表現のズレ
数日間noteを書くのを休むと、特に書くことがないなと思ってしまう。だけど、実際には毎日書いていた時よりも精神的に遥かに健康的で、平常心を保てている。自分の言葉に揺さぶられるって、自己愛が強いんじゃないの?とか、自分に酔っているの?とも感じられて、微妙な気持ちにもなったりする。自己分析や過去の反省に過剰に時間を費やすと、心が疲れてしまうこともあるのかもしれない。
先日、友達が家に遊びに来てくれた時の出来事を動画にまとめた。友達が来る前日にDIYでベッドを作ったことも動画に含めた。翌日にはコストコと恵庭の道の駅で買い物をして、その購入品を紹介するシーンが最も長くなった。結果的に、動画のメインはそこになった感じがする。サムネイルもそのシーンを採用した。
友達の声を動画に入れようかと思ったけど、どの部分を使うのかというのは結構難しい問題だと感じて、結局省いた(ほんの一瞬笑い声入れたくらい)。自分の声を動画にちょこちょこ入れるのは自然だけど、友達の声を同じように扱うのは違うと思った。
DIYしたベッドは予想以上に快適で、寝やすいし広い。このはちゃんが枕元で気持ち良さそうに寝ているのを朝見られるのも至福。きなちゃんも来てくれればいいんだけど、起床後に私が着替えている時に寝室に迎えに来てくれる程度。みんなで一緒に寝ようよ〜って気持ちになる。ベッドは恋人が次なる展開を計画しているので、それも楽しみ。恋人はいつもワクワクさせてくれる。私も動画や日常生活で恋人をワクワクさせたい。ヒヤヒヤではなく、ワクワク!
自分では良い作品だと思っているのに、他人にはそう映らないことがある。「じゃあ、技術を向上させる努力をすればいいのか?」と考えてしまう。だけど大事なのは技術以前に「私が自分をどう見ているか」と「他人が私をどう見ているか」のずれをなくすことだと感じる。例えば、私は自分の表現を「冷たい」と思っている。だけど、人からは「温かい」「癒される」と言われることが多い。これは真逆すぎて、ずれているにも程がある。このずれは「違和感」とも言える。個性が強すぎるとしても、ずれが少ない人は届いているし、評価されていると思う。だから、ずれ=個性という単純なものでもない。このずれをどうにかしたいなら、修正や調整を試みる必要がある。とは言え私が考えてしまうのは、それだけ真逆ということは、表現の振り幅があるということ、それをもっと活かして、「どう見ているか」の範囲を広げられないのかということ。もうちょっと書きたいけど動画作りたくなってきたのでまた考えよっと。今日はとうもろこしの動画作る!
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