映画の感想『すずめの戸締まり』
実は新海誠監督作品にあまり縁がなく、今回子供が『すずめの戸締まり』を観に行きたいと言うので、あわててNetflixで『君の名は。』『天気の子』を観た者です。なので、あまり新海誠監督に詳しくない人の感想としてお読みください。
以下ネタバレありますので、未見の方はご注意ください。
前情報ほとんどなく行ったので東日本大震災関連のストーリーとは知らずに観ました。序盤から息つく間もなくエピソードが連続し、舞台は東北へ。
すずめのしぼりだすような「お母さん」や大勢の「いってきます」、基礎だけが残された住宅地。当時の空気や風景を思い出して胸がしめつけられ涙が出てしまった。結構号泣してしまったと思う。風景の作り方が本当にうまい。
ということを前提として、ちょっとあれっ?と思ったところもあり。(でももしかしたら新海監督のインタビューとかを丹念に読めば全部解説されているのかもしれない)
1つは「忘れ去られた土地=廃墟」にある扉からみみずが出てきてしまうと地震が起きる、それを封印するのが「閉じ師」のお仕事という設定。では忘れられた土地がなければ地震が起きないのか?というと絶対そんなわけないし、廃墟になった理由は様々なのに結果として起きる事象が必ず地震というのもいまいち腑に落ちない。地震を人の手でどうにかできるという閉じ方もおこがましく感じる。
村上春樹の『かえるくん、東京を救う』をモチーフにしているとどこかで読んだが、廃墟と地震のストーリーを両立させようとしてごちゃごちゃしている印象がある。もちろんそういう設定の世界観なのでということで受け入れるしかないのだが、なんかすっきりしない。
もう少し単純に「かつて人が多く集まり今は廃墟となっている土地にはたたりが生まれやすい」という呪術廻戦的アプローチでもよかったんではないかしら。被災地にたたり、というのが受け入れがたかったのかもしれないが、その方が日本神話モチーフとの相性を考えても納得しやすい。
もう1つはダイジンの件。要石にされていた猫のダイジンについては作中で詳しく説明はされていないのだが、行動からすると幼い子供を思わせる。鈴芽に「うちの子になる?」と言われその気になってもらわれて(子供になり)鈴芽を独占しようとする。これは母を亡くして「うちの子になろう!」と叔母の環にひきとられた幼い頃の鈴芽と相似形になっている。
ダイジンに気安く「うちの子になる?」と言ってしまった鈴芽は、代わりにひとめぼれの相手である草太を要石にしたと言われて激怒する。環はサダイジンによってかなり誇張させられた形ではあるが「結婚もできず人生を犠牲にしてきた」と鈴芽にまくしたてる。それに対してダイジンは横で牙をむく。
結局鈴芽の選択として草太は元に戻り、ダイジンは役割とはいえ常世でひとりぼっちで寒々と過ごすことになるわけだが、最後まで鈴芽は無自覚だったように思う。少しは心を痛めたようだがそれだけである。ここまで鈴芽の分身として描いてきたのに?まあ猫だし、っていうのもありそうだが(人間の子ならだいぶ印象違うよね)、猫飼いとしてはいささか耐えられないものがあった。
なんかこう、もう少しこのあたり丁寧に描けたんではないかしら?とにかくエピソードが多すぎて全部駆け足なんである。
などと書いてきたが、結局「鈴芽がよくわからない」というところにつきるのかもしれない。どんな子供だったんだろ。実の母ではない叔母に育てられ、わがままをぐっと飲み込む子供だったのか、足りない愛情を求めて独占しようとする子供だったのか。高校生となった鈴芽は過保護気味な叔母と彼女に対する罪悪感から逃れたいと感じているようだが、「私は草太さんのいない世界が怖いです」と言うほどひとめぼれの相手との関係に突っ走るのも若さだけで説明していいのかなんだかよくわからない。この旅自体が自分の居場所がないとずっと感じてきたゆえの行動ということなのかなとは思うので、もう一歩踏み込んだ描写がほしかった。さきほどのダイジンとの関わりがなんだか中途半端に終わってしまったことと関係しているようにも思う。
でも、たぶんそんな理屈ではなくて、もっと素直に鈴芽とともに震災後12年を経た日本を旅するべき映画だったのかもしれない。イメージの乱発で全体のストーリーがぼやけてしまった気がしたが、ただイメージを受け取ればそれでよかったのかもしれない。私が映画館で号泣してしまったのは、まさにそのイメージゆえであって、このストーリーそのものとは関係が無かったのだと思う。
行く先々で優しい人たちに助けられ、最後ちゃんと叔母さんとお礼を言いながら帰る。そのエンディングはよかった。ただちょっと『魔女の宅急便』ぽかったかな…。(というか全体的に宮崎駿作品のイメージが見え隠れするのはわざとなの…)