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【貴賓室内覧会】短編100枚

貴賓室内覧会

                           古鷹狩百合子


私は雨の中を、靴が濡れないように意識を向けながら、暗い気持ちで歩いていた。自分のアパートを出てから数分しかたっていないのに、天気のせいで気分が落ち込んでしまった。昼下がりにも関わらず、黒黒とした雲が、空一面に立ち込めていて、ちょうど数年前にロンドンを訪れた時の印象が思い出された。ロンドンに着いたあの日も、ちょうど今日のように曇天で、東京よりも空が近く感じられ、子供のころに押し入れの下段に閉じ込められた時のような絶望感を感じた。私は狭い部屋が嫌いではないが、天井の低い部屋はどうしても嫌いだった。そのためいつも引っ越しの際には、部屋の広さよりもまず、天井の高さを優先事項とした。私は幼少時よりヨーロッパが好きだったが、アルプス以北のヨーロッパ諸国は、どこでも空が低すぎて、天気の悪い日に当たってしまうと、せっかくの愛する異国旅でも死にたい気分になるのだった。


待ち合わせの物件は、私の実家のすぐ近くにあった。私は大学生になってから、同じ沿線でアパートを探し、一人暮らしを始めた。それからというもの、実家の近辺に行くことは無くなっていたため、久しぶりに訪れる自分の育った土地や駅からの道のりを、懐かしく感じていた。

当該物件の前に到着すると、地元のよく知られた不動産屋の、小ぎれいな身なりをした男が、しゃれた藤色の雨傘をさして私を待っていた。横から見ると、襟足をきれいに刈り上げ、健康的に日焼けをした首元が覗いていた。春色のポロ・ラルフローレンに、着慣れたコットンのスラックスを合わせ、硬くなりすぎず、しかし清潔感のあるきちんとした雰囲気でまとめているところが、余裕のある不動産営業マンらしいと思った。左腕のヴィンテージのカルティエ・タンクが、気軽な服装を丁度良く引き締める役割を担っていた。見たところ32、3歳くらいだろうか。それにしては人生に対する余裕と経験を感じさせた。男は私を一瞥すると、手元の資料らしきものに目を落としてから、ゆっくりと私に近寄ってきた。

「西条さんですね。本日担当させていただきます、真木と申します。」

真木と名乗った男は、唇の間から少しだけ白い歯を覗かせた。顔は整っているが、どことなく違和感のある、不思議な男だと私は思った。

「西条です。本日は宜しくお願いします。」

「今日はあいにくの天気になってしまいましたね。」

 真木は慣れたように天気の話をして、二人の間にできた初対面の緊張を解いた。

「それでは早速ですが、こちらが今回の物件の概要になります。」

そう言って、真木はホチキスで閉じられた2枚の紙を私に手渡した。1枚目には物件の築年数や面積、2枚目には間取り図が大きく印刷されていた。間取り図といっても、通常の賃貸物件のそれとはまったく違うものだ。物件の金額の欄は空欄になっていた。


 その物件とは、私の実家から徒歩10分の場所にあった。実家の裏口から出て坂を登って行き、見晴らしのよい高台になったところに一軒だけある、洋風旅館の廃墟であった。父の話によると、明治時代に造られた侯爵家の屋敷が、戦後に買い取られ旅館としてしばらく営業されたのち、私の生まれる15年ほど前に、廃墟になってしまったらしい。物心ついた時から、この洒落た廃墟に私は惹かれていた。人が出入りしている様子を見たことは無いが、それでもなぜかその建物は元侯爵家の屋敷としての品格を失うほどは朽ち果てずに、不思議と威厳を保っていた。庭は荒れ果て、夏には大人の背丈を超えるほどの雑草が茂っていたが、それでも私は、いつかこの廃墟を買い取って、自分の家として修繕したいという思いは消えなかった。小ぢんまりとした造りだが、外壁をよく見ると、ゴシック風の繊細なレリーフが桟に施されていたり、薄汚れた窓から中の廊下を覗き込むと、錆びて黒く変色した真鍮のような6灯シャンデリアが、いくつも配置されていたりして、まるでヴィスコンティの大作映画のセットのような、大変趣のある建物だった。こんな素敵な建物だから、だれかが買い取って良さそうなものだが、なぜだかこれまでずっと廃墟のまま、数十年も放置されているのである。誰かが買い取って修繕保存をしていれば、国の有形文化財になったかもしれない。しかし実際はそれどころか、私が小学生の時などには、お決まりの幽霊屋敷だという噂があり、この廃墟には亡霊が住み着いており、中に入れば呪われ、生きては出られないなどという、ありきたりな都市伝説を生みだしていた。

 私といえば美術の道を志し、去年の春に美大に入ったが、丸1年が経ち、自分の中での生きる楽しみや張り合いが相変わらず見つからず、鬱屈した毎日を過ごしていた。出会う人、話をする人の俗っぽさに嫌気が差し、社会の軽薄さに嫌気が差し、人生とはつまらない毎日をなんとかごまかしながら1日ずつ消費していって、最終目標である死を迎えるのをただ待つという、意味のない余興を強要されるものだと感じていた。死ぬまでの毎日のごまかしの内容は具体的に、恋人を作ってみたり、金を稼いでみたり、旅行に出てみる、といったものである。

 そんな鬱屈した毎日を送っている中で、つい1か月ほど前に、不動産仲介をしている地元の友人と久しぶりに会うことになり、通いなれた近所の純喫茶に入り、そこで氷いっぱいのグラスに濃く注がれたアイスコーヒーを嗜んでいた。私は毎年、春から秋口までは、ホットコーヒーではなくアイスコーヒーを飲むことにしているのである。その日はちょうどホットからアイスコーヒーに切り替える最初の日だった。お茶請けとして、この喫茶店の名物であるアーモンド・フロランタンを頼んだ。お茶請けという文化は日本独特のものである、と昔だれかに説明された覚えがあるが、私はお茶やコーヒーを最大級に味わうために、上等な菓子を合わせることが、日常においての最上級の喜びだと感じていて、そんな文化がヨーロッパに存在していないということに、心底驚いたのだ。日本人は明治以降、西欧諸国の真似をして、今日までの文化を発展させてきたと思っていたが、お茶請けという慣習のように、西欧人の思いつかなかった楽しみを、日本文化の中に見つけるたびに、自分のなかでずっと大切にしようと思うのだった。私のお気に入りのお茶請け菓子は、アーモンド・フロランタン、六花亭のバターサンド、そしてラム酒入りのガトー・ショコラに、軽く泡立てただけの甘くないクリームを添えたもの、などであった。

私と友人は、コーヒーとアーモンド・フロランタンを交互に口に運びながら、たわいもない昔話にしばらく花を咲かせた。コーヒーが残りわずかになったころ、友人は私に、信じがたい話を始めた。なんと、あのいわくつきの洋風旅館が、物件として売り出されている、ということだった。公には情報を出しておらず、条件に合った顧客のみを推薦するように、という条件らしい。私がやたらとその洋風旅館を気に入っていたことを、友人はよく覚えており、この話を必ず私に伝えなければならないと思ったらしい。私は友人にそう思わせるほどに強く、昔からこの廃墟に魅了されていたのかと、少し恥ずかしく思った。

とにかく、友人の説明は鬱屈した日々を送っている私の心を躍らせるために充分だった。そうして、当然、気になってしょうがなくなってしまった私は、友人にこの廃墟を内見させてもらえるように、強く頼み込んだのだった。

真木と私は、傘を折りたたみ、洋館のエントランスの前に並べて立てかけた。エントランスは石畳で、私は子供の時に、このあたりまでは足を踏み入れたことがあった。昔は、この玄関の扉脇に、たびたび野良猫が休んでいるのを見つけることができた。その猫はたしか、白地に黒の斑紋がまるで孔雀の羽のように入っている珍しい猫で、その高貴な印象が、この洋館の一部のように調和していた。あの猫はその後どうなっただろうか。私は懐かしさと感傷に浸った。

エントランスから中に入ると、老朽した木の、湿ったカビの匂いが鼻についた。私はこの古い家の匂いが、嫌いではないのだが、なぜかこの匂いの中にいると、頭の奥がくらくらしてくるのだった。床は土足で入って良いような造りになっていた。玄関に上がる前に、タオルで濡れた靴底を拭いてから、古びたフローリングが、歩くたびにミシミシと音を立てた。

「この洋館は、いつから売りに出されているのですか?」

 先を行く真木の背中に向かって、そう投げかけた。

「ごく最近ですよ。持ち主の方からうちに、ご連絡があったんです。そろそろ、この廃墟を手放したいと思っている、条件の合う買い手を探している、といった具合に。」

 真木は、私がこの物件の内見の1件目であること、今日のために電気と水道を、1日だけこの洋館に通したこと、そして廃墟同然の建物に電気と水道を通すのに、いささか難儀したこと、などを説明した。そして、手元の資料に目を落として、

「それでは、ロビーから順番に行ってみましょうか。」

と言った。それから、

「長くなりますが、お手洗いは大丈夫ですか?」

と、私を気遣った。

「あ、それじゃあ、お借りしようかな。」

と言って、私は玄関から一番近いトイレを間取り図で確認し、真木を残して一人でトイレへと向かった。


トイレを出て玄関に戻ると、真木の姿が見えなかった。私は辺りを探し回った。先に、ロビーのほうへ行ってしまったのだろうか? 私は地図を確認し、ロビーのほうへと、あたりを探しながら歩いていった。

