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「BooBoo太郎。」にラーメン食べに行くだけの話 後篇

 「えっうそうそ」「そういうこと!?」など意味不明なことを口走り、みっともなくうろたえながら私はぽつんと空いたカウンター席に着いた。夫はなにか口をパクパクさせていたが、マスクをしているので読唇すらできない。いつも冷静な彼が柄にもなく少し慌てていたようで、後に思い出して笑ってしまった。

 先述したように、店のシステムを乱すことだけはご法度である。言われた通りに席に座ってみると右隣の客はもうすぐ食べ終わるようだった。つまりなにか、このめくるめくような繁忙の中で、店員は最終的には私の隣に夫が収まるよう計算していたというのか!長い経験と洗練されたシステムの為せる業である。さらに、夫が隣にくるのであれば背中を二回ポンポン作戦も十分に実行可能圏内に入るということだ。300gの麺とうず高く積まれたもやしキャベツを目の前に蒼白になる自分を想像し、身を固くしていた私は一気に脱力した。

 そうと分かれば何も心配することはないと、カバンからスマートフォンを取り出してTwitterを巡回し、ひとしきり見終わるとカウンター席に座る他の客を観察した。多くの客は店先の自動販売機で購入した黒烏龍茶をテーブルの上に置き、時折黒烏龍茶で口いっぱいにほおばった麺を流し込み恍惚の表情を見せ、また一心不乱にラーメン鉢に覆いかぶさった。言われてみれば普通のラーメン屋によくある、傾けると氷がガランガランと大げさな音を立てる水のピッチャーはどこにもない。あの黒烏龍茶は体脂肪の悪あがきが目的ではなく、唯一の水分なのだ。私も周りの客にならって、黒烏龍茶をテーブルの上にスタンバイした。

 ゴール間際の一本道でラストスパートを走る右隣とは反対の左隣の席には、一緒に来た男性二人が並んでラーメンを食べていた。ぷつぷつと交す会話から想像すると、私の真隣の男性が先輩、その奥が後輩らしかった。二人とも黒のTシャツにジーンズと、ホリデースタイルがパーフェクトにリンクしており、休日に一緒にラーメンを食べに来るほど仲がよいとは微笑ましい。「野菜マシマシ、カラメ、ニンニク、アブラあり」とこだわりの注文をするあたり、この店にはよく来るようだった。

 先輩も後輩も、ズズ、ズズズッと美味しそうに、顔に飛び散る脂など気にも留めず二郎特有の重たそうな太麺を啜っていた。先輩が口の中のものを飲みこみ、麺の上に雪崩れるようにかぶさる野菜をかき分け、やっとこさ次の麺を箸で持ち上げ勢いよく啜ったその時、後輩がなにか先輩に話しかけた。先輩は応えようとしたがうまくいかず、グフグフッと咳込む。

「むせるのは人生だけにしてくださいよ」と先輩に笑いかける後輩。

 先輩は喉が暴れるのを抑え込みながらなんとか麺を飲み下して、また箸を野菜の下へ滑り込ませながら右の口角を僅かに上へあげた。

 再び訪れた沈黙。聴こえるのは咀嚼音ばかりの世界であった。

~完~


…いや待て待て待て。全然意味がわからない!!!!

 これはあれだろうか、アメリカンジョークならぬ、ジロリアンジョークなのか。私のようなにわか二郎ファンには理解できない高尚な次元のやりとりを盗み聞きしてしまったのか。あとで夫に確認せねばなるまい。
 …それともこれはどうだろうか。「むせる」イコール「きどうに入る」、つまり「気道・軌道」に入る、すなわち「人生が上手く軌道に乗っている」という意味であり、先輩の順風満帆な人生を少し羨んでいる気持ちを何故かこのタイミングで匂わせたくなり、冗談ぽく吐露してみた、とか!?

 これだ!と解釈した途端、おかしくて堪らなくなってうつむいたまま肩を震わせた。この時ほどマスクを着用していたことに感謝した瞬間はない。一人鼻息荒くカウンターの木目を見つめ、内なる笑いの神が荒ぶるのを鎮めていると

「麺の量は少なめでいいですか?」と、カウンターの上から男性店員の声が降ってきた。

「あっ…半分でお願いします」
 この店までの道中夫と繰り返し練習していたセリフが脊髄反射的に口から出ていた。
 背中を二回ポンポン作戦はその真価を発揮することなく、あっけなく散ったのだった。

 その後は、一足先に見事完走した右隣の客が立ち去ったあとの席に夫が座り、同じように麺の量を受け答えした後すぐラーメンが眼前に運ばれてきた。ラーメン鉢は受け取ったその瞬間から脂でぬるぬるで、そこから放たれる湯気は浴びるだけで豚の脂が絡みつく気さえするようにコッテリと濃厚だった。

 味の感想は、私ごときが語って許されるのかというほどうまかった。あんなに生粋の豚骨スープなのに臭みは一切なく、食べ始めは二郎にしては味が薄目だと感じたが、食べ終わる頃にはこれ以上しょっぱかったら完食できなかったと思えるほど口の中にかえしの風味が蓄積していた。夫などはカラメで注文したうえ、もう少し濃い目にしても良かったなどとほざいていたので、その内塩分過多でなにかしらの体調不良を訴える気がする。分厚い二枚のチャーシューは箸で容易に切れるほど柔らかく絶品だったが、終盤に差し掛かるとかなりきつかったので可及的迅速に倒しておくことをお勧めする。
 一心不乱に食べ続け、途中で口をリフレッシュするために飲んだ黒烏龍茶の爽やかさと言ったら筆舌に尽くしがたい。自動販売機一段と言わず、全段しかも500mlで販売するべきである。

 味にも量にも大満足し、最後は自らの呼気が鮮明に思い起こさせるラーメンの脂の匂いに若干うんざりしながら、私たちは店を後にした。

そういえばあまりに夢中になってラーメンをすすっていたので、あの左側に座っていた男性二人は気づかぬうちに退店していた。
 夫にあの二人のやりとりと私の解釈を伝えると「なんじゃそら。おもんない!」と一蹴し、その話題に対する興味を失ったようだった。


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