした。こうしてnoteを書いているのも、完全に私個人の意思によるものです。そのため、PR表記はございません。

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※ 本note内の写真はすべて、Uniさんを通じて正式な使用許可をいただいた画像です。

観に行く前にもっとも気になっていたのは、写真家のユージンと水俣病の当事者との関係性を、どのように描くのだろう?ということでした。

写真を撮るには、瞬発力が必要です。「今だ」と思う瞬間を逃さず撮れるかどうかが大事。撮る対象がたとえば空や花であれば、なんの問題もありません。しかし、相手が人の場合、そうはいきません。撮る人が「今だ!」と思っても、撮られる人はそれを嫌がるかもしれない。

「写真さえ素晴らしければ、そんなことどうでもいいしょ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ネットやSNSが発達した現代において、誰かを撮ること・そしてそれを世界に発信することは、プライバシーや尊厳を脅かしてしまうという可能性も持ち合わせています。時に、誰かの人生を狂わせてしまう危険さえ孕んでいます。

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数十年前の写真集を見ると、ショッキングな人物写真によく出会います。そのたび疑問に思っていました。写真家は、撮る前に声をかけたのだろうか。なんらかの人間関係を結んでから撮っていたのだろうか。過去に生きていた人たちはいったいどう思っていたのだろう。そして現代に生きる私は、どう受け止めたらいいのだろう……?

「MINAMATA」で描かれていた時代は1970年台ですが、映画の公開は2021年。当時と今では、写真に対する意識や感覚も違うはずです。「過去」の描写とはいえ、観客として映画を観るのは、「現代」に生きる人々。病気や公害の現実を「撮る」という行為を、いったいどのように描写するのだろうと気になっていました。

では、実際に「MINAMATA」はどう描いていたか?劇中で、印象的なシーンが2つありました。

1つ目は、「(水俣病に罹った女性を)撮影させてほしい」と頼んだユージーンが、「かんべんしてください」と断られる場面。

そして2つ目は、病院の患者さんに撮影許可を取ろうとした際、「撮ってもいいが、顔だけは写さないでほしい」と言われるシーン。

この両方で、ユージンはシャッターを切りませんでした。

劇中で彼は「ときに写真は1000の言葉に値する」という印象的な台詞を口にします。テレビもネットも普及していない時代において、一枚の写真が持つパワーは計り知れないものだったことでしょう。映っているのが戦争や病気といったショッキングな内容であれば、なおさらです。

それでも、「撮られたくない」という相手の気持ちを汲むことを重ねて描いていた。そのことが印象的でした。

この映画は、「声を上げること」の大切さを描いた映画です。声なきものたちが命をかけて戦ったこと・今も戦い続けていることを伝える映画です。しかし、「何がなんでも撮る」という姿勢を良しとはしなかった。また、具体的には書きませんが、写真を撮るとき、撮る人間も同時にダメージを受けたり、傷ついたりするのだということも描かれていました。

史実はどうだったのだろうと思い、図書館でユージンのインタビューを探してみたところ、『不知火海ー水俣・終わりなきたたかいー』という本の中にこんな発言が見つかりました。

「自分が外部のひととしてはいって撮るのが彼らを恥ずかしいめに合わせるというより、心痛めさせる場合は、自分は撮らない。」(p272)

※引用は原文のママですが、本来は英語です。

相手の心を痛めさせてしまう場合は、自分は撮らない。写真を見るだけではわからなかった彼の姿勢について、触れることができたのは映画のおかげです。


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◆そのほか、鑑賞メモのようなもの

日本が舞台だけれど、邦画ではない。それがとても新鮮で、映像としてもおもしろかったです。ロケも日本国内ではなくセルビアで行われているため、草木や海辺の雰囲気、建物のつくりに異国情緒を感じることができて興味深い。

映画において緻密な時代考証がなされていたり、リアルな当時の様子が再現されていることは評価されるべきことですが、特にこの映画においては、大切なのはメッセージ。必ずしもリアルさ「だけ」が大切ではないのだと気づかされました。

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映像についても、いわゆる「邦画的」なトーンではなく、まるでトイカメラのような強いコントラストで描いてあるのが新鮮でした。夜の日本家屋の照明がネオンのような鮮やかなグリーンだったり、夕方の工場が強めのブルーに包まれていたり。無意識のうちに私の中で出来上がっていた「邦画っぽい色」という固定観念が崩れて、おもしろい体験となりまいた。

そして最後に。
今回の試写会でとてもありがたかったのは、公式から許可の降りた素材を配布していただけたことでした。普段から映画は好きでよく観るのですが、著作権上「この場面が美しかった!」と言いたくても写真を使えないという、なんとももどかしい気持ちになることが多々あります。ですが、こうして「ご自由にお使いください」と提供していただけることで、心置きなく紹介できるのでありがたいです。

Uniの皆さん、良い機会をどうもありがとうございました。


(参考文献)
石牟礼道子, W・ユージン・スミス, 塩田武史, 宮本成美 他 『不知火海ー水俣・終わりなきたたかいー』 創樹社, 1973


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