洋館の奥へと歩いているうちに、遠くに明るい水色の明かりが、扉の隙間からちらついているのが見えた。あの部屋に真木がいるのだろうか? 私は明かりに引き寄せられる蛾のように、淡い光のほうへ歩いていった。

その部屋に入って、私は目を疑った。部屋の中央に、水族館にしかないような巨大な水槽が置かれていた。天井に届くほどの高さであるが、水は半分ほどしか入っておらず、その水は薄汚れて濁っていた。廃墟になってから、そのまま放置されていたのだろうか。そして水槽を取り囲むようにして、部屋の周囲の壁に沿って数々の肖像画が飾られていた。私は興奮しながら、水槽の前へと歩みを進めた。そして数メートル歩みを進めたところで、恐怖で足がすくんだ。よく目を凝らしてみると、濁った水槽の水の中に、様々な魚の死骸が漂っていたのだ。腹を上に向けて明らかに死んでいるようなものから、もしかしたらまだ生きているのかもしれないと思わせるように、水中をゆっくりと漂っている大きな魚もあった。それは小さい魚ではなく、アマゾンで生息していそうな、80cmも90cmもあるような存在感のあるものだった。切れかかった電球がちらついており、ただでさえ不気味な部屋を、より一層恐ろしく演出していた。死んだ生き物で溢れている空間というのは、こんなにもおぞましいものなのか。その次の瞬間、私の目の前に、大きな白い濁った目をした体長1mほどのサメのような魚が、私の顔のすぐ横に来ていた。私は思わずぎゃっ、と声を上げた。死んでいるためか、大きく裂けた口が半開きになっており、そこから凶悪な歯が覗いている。私は後ずさりをしながら、部屋の奥へと歩みを進めた。


 中央の水槽を回り込んで奥へ行くと、部屋の最奥に、カーテンで禍々しく仕切られた空間があった。ベルベットのカーテンで仕切られており、その隙間から、奥に真っ暗な空間が広がっていることが分かった。私はおそるおそる、カーテンを開き、その向こうへと足を踏み入れた。そこには中くらいの水槽が一つあり、極淡い光が灯っていた。その中に、1匹の不気味な魚がいた。体長60cmほどの、口が鳥の嘴のように細長く、焦げ茶色の鱗が規則正しくびっしりと詰まった、見なれない魚だ。体はまるまる太ったアロワナのような荘厳さがあるが、悪魔のような顔つきである。そしてその魚は、もしかしたらまだ生きているのかもしれないと思った。ほかの死んだ魚と違って、鱗には艶とハリが感じられたからだ。私は部屋に明かりを取り入れるために、仕切りのカーテンを限界まで開いてから、その魚の水槽の前まで歩み寄った。そして水槽のすぐ脇にある金色のプレートに彫られた文字に目をやった。そこには古代魚の文字が書かれており、その下に『アリゲーターガ―』という文字が書かれていた。なるほど、古代魚であるから、このように長年放置されていても、まだ生きているのかもしれない。私はなぜかこの古代魚に惹かれるものがあり、魚の禍々しい顔つきに怯えながらも、さらに水槽へ顔を近づけた。

 古代魚は、まるで面接官のように、観察するような感じで私を見た。その様子で、明らかに私を認識している、そしてまだ生きている、と私は確信した。死んだ魚も不快だが、この廃墟の中で、初めて生きている魚を見つけて、さらなる不気味さと緊張感が、つま先から体を登りつめてきた。

 古代魚は、ゆっくりと私のほうを向き、片方の目玉で私の目の奥を見た。鋭い牙が一列に除く長い口元が、ゆっくりと開いた。私はその様が、なぜか、魚ではなく人間であるかのように感じた。そして、

「お前。」

と、重圧のある低い声が聞こえた。私は耳を疑ったが、それは紛れもなく目の前の魚が私に向かって発したものだった。

「お前、そこの絵をどう思う。」

 魚の視線の先には、1枚の肖像画があり、それは険しい表情でたたずみ、逞しいがどこか哀しさもあるような男が、傍らの1匹の犬とともに、油絵で描かれていた。私は状況に混乱しながらも、

「どこか寂しさを感じます。」

 と、口から出る言葉をそのまま答えた。油絵の肖像画に描かれている、剛健な表情の男とは裏腹に、背景には、繊細な装飾品が描かれている。上品でクラシックな趣味の部屋の持ち主のようだった。魚から返事が返ってこなかったので、私は追加するように、

「それと、ワンちゃんが可愛いです。」

と、フレンドリーに言ってみた。すると、

「おとなしくて賢い犬だった。並みの人間よりもよっぽど利口だった。」

と、先ほどとは変わって、愛犬家のような優しい声色で答えた。グロテスクな外見の古代魚が、そんな声色で反応したことが、少しおかしくて、私はふふっと小さく笑った。すると、

「その笑い方、変わらないな。」

と、私に向かって言った。魚も心なしか、長細い口元が微笑んでいるかのように見えた。



 私はなぜか、この魚に、どこかで会ったことがあるような気がする。それは誰であっただろうか、と、数分間、頭の中で様々な人物を取り出しては、違う、この人物ではない、とひっこめていた。そして私はある男を思い浮かべた時、ピンときたのだ。それは私の父だった。


 父は私が子供のころ、画廊を経営しながら、いくつかの美大で教鞭をとっていた。画廊経営していることもあってか、頻繁にヨーロッパに出張に赴いており、家にいない時間も多かった。父が家にいると、私は嬉しい反面、神経質で威厳のある父の雰囲気に、自宅であっても緊張せずにはいられなかった。父は特別に裕福というわけではなかったが、精神は貴族であった。人生の芸術家であり、理想主義者であり、すべての事に趣を必要とする人だった。毎日の食事や着るもの、読む本、どれをとっても、すべてが彼の美的感覚にかなうもので完全に揃えられていた。そんな父の元で育った私もまた、日常生活すべてに理想を求めるきらいがあった。

そして目の前にいる魚の話し方、厳かな雰囲気、犬好きなところも含めて、私の父とオーバーラップしたのだった。私はこの夢の中のような奇妙で不確かな状況を、しばし楽しもうと心に決めた。もし夢であるなら、覚めるまでになるべく多くの経験を、この世界でしてみたいと思った。


「この部屋にあるものは、私が長年かけて集めたコレクションの一部なのだ。昔に比べると、だいぶ数が減ってしまったが。」

 魚はそう言って、水槽の反対の際までゆっくりと泳いでいくと、

「絵画の下にあるガラスケースを見たまえ。」

と言って、凶悪な、しかしよく見れば上下不揃いで嚙み切ることが出来なさそうな歯を見せながら、自身の情熱を語り始めた。

「私は、美しいものに囲まれて生活したいという願望が強い子供だった。自分の目に映るすべてのものや、社会や、人間が美しいものだけで構成されている状態が理想なのだ。そしてそれを実現するために、私の生涯を捧げたのだ。」

 私は肖像画の下まで歩いて行った。最初は暗くて気づかなかったが、そこには私の背丈より大きなガラスのショーケースがあった。中に陳列されているものに、私は驚愕した。獅子や蛇をかたどった、色とりどりの拷問具のようなものが並べられていた。どれも拘束できるような形からそれと分かるのだが、繊細な彫刻や刺しゅうが施されているため、芸術品という印象である。素材は純金と思われるような美しい輝きの金属と、かなり上質な革などを組み合わせてデザインされていた。そのすべてに、同じマークの刻印が施されていた。

「あれは、まだ私が一八歳の春だった。芸術の道を志していた私は、予期せぬ挫折を味わった。今考えても、なぜ私の芸術が認められなかったのか、遺憾に思う。一時は自信を喪失しかけたが、しかし、私の卓越した芸術的観念、その価値を、凡庸な大人たちが理解できないだけのことであると、そのとき結論付けた。それから私は、くだらない大人どもを徹底的に見下しながら、自分の理想をひたすらに追求した。信ずべきものは自分だけだ。お前には、この私の話が、よく理解できるはずだ。違うか?」

 魚は長い嘴のような口を、ゆっくりと私のほうへ向けた。正面から顔を見ると、目が合わないので、この状態で会話をするのは不思議な気分であった。

「ええ、よく分かります。私も子供の時から、同じ気分を味わってきました。私の私があなたと違うのは、自分に自信がなく、ほとんど自分の価値を諦めているといったところでしょうか。」

 私は、ショーケースの中にある美しい拘束具を眺めながら、それらが私の身体に長年装着されているのでは、という気分になった。日常のなかで、目に見えない拷問があるとすれば、それを行っているのは自分自身か、それとも社会か…。ただ一つ、私にとっての救いは、その手枷足枷が、美しい芸術品であるということだけなのだ。

そして、この部屋に飾られている数点の絵画。暗くてよく見えないが、4,5点の絵画が壁に掛けられていたり、立てかけてあったりするようだ。ショーケースの横には、大きな二枚の扉のようなパネルに、ひとつの球体が描かれており、その中には何かひとつの『世界』が描かれていた。私はそれが、ヒエロニムス・ボスの描いた、『快楽の園』の扉絵だと気づくまでに、しばらくの時間を要した。


 

 私は腕時計を見た。この奇妙な魚と会話をするのに夢中になって、ずいぶんと時間が経過してしまった。私は、真木を待たせていることを思い出し、一度ロビーに戻らなければならないと思った。私は魚の水槽のほうに向かって、

「お話、楽しかったです。でも実は、一緒に来た人を待たせているの。また後で、ここへ来ても良い?」

と、やや親し気に尋ねてみた。魚は、

「その前に、廊下を出て向かいの扉に入ってくれ。そこで、私のかつての仕事を、お前に見てもらいたい。」

と、まるで命令であるかのような口調で言った。その後、小声になって、

「今の人間が、あれについて、どう思うのかを私は知りたい。」

と、独り言のようにつぶやいた。

 それ以上の説明を魚はしなかった。私はどうしようか迷ったが、頷いて、魚のいる部屋を出た。魚が休めるように、カーテンを元通りに閉めた。真木を探す前に、少しだけ、魚の言うとおりにしてみようと思った。


廊下に出て、すぐ向かいに、他の扉と違って竹で作られた引き戸があった。どうやら旅館時代に使われていた、浴場のようだった。その竹の引き戸を開くと、小さな脱衣場があった。私は入り口の横に見つけた電気のスイッチを入れた。和風の脱衣場に、洋風の花笠がついた電灯が灯り、あたりがパッと明るくなった。その瞬間、まるでこの場所が、最近まで使われていたのではないかと思うような、多くの人間の印象を感じた。同時に、その人間たちの滞在時間は、ごく短時間であったかのようにも感じた。シャンデリアの傘に張った蜘蛛の巣が切れて、それがゆらゆらと垂れ下がって揺れていた。蜘蛛の姿は見当たらなかった。


 脱衣所から浴室の大きなガラス扉を開くと、湯煙が顔に押し寄せてきた。湯舟にお湯が張ってあるようだった。電気と水道以外に、ガスも通しているのだろうか? と私は不思議に思った。その直後に、長年放置された何かが腐ったような匂いと、何かが焦げたような匂いが同時に、ガスの匂いを伴って私の鼻を通り抜けた。もしかして、廃墟になった後も、ボイラーが稼働しっぱなしになっているのだろうか? そう考えながら、ぬめる床に気を付けて進むと、白靄の奥に、想像を絶する光景が広がっていた。言葉ではうまく説明できないほどである。説明したとしても、決して誰も信じてはくれないだろう。


そこには、洗い場のいたるところに、アザラシやオットセイといった『海獣』の死骸と思われるものが何体も転がっているのである。自分でも奇妙な説明だということはわかっているのだが、これ以外に説明のしようがないのだ。死んでいるアザラシは、ほとんどが痩せこけており、目が白濁しているが、その皮膚はなぜかまだ光沢があり、まるで生きているかのようにも見える。風呂の中にも、数体の死骸が浮いていた。洗い場の隅には、まだ子供のような大きさの海獣の死骸が、うず高く山のように積まれていた。浴場の壁には、言葉を失うほどの残酷な壁画や、何かの実験的な抽象画が描かれていた。ここで何が行われていたのだろう? 廃墟となった旅館を、誰か頭のおかしくなった者が、悪しきことに利用していたのだろうか。いずれにせよ、私の想像できる範疇をとっくに超えている。私は残酷な物事には耐性があるほうだと自負していたが、目の前の光景は、意識をしっかり保とうと心がけなければ、すぐに気がおかしくなってしまいそうなものだった。


私は冷静に、浴場を見まわしてみた。造りはコンパクトながら、贅沢な材質とデザインで、貴族の別邸だった趣を存分に残していた。特に、大きく開けた窓の外には岩づくりの露天風呂があり、その向こうに小さな回遊式の日本庭園が広がっていた。誰かが手入れをしているに違いない。私はそう思ったが、それならば一面に散らばっているこの悍ましい死骸たちを、あえてそのままにしていることになる。そもそもこの非現実極まりないシュールレアリスム的世界観では、いかなる常識も適応し難いのだが。それに、私はこの光景を以前に見たことがあるような気がするのだ。一度や二度ではなく、何度も…。これはただの既視感なのだろうか。


その前に立ち尽くして、この摩訶不思議な光景を頭の中でなんとか受け入れようと努めていたところに、

「驚きましたか。」

と、小さいながらもはっきりとした声が聞こえた。

 振り向くと、一匹の海獣が、私に向かって話しかけていた。自身の無い、気弱な、しかし優しさをもった男の声のように聞こえた。

「すみません、さらに驚かせてしまいましたね。私は以前、ここで責任者をやっていた者です。」

 体長60cmほどの、黒いオットセイのような海獣が、そう続けた。私は、

「ああ、勝手に入ってしまって…すみません。」

と言って、頭を下げた。海獣は、立ち上がった状態からゆっくりと前ヒレを床に着き、また元に戻った。どうやら、お辞儀を返してくれているようだった。

「初めてご覧になったら、その、心臓に悪かったのではないですか? 私はもう長くここにおりますので、すっかり慣れてしまったのですが…。」

「ええ…そうですね。あなたは、ここで何を?」

 私は、なにをどう質問していいか分からず、とにかく、この気弱そうな海獣を傷つけないように、なるべく抽象的に質問をした。

「私は組織の一員であり、この施設の責任者になるよう、あの方から言い渡されました。それからここで、組織のために尽力していたのですが…。今はご覧の通り、機能を失ってしまいました。私のできることは、もう何もありません。」

 そういって海獣は、右の前ヒレを、器用に動かしながら、憂いの声色で説明した。

「なぜ、このようなことをやっているのですか?」

わたしは率直に尋ねた。

「そう、なぜ…。最初の動機を、忘れかけていました。」

 海獣は、浴室の中を行ったり来たりして、落ち着かない様子で、話を続けた。

「そもそも、私たちがこの活動を始めたのは、人殺しよりも、もっと重い罪から逃れるためでした。それが何だか分かりますか?」

 私は数秒間考え込み、首を横に振った。

「それは、我々人間が作り出した、文化や感性を殺すことです。人々から趣や情緒を奪う行為です。」

 海獣は、少し熱くなったように、弁をふるった。

「あなたにはよく理解できるのではないでしょうか?」

「どうしてですか?」

「私たちは、あなたのお父様をよく知っています。」

「えっ?」

「あなたのお父様は私たちにとって、理念の核となる存在でした。ある芸術家の集まるパーティで、初めてあなたのお父様にお会いした時から、ぜひ私たちの仲間に、と、あの方がおっしゃったのです。」

 私は、この海獣や、あの魚が、私の父と関係していることに、好奇心以上の恐怖を感じた。悪い予感が、脳内を駆け巡った。

「しかし、私は今となってやっと、このありさまを後悔しているのです。そりゃあ、私も当時は、あの方やあなたのお父様の考えに賛同し、理想的だと陶酔したものです。拝金的で浅ましい世の中に辟易し、鬱屈した毎日を送っていたせいで、何か縋るものを求めていたのかもしれません。そんな時に耳にした、あなたのお父様のきらめくお言葉の数々…。事実、心を打たれたのは、私だけではありませんでした。私たちのほかにも、目の行き届かない場所で、何万人、何十万人の賛同者がいたようです。」

 私は辺りに散らばる海獣の死体を一通り眺めてから、」

「私の父は、この会で何をしていたのでしょうか。」

「あなたのお父様は、私たちの支柱的存在でした。独自の理想をもち、この時代を変えるという強い意志をお持ちになっていた。あなたのお父様を一番敬愛なさっていたのは、他でもない、あの方です。私よりもあの方に、詳しくお聞きになると良いでしょう。」

 私が聞きたかった答えのそのものは得られなかった。アザラシは後ろを向いて、もうこれ以上話したくないという素振りを見せた。私は父について聞くのを諦め、話題をこの海獣自身のことに変えてみることにした。

「あなたは、なぜ今もここにいるのですか? 何のために?」

「私は先に申し上げた通り、ここで起きていた一連の惨劇を、今ではとても後悔しているのです。何度もここを捨てて、遠い場所へ行き、自分の罪を忘れて生きようと思いました。しかし、それが出来なかった。あの方にその旨を伝えようと何度もしたのです。しかし、私の弱い心がそれを許さなかった。わたしはこの施設に、いつのまにか精神を毒されてしまったのです。ここを離れようとすると、自分の中の何者かが私に言うのです。お前は逃げられない、と。」

 私はここで想像もできないような残酷な行為を、この目の前の海獣が行っていたこと、そしてその過去が自身を苦しめているなら、その元凶は私の父にあるのではないか、と思った。私の知らない父の姿が、悍ましさを伴いながら、私のなかで形作られてきた。

「あなたは、私の父を恨んでいるのではないですか。」

 結局、私は、父のことをまた話題にしてしまった。海獣は大きな丸い、悲しげな目をこちらへ向けて、

「いいえ。」と、間髪入れずに否定を現した。

「あなたのお父様は、基本的にあのお方としかお話になりませんでした。私は数回だけお目にかかりました。それでも十分に、彼がどれだけ偉大な思想をもった人間なのか、どれだけ美しい目と心をおもちなのか、感じることができました。あのお方も、あなたのお父様とお会いになった後はいつも、理想的世界への大きなヒントを得たように、目つきが逞しくなり、精神が高揚しておられました。お父様はかなりの影響をあのお方に与えていました。あのお方にすでにお会いになったなら、あなたも感じられたことだろうと思いますが。」

「では、あなたはなぜ、そんなに悲しそうなのですか。」

 海獣は、少しうつむいて、左のヒレで心臓のあたりを抑えた。

「私はこの近くで、2人の子供とともに暮らしていました。休日には、子供たちと川辺で蛙や沢蟹を探し、天気の良い日には乗馬やピクニックをして過ごしました。しかし、それも束の間でした。私の毎日の行いのせいで、子供たちの川は灰色に濁っていったのです。私はその日から、家族に対して心を閉ざして生きました。それから最後のときまで、一度も子供たちの目をまっすぐに見ることは、出来ませんでした。」

 こうべを完全に垂れてしまった海獣の首から背中にかけて、深い悲しみが滲んでいた。私はたまらず、

「私は、あなたのやったことはお子さんたちには影響していないと思います。私たちは家族という集団に依存して、ちょっと過大評価していると思うのです。」

と、慰めのつもりでそう口にした。海獣は、ふっとこうべを上げて、私を見ると、

「あなたのお父様も同じお考えだったように思います。そして、あのお方も、よく仰っていました。」

海獣は煤けた窓ガラスに近寄って、漏れ出す光を感じようとしながら、こう続けた。

「『私は家族というものは、実にくだらないと思っている。家族という呪い、家族がいない者への世間からの憐れみ、それらはすべてくだらない。人は自分に無条件の生きる理屈が欲しいがために、大多数の人間が持っている家族というシステムに依存する。まるでそれが宝であるかのように崇め、絶対的正義に値するものだと決めつけている。しかし、人間の価値は、人間そのものにあるのだ。両親であれ配偶者であれ、だれも本人の価値に影響するものはない。私は家族という意識をもったことは、生まれて一度としてない。私が所属しているのは、私と同じレベルの思考センスをもった人間たちのコミュニティのみである…。』そのようなことを、熱心に説いていらっしゃいました。しかし、私はそこまでドライになることは出来なかった。私は自責の念から逃れることができず、今でもここに留まるほかないのです。」

 それが父の、家族に対する本音の思想なのだろうか? 私は、父が私に常に持っていた感情は、家族としての愛というよりも、もっと普遍的な形での人間関係であるような気がした。それと同時に、特に最後の『私が所属しているのは、私と同じレベルの思考センスをもった人間たちのコミュニティのみである』という部分に、何か自分の日々の感じていたフラストレーションの解決方法が見つかったような感覚を覚えた。一瞬にして、頭の中の霧が晴れるような感覚に陥った。もう一度、魚に会って話がしたい。しなければならないと、私は部外者と話して疲れ切ったような表情の海獣を眺めながら思った。

「すみません、私、あの方ともう一度、話をしてみようと思います。」

「そうですか。それがいいでしょう。私からあなたに話すことはもう何もありませんから。私はここを離れることはありませんから、あの方に会ったらどうぞ、よろしくお伝えください。」

 そう言って、海獣は前ヒレを床につけた状態で、数秒間動きを止めた。

「分かりました。お話をどうもありがとう。楽しかった。失礼します。」

 私は丁寧に挨拶を返し、ぬめる足元に気を付けながら、見送る海獣に背を向け、浴場の出口のガラス扉を目指した。何分、何時間ここに滞在したのか分からないが、不思議と、この残酷な光景に見慣れていたことに気づいた。これ以上ここにいたら、精神が通常に戻らなくなってしまうような気がした。そう思ってはじめて、海獣がなぜここを離れられないのかが、分かったような気がした。



 私は、浴場を後にして、再び魚がいたあの部屋へ戻った。ワインレッド色のカーテンを除け、中をのぞくと、こちらに背を向けてゆっくりと泳いでいる魚が見えた。私はふかふかのペルシャ絨毯を踏みしめながら、驚かせないように、ゆっくりと水槽に近づくと、魚はこちらに気づいた様子で、この魚にしては機敏に振り返った。

「お前、戻ってきたのか。」

「ええ…向かいの部屋の方と話してきました。あなたが、私の父を知っていると聞いたんです。」

「そうか。」

「私は、この館について、もっとお聞きしなければなりません。」

 私は魚の機嫌を損ねないように注意を払いながら、この屋敷の謎を紐解いていこうとした。魚は口を開き、凶暴な上下の歯を見せながら、

「この屋敷は、私を再生するための場所なのだ。」

と、語り始めた。

「昔、1人の日本人が私に、この屋敷を使うように助言してくれた。私はその時、追い込まれていて、絶望の淵にいた。もはや死んだも同然だった。いや、命が死ぬことはさして問題ではない。世の中には死ぬことよりも、残酷で苦しいことが存在するのだ。そのようなことに比べれば、命を失うことなど、さほど苦しくない。しかし、私にはまだ、生きてやり遂げなければならないことがある。そのためには、私の意思を受け継ぐものを見つけなければならない。意志が受け継がれたときに、私は文字通り、永遠の存在として生きるのだ。」

 魚は終始、感情的に話した。それは私に向けて話しているようでもあり、私以外の大勢に向かって演説しているようでもあった。



 週刊誌のような低俗な内容のゴシップ誌の編集をやっているのは、低俗な人間ではなく、一流の知識人である。低俗な人間を作り出し、コントロールしているのは、低俗な人間に成りすました上級民なのである。そのことに低級民は気づくことは無い…。

そんな話を、昔、父が私にしたことがあった。

 私は、この奇怪な建物の正体は、父が作り上げた理想郷のような気がしていた。子供のころから、家の近所に存在した廃墟。なぜ、私はこんなにもこの廃墟が気になって仕方がなかったのか。その答えと、父が、直接的に関係しているのではないか。思えば、私がこの廃墟を見学しに来たこと自体、必然的な何かに、導かれていたような気がする。


 魚は目を閉じて静かに泳いでいた。数分前に比べて、かすかに弱っているように見えた。

「あなたは、私の父について、なにか知っているのですか。」

 何を答えるか、期待と恐怖を感じながら、私は魚に尋ねた。魚はしばらく黙ったあと、口を開いた。

「父上の思想は素晴らしかったが、政治的野心が足りなかった。とりわけ、権力というものにはまったく興味が無かったのだ。」

 

魚や海獣と話しているうちに、私の知らなかった、もう一人の父の輪郭が見えてきた。娘であっても、いや、娘であるからこそ、父の社会人としての人格や信念を、ほとんど知ることが無かったのかもしれない。

「そこの椅子の脇の、引き出しを開けてみるといい。」

 私は言われた通りに、象嵌が施されたコンソールの、小さな引き出しを開けた。そこには几帳面に閉じられた書類や、何人かの子供が写っている色あせた白黒写真、なにかの領収証とともに、糸で閉じられた一冊のノートがあった。扉を開けると、見覚えのある筆記体が並んでいた。紛れもなく、私の父の筆跡だった。


『……共再生計画』


 そう、父の繊細な筆で、書かれていた。最初の何文字かは、掠れていて読めなかった。私は、それ以上そのノートを、めくることが出来なかった。

 

 私はやっと魚の部屋を出て、真木を探し始めた。長時間、勝手な行動をして、罪悪感のような、何か後ろめたい気持ちになっていた。私はこの感覚を、昔にどこかで感じたことがある、と思った。いや、それだけではない。この洋館に来てから起こったすべてのことが、子供のころのある1日とシンクロしているのだ。今、氷が解けるように、私の記憶の中に封印していた、ある昔の思い出がよみがえってきた。それはあまりにも非現実的な体験の記憶であるため、年少期のまだ自我がはっきりしていない頃特有の、妄想のような気もしていた。しかし今日のこの体験は、もしかしたらあの妄想半分の記憶の日よりも、さらに、非現実的でおかしなものかもしれない。私は記憶の糸をたぐりよせていった。そしてマルセル・プルーストの小説のように、一つの思い出のなかで、悠久の旅を始めた。それは次のようなものである。



 あれは、私が未だ10歳を過ぎたばかりころだっただろうか。私は父の仕事に同伴して、1週間ほどパリに行くことになった。私はその時、父が何の仕事をしているのか、はっきりと認識していなかった。父は子供の私に対しても、常に大人と違いなく接する平等主義者であり、そのせいもあって、私にとって、父との会話は難しく感じることが多かった。それゆえに、家族であっても父の存在は常にミステリアスなものだった。パリに行くことが決まったと、渡航の1週間前に知らされた。私は物心がつきたての頭で、パリというところは、気軽に行けるような土地ではなく、日本から見ればロマン溢れる異国の代表地のような場所であろうと想像し、決めつけていた。その感想は、大人になった今でも、あまり変わっていない。ただ一つ、子供の時には想像も出来なかったパリの印象が、その父の同伴旅行中に起きたのである。

 シャルルドゴール空港を降りた子供の私は、初めての長時間フライトにすっかり参ってしまい、瞼が開かないほど眠気に襲われていた。


 タクシーで、空港からパリの市内へ向かう途中、父が私にパリに纏わるいくつかの作家の話をしてくれた。その中で子供の私が興味を惹かれたのは確か、アレクサンドル・デュマの三銃士と、ヘミングウェイの移動祝祭日だった。相変わらず、父の話は子供の私には難しかったが、それでも、パリという場所がある特定の趣向をもった人々にとって、特別な土地であることが、充分に感じられた。そして父もまた、その一員であるような気がした。パリの市内が近づくにつれて、時代をさかのぼっていくような感覚に落ちて行った。私と父を乗せた車は、すでに日が落ちて、シャンデリア球がちりばめられているような街を、9区に向かって走り抜けた。そして、小さくて瀟洒な外観の、古いホテルの門の前で停車した。

「着いたぞ。さぁ、降りる準備をしなさい。このホテルはお前がきっと気に入るぞ。」

 そう言って、父はタクシーの運転手に60フランを渡し、フランス語で丁重に挨拶をして、トランクから荷物を引っ張り出した。私は運転手に向かって、「メルシ」と言って会釈をした後、急いで車を降りて、父の後を追った。


 そのホテルはモンパルナス地区の大通りに面しており、コンパクトだが手の込んだ中庭を有しており、内装は、すべての部屋がベルエポックをテーマに造られた、豪奢な建物だった。歩いてモンパルナス墓地やギュスターヴ・モロー美術館に簡単に行くことができ、父が好んでよく泊まっていたようだ。


 ホテルに入ると、フロントマンが父を見つけ、親しい友人であるかのように挨拶し、歓迎した。私は父が話し込んでいる間、紫色のふかふかのソファに座り、中庭に置かれているヴィーナスの彫刻を眺めながら、これまで飲んだことがないほどの美味しさのオレンジジュースをすすっていた。オレンジジュースには果肉がたっぷりと入っていて、日本のそれよりも酸味が強く鼻を抜けた。


 数日間、私と父はこのホテルに滞在した。慣れない土地に、見知らぬ人に囲まれて生活していれば、当然のように、私の気分はだんだんと滅入っていった。その上、窓から見る景色は、雨の日が続いていた。私は気分転換に散歩に連れていってほしいと頼んだが、雨が強すぎるから今日はだめだと言われてしまった。仕方なく、ホテルの中のプールで遊んだり、室内に掛かっている肖像画を眺めたりして、数日を過ごした。


 5日ほど過ぎた頃だろうか。私がパリに来てから初めての、空が抜けるような晴天だった。私は父と、ホテルのダイニングで昼食をとった後、ロビーに移動して、砂糖のたっぷり入ったカフェオレを飲んでいた。ミルクのまろやかな、こってりとした甘みに、まるでラム酒を飲んでいるかのようにくらくらした。父は、青々とした中庭の、一番奥のテラス席で、パリには珍しい好天を楽しみながら一服していた。

その時、私の真後ろに、人がいる気配がした。私はあからさまに振り返って確認するのも大げさだと思い、少しあたりを見渡す感じを装って、少し、首を後ろへ捻った。確かに、私が座っている一人掛けのソファの真後ろに、細身の男が立ちつくしていた。私は不思議に思って、ゆっくりと、男の腰あたりから上へと、ゆっくり視線を滑らせていった。細めの腰とは裏腹に、胸元から肩にかけて良く鍛えられているのが、薄手のセーター越しに見て取れた。首から上に目をやった。フランス人にしては掘りの深い、くっきりとした目元をした、華やかで美しい青年だった。後ろへ流したライトブラウンの繊細な髪、翡翠色のペール・アイ、その瞳のすぐ上にかかる凛々しい眉。真ん中に聳える鼻の稜線と対照的に、口元の主張は控え目で、ギリシャ彫刻のあの滑らかな印象を思い起させた。アポロンの青年彫刻に色付けをしたら、きっとこのようなデザインになるのだろう。肌はやや蒸気を帯びたようなピンクがかった色をしており、しかし年頃の男性的な魅力を十分に醸していた。おそらくこの青年が、私の初めての男性に対する「意識」であったと思う。私はさっきまで飲んでいたカフェオレのせいで、舌の上に残ったミルクの余韻とともに、喉を鳴らさないように気を付けながら、つばを飲み込んだ。私はこの悪魔的魅力をもった青年によって、心をかき乱されていた。

青年は、私に向かって、

「ここのホテルの秘密を知ってる? マドモアゼル。」

と言って、ウインクをした。

「いいえ、知りません。教えてくださる?」

 私は文法を間違えながら、簡単なフランス語で答えた。青年は目じりを下げて微笑みながら

「いいよ。でも言葉で説明するより、見せたほうが早いかな。」

と言って、私の耳元に顔を近づけ、

「お父さんに見つからないように、あとで僕の部屋においで。308号室だよ。」

と耳打ちした。近づいた際に、わずかな煙草の匂いに交じってマグノリアの花の匂いがした。花の香りの香水を身に着ける男性に、少女の私は心をつかまれていて、このオファーを断ることは絶対に不可能であった。青年は再度ウインクをすると、霞のように音を立てずに、私から立ち去った。たった数分の、少しの会話を交わしただけだが、とても長い時間が経過したような気がした。カップに半分残ったカフェオレは、すでに常温まで冷めていた。マグノリアの匂いが消えて、煙草の煙の匂いだけが残っていた。


 私は一人で部屋に戻って、ふかふかの深紅のモケットソファに座り、父がいなくなる時間帯について思案した。この後、父は部屋に戻ってくる。そして、夕食の時間まで、外出する可能性が高いだろうと考えた。青年の部屋に赴くには、そのタイミングしかないだろう。そして次に、なぜ彼は私に話しかけたのか、このホテルの秘密とはいったいどのようなものなのか、考え込んだ。

人の話を聞くのがあまり得意ではない私は、彼の言葉の一つ一つに耳を傾けるよりも、彼の持っている独特の雰囲気に集中を向けていた。マグノリアの匂いの片隅に、フランスとはまた違った異国的な匂いが含まれているような気がして、それがまたより一層、青年の怪しい魅力のスパイスとなっていた。青年が私に話しかけた理由はおそらく、彼が私の父と知り合いなのだろう。そして私が娘であるということを知っている。また、彼が名乗らなかった理由は、私が彼とコンタクトをとった話を父に話しては、なにかまずいことがあるからなのではないか。

日ごろから、私の父をよく思わない人間がこの世界に存在していることを、私は子供ながらに敏感に感じ取っていた。私は父と一緒に時間を過ごすときに、何かこの世界に対する信念のようなものが強すぎて、子供の私は、その片鱗に触れるだけでなにか恐怖や恐れを感じずにはいられないことがあった。それは論理や倫理といったものからはまったく関係しない、父独自の世界規定のようなものに感じられた。


 どれくらいの時間、ソファで高まる気持ちと共に考えに耽っていたのか分からないが、部屋の扉が開く音がして、父が包みを抱えて入ってきた。

「なんだ、もう帰っていたのか。私はてっきり、またお前が勝手にホテルをうろつきに出てしまったのかと思ったよ。」

 父は少し窘めるような口調で私にそう言った。

「そうしたかったけど、カフェオレを飲んでいたら、ちょっと疲れて眠たくなってきちゃって。お父さんは人と話していて忙しそうだったから、邪魔をしないほうがいいと思って。」

 なぜか、普通のことを言っているだけなのに、何かを弁明したいかのような口調になってしまった。私の頭はすっかりこのあとの青年との秘密の冒険で染まっていた。

「そうか。気を使ってくれたのか、それは悪かったな。お詫びにこれを買ってきたから、食べるといい。」

 そう言って、父が抱えていた小包から取り出したのは、私の好物の柘榴だった。私はこれが大好きで、いつも近所のスーパーに買い物に行き、果物売り場で柘榴を見つけると、父にねだって買ってもらっていた。しかし、東京のスーパーに柘榴を見かけることは稀であり、秋の終わりから冬にかけて、運が良ければ出会えるといった具合だった。それは大抵、カリフォルニアからの輸入であると書かれていた。それが今回はフランス産の柘榴である。大きく鮮やかな赤黒い柘榴は、私の心をときめかせると同時に、父に隠し事をしている後ろめたさを一層際立たせた。そういえば、柘榴を好きになったきっかけは、アレイスター・クロウリーだった。彼に関する本のなかで、柘榴は人肉の味がすると紹介されていた。私は人肉の味がどんなものか試してみたくて、父に頼み込んで柘榴を買ってきてもらったのだが、果実を半分に切ったときの、その果肉部分のグロテスクさにショックを受け、やっぱり食べたくないと駄々をこねたところ、父が、見た目がグロテスクなものがかえって美味しいということは良くあるのだ、と言って、無理やり私の口にその果実を数粒、食べさせた。そして、初めて味わう芳醇な酸味と甘みのコンビネーションに、私は再度、ショックを受けた。父の言う事はいつも正しい、と思うようになった1つのきっかけであった。

 父の書棚を漁ると、数冊のアレイスター・クロウリーに関する本が見つかった。そのうちの一つに、タロットに関する画集があり、クロウリーのトートタロットだけでなく、中世時代からの各国様々なタロットのデザインが、400ページにもわたって紹介されており、私のお気に入りの一冊となった。美しいものだけに囲まれて生活したいという欲求があった私は、幼い時より、学校で配られた、つまらなくて地味な表紙の教科書類を、クローゼットの中に設置した「ダサいもの専用箱」に入れ、自室の本棚には美麗で心をうっとりさせる本だけを収納した。レオナルド・ダ・ヴィンチの全作品集や、ギュスターヴ・ドレの全挿絵が載ったラ・フォンテーヌの寓話集、私の大好きな動物たちがユニークかつ摩訶不思議なイラストで紹介されているボドリー写本764番、などである。その中に、こっそりと父の部屋から拝借した、タロットの本も並べていた。学校から帰ると、毎日それらを開いては眺め、遠きヨーロッパの美術に心を馳せるのが習慣になっていた。私の憧れはいつもヨーロッパにあり、日本で生まれたにも関わらず、自分にとっての世界の中心は、未だ見ぬヨーロッパの国々であると感じていた。そんな子供の私に、実際のパリ旅行は、やっと自分の世界に入って人生を感じることができる、最初で最高の機会であった。そして、父の選んだこのホテルの雰囲気、私に秘密を教えようとしている青年、そのすべてが、幼少期に父の本棚でアレイスター・クロウリーの書を盗み見た時の、悪魔的な魅力に取り込まれる感覚と全く同じものであった。彼に会った時の既視感の正体が、私の部屋のコレクションだったと気が付いた後、彼の事も何か自分のコレクションの一部であるかのような気分にさえなった。早く、青年の名前が知りたいと思った。


 父は私のために買ってきた柘榴を、ホテルの部屋のカウンターの上に並べ、そのあと、短くシャワーを浴びた。髪を後ろに撫でつけた父を見て、私は父がこの後外出することを確信した。

「お父さん、この後出かけるの?」

 私はなるべく自然に聞こえるよう、意識して聞いた。

「ああ。夕食までには戻るよ。お前は部屋でゆっくりしているといい。私の本を読んでも構わないよ。」

 そう言って、父がスーツケースから何冊かの本を取り出し、私が横たわっているソファのひじ掛け部分に置いた。分厚い西洋美術に関する本のようだった。

「内容は難しいかもしれないが、写真はきれいだよ。週末はルーブル美術館に行くから、その予習だと思って読んでみるといい。私は、そうだなぁ、8時頃までには戻るよ。」

 今は5時20分である。およそ2時間30分の自由時間がある。私はこれから始まる2時間30分の冒険に、興奮を抑えられなかった。そんな感情は、人生でこの時が最初で最後だったと思う。そう、近所の廃旅館に入れることになったあの日を除いては。


 父が部屋を出て、足音が遠のくのを注意深く確認してから、私は横たわっていたソファから飛び起き、肩掛けのポシェットに、羽ペン(といってもボールペンだが)、黒兎のイラストが描かれたデザインのメモ帳、フィルムカメラ、そしてホテルの部屋にあった、銀紙にくるまれたボンボン・チョコレートを3つ、放り込んだ。ポシェットがパンパンに膨れてしまったので、一度全部を出し、順番を考えながら、丁寧に再度詰めていった。そして目を閉じて深呼吸をして、真鍮製の部屋の鍵を手に取り、部屋を勢いよく飛び出した。


 308号室に向かうために、ロビーと反対方向に進み、階段を探した。私の部屋は1階だったので、3階に行くために、エレベーターか階段を使う必要がある。エレベーターはロビーにあるため、誰かに目撃される可能性が高く、さらに言えば父に遭遇する可能性すらある。私は青年との秘密めいた約束のせいで、この密会は誰にも知られてはならないような気がしていた。通路の一番奥まで歩くと、右手に階段が見えた。私は周囲に人がいないか見まわしてから、階段を駆け上がった。踊り場には、壁付けの豪華なシャンデリアが2つと、その間に高貴なドレスをまとった貴婦人の凛とした肖像画が飾られていて、その冷たいまなざしに一瞬緊張が胸を突き刺した。まるで、これからする悪行を見透かされ、咎められているような気分になった。この作品がイタリアの画家、アーニョロ・ブロンズィーノのものであると知ったのは、私が大人になってからである。それまで、この貴婦人のまなざしは、私の脳裏にしっかりと焼き付いていたのである。

 精神を落ち着かせようと意識しながら、長い階段を上り、3階に到着したころには、すこし息が上がっていた。3階からは、紫の絨毯に変わっていた。308号室を探して、廊下を進んでいく。紫の絨毯に花形のガラスシェードのシャンデリアの光が反射して、神秘的な雰囲気が漂っていた。ところどころに置かれたマホガニーの艶がある小ぶりの花台には、よく見ると優美なレリーフが施されており、その一部にはガーゴイルの横顔のようなデザインが、不思議と目立たなく施してあった。よく見ないと気づかないであろう。


 803号室を発見した時に、腕時計を見ると、5時40分を過ぎた頃であった。青年は部屋にいるだろうか?期待と緊張の混じった感情で、私は部屋のベルをそっと押し込んだ。すると、数秒が経ってから、ドアの向こうに人が近づく気配がした。私の胸は高鳴って、手のひらにしっとりと汗をかいていた。きっと顔は紅潮しているに違いないと思った。自分の眼球の表面を覆う水分の量が、いつもより増えているのを感じた。私は自分の緊張を解くべく、口角を意識的に上げ、微笑みの表情を作りながら、ドアが開く瞬間を待った。

 ドアが内側にゆっくりと開き、その時の空気の移動とともに、私の周囲に例のマグノリアの気高い香りが流れ込んできた。その香しい花と男性的な香りの混ざった空気を、深く吸い込んだ。背筋が伸びて、髪がわずかに重力に逆らって揺れた。


 青年は、3時間前に会った時とはやや雰囲気が変わっていた。シャワーを浴びて、ドライヤーをかけた後なのだろうか、前髪が額を流れ、毛先が目元まで来ている。その前髪のカーテンに凛々しい眉がほとんど隠されたせいで、垂れ目の甘さだけが余計に強調され、男の精悍さよりもフランシス・ベーコンの絵画のような柔和な印象だった。着慣れた風合いのリネンの開襟シャツに、淡い色合いのソフトなスラックスを合わせ、リラックスした装いの中にもきちんとした雰囲気を漂わせていた。寝巻に近いような格好をしていても、育ちの良さは隠せないものだと証明していた。

「やぁ、来てくれたね。そろそろかなと思いながら待っていたよ。さぁ、一度ぼくの部屋に入って。」

 彼が話すときに、その口から吐き出される息に合わせて、長い前髪がふわっと持ち上がった。私は無言で、言われるままに青年の部屋に足を踏み入れた。

「僕はマクシム。まだ名前を教えてなかったよね。」

「私は――」

「知ってるよ。僕は君のお父さんと知り合いなんだ。」

 私は驚かなかった。やっぱり、というより、そうでなければおかしいとまで感じた。

「父とは、どういう関係なんですか?」

「数年前から、ある団体に入っていてね、そこで知り合ったんだ。実は日本の、君の家にも行ったことがあるんだよ。君はまだ1歳で、覚えてないだろうけどね。」

 そう言ってマクシムは私にウインクをしてから、ホテルのカウンターで紅茶を淹れ始めた。

「私、父には何も言ってません、この事。」

 私は聞かれてもいないのに、なぜかそのことを伝えたいと思った。それはこの青年が、私の父と知り合いといいながらも、父の事をあまりよく思っていない素振りを見せたからである。

「分かっているよ。君は普通の子供ではないって、ぼくは思うからね。だからこそ、今日は君と二人で話したかったんだ。」

 私はマクシムに認められて嬉しい気持ちの半面、なぜそこまで私を信用しているのだろう、彼の目的は何なのだろう、と、警戒する気持ちも徐々に生まれてきた。

「紅茶をどうぞ。ミルクが欲しい?」

「いいえ、大丈夫。ありがとう。」

 私は黒い塗りに金の装飾が繊細に施されたナポレオンチェアの、こんもりと綿で盛り上がった黒いモケットの座面に腰を下ろし、艶やかなコーヒーテーブルに置かれたティーカップの紅茶を、鼻孔と口の両方で味わった。

「僕は昨日からこのホテルに泊まっているんだ。君とお父さんはいつから泊まっているの

 そう聞きながら、マクシムは自分のティーカップを持って、私の隣のもう一つのナポレオンチェアにゆっくりと腰かけた。

「私たちは先週の木曜日にパリに着いたんです。その夜から。」

「お父さんの仕事の内容を、君はどのくらい知ってるのかな。」

「私は…ほとんど知らないと思います。特に最近は、家で仕事をしていないので。」

「知りたいと思わないの?」

「思ったことはありますけど…。私はどうせ聞いても、理解できないと思うんです。」

 私は正直に、日ごろ思っていたことをそのまま口にした。理解できない理由は自分がまだ子供だからという事に加えて、自分とは違うフィールドで生きている父を、家族という眼鏡を通さないで見ると、必要以上に深く知る必要がないと感じてしまうのだ。

「今日、分かると思うよ。君のお父さんがどんなことをやっているか。」

 そう言って、マクシムは自身のカップの紅茶を上品にすすった。私は言葉を返さず、彼の動作を鏡に写してコピーするように、何度か紅茶をすすった。

「さて、そろそろ行こうか。君のお父さんが戻ってくるまで2時間くらいはあるよね。僕が見せたい部屋を見せるのには、充分だろう。」

 マクシムは一度バスルームに行くと、鏡に向かって髪にコームを入れて、前髪をきれいに後ろに流した。これまで隠されていた凛々しい眉山がはっきりと見えるようになり、コームでひと撫でしたその一瞬だけで、すっかり男らしいマクシムが姿を現した。大きな金縁の鏡越しに見るマクシムの姿は、私が持っている画集の扉絵の、ナポレオン2世の肖像画を思い出させる美しさであった。


 マクシムの部屋を出ると、私たちはエレベーターに乗り、グランドフロアのボタンを押した。高いベルの音が鳴って、年期の入ったエレベーターは軋む音を立てながらゆっくりと降下し、再び高いベルの音が鳴って、ロビーの前に到着した。

「ボタンを見て。なにか気づくことは無いかい?」

 マクシムが指を指した先の、エレベーターに並んだ階数のボタンに目をやった。縦一列に、グランドフロアから3階までのボタンが並んでいる。よく見ると、グランドフロアのボタンの下に、ボタン一つ分と同じ大きさの溝がうっすらとあるようだった。私はその溝に、指を這わせてみた。

「そう。まさにそこなんだ。」とマクシムは声を少し張り上げて指摘した。

「この建物には地下があるんだよ。見ての通り、今はエレベーターでは行けなくなっているんだけどね。」

「どうして?地下に何があるの?」

「10分後に分かるよ。さぁ、こっちだ。」

 エレベーターを降りると、夕方のロビーを行き交う人の一人にぶつかりそうになった。その相手に対し小さくパルドン、と言ってから、マクシムは私の手を優しく引っ張って、カフェのある通路の方向へ導いた。私は人込みの中に、父の姿が無いかどうか、ひやひやしながらマクシムの先導に身を任せて歩いた。

 カフェを左手に見ながら、廊下を客間のほうにまっすぐ進んでいった。マクシムは歩くのが遅い私の歩幅に合わせて、優雅に歩きながら、この瀟洒なホテルについての説明を始めた。

「このホテルはもともと、ある貴族の館だったんだ。1930年に、このホテルのオーナーが建物を買い取って、ホテルとしてオープンした。」

 マクシムはこっち、と指をさして、私を誘導した。

「目的の場所に着くまでに、この館のもう一つの秘密を君に教えてあげよう。じつは、ここのホテルはルーブル美術館のリシュリュー翼と同じ間取りのデザインになっているんだ。」

「本当? でも、どうして?」

「アレクサンドル・デュマの三銃士を読んだことがあるかい?」

 私は、行きの車の中で、父が三銃士のストーリーを話していたことを思い出した。

「いいえ、名前だけは知っているけど、まだ。」

「このストーリーに、リシュリュー卿という貴族が登場するんだ。ここの最初のオーナーだった男は、自分をこのキャラクターの生き写しだと心酔して、同じ名前のルーブル美術館の1つのフロアを真似て、この館を作ったと言われている。」

 マクシムは歩きながら、廊下に置かれているコンソールの、 大理石の天板の表面を、美しい指で撫でた。

「ここは客が立ち入らない場所なのに、きちんと掃除されているな。」

 どうやら廊下を進むうちに、通常の客間があるエリアは終わり、使われていない客間のエリアに来ているようだった。

 マクシムがあるドアの前で立ち止まり、ポケットから真鍮の古びた鍵を取り出して、迷うことなく鍵穴に差し込んだ。部屋の扉が開いて、使われていないソファや修復が必要そうな家具が置いてある広い部屋が現れた。

「ここに入るの?」

「ああ。ここから、地下に降りる階段がある。」

 そう言って、ヘリンボーンの古びた床木を踏みながら、雑多に置かれた家具の間を縫って部屋の奥へ進んでいくと、暖炉の脇に、アーチ状の入り口から続く下り階段が現れた。私はまるで、怪人に導かれるクリスティーヌになったように、階段を下りて行った。マクシムはここに来るのは慣れている様子だった。

 階段を降りると、さらに狭い物置小屋に出た。まるで馬小屋のようで、壁にはいくつかの小さな宗教画やリトグラフが掛けられていた。一つだけあるドアを開けると、再び廊下に出た。

「マクシムは、どうしてここを知っているの? 以前に来たことがあるの?」

 私は廊下を歩きながら、気になっていることを一つずつ、質問することにした。

「ぼくは以前、君のお父さんと同じ組織に入っていた。」

 マクシムは足を止め、私の顔を見た。私は彼の目が、そんなに力強い煌めきを帯びたのはこの時が初めてだった。

「君のお父さんは、強い信念と美的感覚に基づいて、人を変えるために活動していたんだ。それはぼくも同じなんだけどね。でもぼくの場合、お父さんと同じ組織に入った理由は、君のお父さんを監視するためだった。」

 再び、マクシムは歩くのを再開した。私は、話を続きを聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ちで、胸が詰まった。マクシムにとって父が悪者であることが、ほとんど明確になったからである。

「あなたは…マクシムは、私の父を、どう思っているの?」

 その言葉に、これ以上聞きたくないという意思も込めて放った。

「正直に話そう。ぼくは君のお父さんの敵だけど、同時に尊敬もしているんだ。人間として、男として、立派な方だと思う。しかし、やはり、活動を、許すわけにはいかないと思う。」

 マクシムは文章の最後まで言葉を濁したり弱めたりすることなく、はっきりとした声量で、私の父を否定した。

 その後、マクシムは再びこのホテルの説明を始めた。この建物はルイ14世のときに建築されたこと。その後ナポレオン2世のために改築されたが、夭逝したため、ずっと空き家になっていたこと。それをある組織が見つけて、自分たちのパリのサロンとして使用し始めたこと。表向きはホテルであること――。

 そこまで説明し終わったところで、

「さて、ここなんだ。」

 と言って、マクシムは一つの部屋のドアの前に立った。魚のようなレリーフが施された、鉄の扉だった。

「お楽しみはここからだよ。」

 マクシムはドアノブを捻った。ドアはゆっくりと、重そうに開いた。私はまだ開ききらないドアの隙間から、覗き込んだ。暗闇に、光が差し込んでいる。その先に、よく知っている絵画の一部が照らし出されていた。

「レオナルド・ダ・ヴィンチ?」

「そうだね。どうだろう、本物かな? 近づいていってよく見てごらん。」

 マクシムに促されて、私はその絵の近くまで、何かにつまづかないように注意しながら、駆け寄っていった。ぼんやりと、薄明りに照らされて、なまめかしい肉筆によって陶器の表面のように描かれた肌の肖像画が現れた。それはまさに、ルネサンスの巨匠ダ・ヴィンチ作以外の何物でもなかった。

「マクシム、これ、本物のダ・ヴィンチ――」

 そう言いかけた時に、部屋がパッと明るくなった。マクシムが明かりのスイッチを押したのだった。部屋の中央の巨大なシャンデリアが煌々と点灯し、驚くべき光景が私の目に映っていた。それは、部屋の壁一面に、誰もが知る名画の数々が、壁の地が見えなくなるほどに埋め尽くされていた。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった古典ルネサンスを始め、ゴヤ、マネ、ルノアール。ジョルジュ・ド・ラトゥールやルーカス・クラナハ、そしてギュスターヴ・モロー…。

「これは、もしかして、すべて本物なの? でも、どうしてこんなところに…。」

 マクシムは左手をポケットに差し込みながら、部屋の奥へ向かって歩いていった。デッキシューズのソールが、大理石の床をコツ、コツと鳴らし、それが天井まで響き渡った。そして、深紅のベルベットのカーテンを、ゆっくりと開いた。そこには、大きな水槽に、何か透明の、しかし水よりは粘度の高そうな液が満たされており、その中央に、人間の頭のようなものがあった。目を閉じた状態であり、髪の毛は剃られていて、水槽のガラスと粘液のせいもあって、それが男か女かも識別できなかった。

 私は水槽に近づいた。そして水槽のすぐ後ろに、ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』が、

屏風を開いた状態で立ててあった。高さ2mほどの中の、情報量の多さに驚いた。中央に描かれているのは、一切の人工物を無くし、裸の人間たちが乱痴気騒ぎを行っている様であった。この部屋にある数々の名作のなかで、この快楽の園だけが、明らかにこの部屋のメインとして、誰かによって配置されていることが分かった。そういわれれば、この豪華な貴賓室は、デコレーションされているというよりは、まるで倉庫のように、美術品を保管している、といったほうがしっくりくるような気がした。この快楽の園を除いては。

私はオードリー・ヘプバーンが『おしゃれ泥棒』の中で、自室の隠し扉から父親の贋作部屋に、螺旋階段で降りていくシーンを思い出した。あの映画では、秘密の部屋にあるのは贋作であるが、しかし、今この部屋にあるものは、すべてが本物だった。大人の私が考えれば、そんなことは不可能に違いないと疑い、もし本物であればどうしてそんなことが出来るのか、と、マクシムに問いただしただろう。しかし、未だ純粋だった子供の私は、そういう大人の世界があるものかなぁ、と、ただ素直にこの不可思議な貴賓室の存在を、そのまま受け入れたのだった。


 ホテルの地下に、隠された豪華絢爛な貴賓室。すべてが本物の、数々の美術品。快楽の園の前に置かれた、謎の人間の頭部。父が毎年このホテルに泊まる理由。私は頭のなかでパズルのピースを色々な順番で組み合わせた。パズルの完成に、足りないピースがいくつかあるように思えた。

「マクシム。どうしてこの部屋に私を案内したの?」

 私はマクシムを強く見つめた。マクシムはそれをしっかりと受け止めるように眼差しを返して、

「ぼくは君に、お父さんを止めて欲しいと期待しているからだ。」

と、強い口調で言い放った。言葉に、何か危機感が込められていた。

「お父さんを止めることができるのは、君以外にいないのかもしれないと思うんだ。」

「私に何を期待しているの? 残念だけど、私は何もできる自信がないわ。」

「できるさ。お父さんに唯一、影響を与えられる存在は、娘である君だけだ。ここにあるすべての絵画を含めても、君の力にはかなわない。」

「そんなの信じないわ。第一、私と父は、普通の父親と娘の関係とは違うの。あなたには分からないでしょうけど。」

「わかるよ。」

 マクシムは間髪いれずにそう答えた。そして一呼吸おいてから、

「ぼくは何でも知っている。信じてみて。」

と、付け加えた。


 私は快楽の園に目をやった。三連祭壇画の右翼には、地獄の狂乱が描かれている。その中に、鳥の化け物が、洒落たハイチェアに腰かけ、無表情で人間を頭から貪っている。食べられている人間に、抵抗している様子が感じられないが、果たして苦しいのだろうか? 激しい痛みを感じているだろうか? 生前の行いに、後悔を感じているだろうか? しかし、いずれにせよ、このキュートな魅力をもった愛すべき見た目の悪魔にだったら、地獄で拷問されても耐えられそうな気がした。私のこの、物事について内容の良し悪しよりも、外見的美しさを優先する思考は、完全に父から受け継いだものだろう。そういえば、私の最も気に入っているフランス語は、「ミザンセーヌ」だった。日本語で存在していないであろうこの言葉が、フランス語に存在していると知って、私はああ、なるほど、これがフランス語を勉強する動機になるのだ、と確信したのだった。


「ところで、君のフランス語はなかなかいいね。どれくらい勉強しているの?」

 マクシムが私に近づいて、これまでの神妙な声色とはうって変わった、陽気な声で私に尋ねた。

「ありがとう。3年前に始めたの。週に1回、フランス人の先生に教わっているわ。名前はエマ先生。かわいい先生なのよ。」

 マクシムが初めて、ごく普通の雑談をふってくれたのが嬉しくて、私は饒舌に喋った。

「父は上手にフランス語を話すわ。それだけじゃなくて、ドイツ語もできるのよ。私ももっと上手くなりたいんだけれど…。」

 私は父の手ほどきで、様々な習い事をした。ピアノ、バイオリン、歌、絵画、バレエなど。しかし、父の才能を受け継がなかった私は、何をやっても芽が出なかった。唯一、楽しんで続けていられたのがフランス語で、それはひとえに、エマ先生の根気のよいレッスンのおかげだった。私は他の子供よりも上達が遅く、自信は無かったが、マクシムが間違いだらけの私のフランス語を褒めてくれたのが、心底意外で、嬉しかった。彼はフランス人らしく、お世辞や上辺だけの感想を言うタイプには見えなかったからだ。


 この貴賓室に来てから、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。この部屋には時計が無かった。私はマクシムとたわいもない話を続けることで、目の前の不可思議な状況から精神的に逃げていたのかもしれない。私はまるで休日に美術館に来ただけの子供のように、そこにある一つ一つの名画について、感想を話した。自分の部屋に飾るならどの絵が良いか、寝室のベッドの上に飾るならどの絵が良いか、といった素朴で無邪気な会話にも、マクシムは呆れることなく、楽しんで付き合ってくれた。

「さて、君との楽しい時間も、そろそろ終わりにしなくちゃいけないかな。」

マクシムはそう言って私の頬を人差し指の背中で撫でた。その指は死んでいるかのように冷たかった。その冷たさで、どこか遠くへ行っていた私の意識が、現実に戻ってきた。

「それと、さっきから、君の笑い方はいいね。」

 マクシムは、高い背をかがめて、私に顔を近づけた。

「僕の理想の青い花だ。」

「なにそれ? どういうこと?」

 マクシムはウインクをしただけで、なにも答えなかった。


私の耳に、一人の青年がセーヌ川に身を投げて死んだというニュースが入ってきたのは、日曜日の午後だった。



ロビーで人々が騒いでおり、ホテルの前に警察が数人、事情聴取をしているようだった。ホテルのすぐ近くのポンヌフ橋から、若い男が身を投げたらしい、自殺か他殺かは未だ定かではない、私はホテルのロビーで、警察の聞き込みを受けた。私がマクシムと一緒にいるのを見たと証言した人がいたらしい。私は未成年のため、最初は父と共に事情聴取をされた。私は胃の粘膜が口から飛び出そうなほど緊張していた。マクシムが死んだというショックに加え、警察と父の前で、どこまでを話せばいいのか皆目分からなかった。あの日に私が見たすべての真実を話してしまえば、父にとって何かとてもまずいことになるだろうということは明確だった。部屋に戻るときに、マクシムは私に言ったのだ。「今日見たことは、君の胸にしばらく留めておいて。そしていつか必要な時が来たら、また取り出すんだ。それは明日かもしれないし、20年後になるかもしれない。でも、今日ぼくが君に見せたことは、いつか必ず世界にとって大きな意味をもつことになると確信している。」

あぁ、マクシム、私を助けて。あなたはあの時、こんなことになる可能性を予想していたの? 私は、彼の全てを知っているような眼を思い出した。もしかして、自殺することを、あの時すでに決意していたのだろうか? 父はなぜか、こんな時でも平然として、私には何も聞かず、ただ「聞かれたことを正直に話せばいい」と私にアドバイスしただけだった。私もまた、父にマクシムとの関係を聞くことはできなかった。それをすれば、私とマクシムとの間に何があったかも、交換条件として打ち明けなければいけないような気がしたからだ。ホテルのロビーで紅茶を飲みながら、警察が始まるのを待っている間、私と父の間に、ぎこちない空気が漂っていた。

やがてフランス警察2人組が来て、事情聴取が始まった。終始フランス語での聴取は、難しいことも多く、私には父と警察官の会話が半分も理解できなかった。理解できたことは、父は何かを隠しながら慎重に答えを選んでいる、という事だった。そして私に対しての個人的な聴取は、まだ子供で、フランス語もままならないということもあり、マクシムといつ、何を話したか、なにか変わった様子はあったか、最後に会ったのは何時ごろのことだったか、など、至極簡単な質問で終わった。私は、私が考えつく限りの無難な回答を一生懸命に答えた。マクシムとはホテルのカフェでたわいもない話をしただけだ、その後知り合いになってから、ホテルの中ですれ違う時に、挨拶をしただけで、それ以上彼のことは知らない。変わった様子は私が見る限り、感じられなかった。そのような嘘を開発しながら、しどろもどろに話したが、そのぎこちない話し方の理由は、私のフランス語のレベルによるものだと警察は思ってくれたようで、助かった。左側に座っている神経質そうな若い警察官は、ひたすら何かをメモしていて、それが終わると、何かを確認するように小声でもう一人の警官と話し始めた。私は緊張で味がしなくなった紅茶に、追加の角砂糖を入れ、乱暴にスプーンでかき回し、そのスプーンをそのまま口元にもっていき、ついている砂糖を舐めた。いつもであれば、行儀が悪いと怒る父も、今は黙って座っているだけだった。数分の警察の話し合いの後、ご協力ありがとうございましたという旨の言葉と共に、私たちの事情聴取は終わった。部屋に戻ってよい、これ以上の聴取はないということだった。私は嘘がばれなかった安堵感と共に、こんなときでも平然としている父が、心底怖かった。しかし、どうしても一言だけ、これだけは父に質問しないわけにはいかない、ということがあった。

「ねぇ、マクシムは自殺なの?」

 私は震える声を振り絞って、父にそう問いかけた。

「残念だね、いい青年だと思っていたんだよ。」

 平然とした声色で、それだけの返答が聞こえた時、私は、マクシムは決して自殺ではないということを確信したのだった。

「すぐ帰るから、支度をしなさい。」

 父はそう続けて、部屋の鍵を私に託すと、煙草を吸いに中庭へと歩いていった。



 この洋館を訪れるまで、私はこのパリでの一連の出来事を、そしてマクシムの存在を、思い出すことはほとんどなかった。まだ10歳になったばかりのころの異国での体験は、あまりにも非現実的なものであり、その後の私の日常生活とかけ離れていたため、自分の中であれは夢か、自分の妄想の中の出来事だったのではないか、とさえ感じていた。うっすらと覚えていることといえば、その後、パリから帰国してから、父はほとんど家にいなかったということ、私と父の間で、この事件について話すことは暗黙に憚られていたこと、そして、帰国後、私のフランス語の先生から、パリで起きたあの事件は自殺として処理されたらしいと聞いたこと、である。


 私は、マクシムのことを懐かしく思い出した。そう、彼の名前。パリから戻ったあとで、父が、落ち込んでいた私に、1匹のうさぎを飼ってくれた。私はそのうさぎに、父に内緒でこっそりマクシムという名前を付けて、心底可愛がっていたのだ。それが、この一連の古い記憶が単なる子供の妄想ではなく、現実であることの証明であると思った。愛らしいうさぎのマクシムと毎日を過ごすうちに、あの水槽に浮かんでいたグロテスクな人間の頭や、人間のマクシムが亡くなったというトラウマを、だんだん忘れていった。うさぎのマクシムはすくすくと大きくなり、数年間、私の部屋を元気に走り回っていたが、私が中学を卒業する直前のある日、学校から帰ると、部屋にあったケージの扉が開いていて、空になっていた。私はそれから数日間、泣きじゃくりながら、必死に近所を探し回ったが、結局マクシムは見つからず、そのまま姿を消してしまったのだった。

 結果的に、マクシムは2度も、私の精神を叩き壊したのである。


今、この洋館にきて、あの奇妙な古代魚と話した経験は、あの日パリで体験した貴賓室の記憶と酷似している。あの日の記憶、ホテルの空気の温度、マクシムのマグノリアの香水の匂い、ダ・ヴィンチの肖像画のなめらかさ、水槽の中の人頭のぬっとりとした質感、そしてボスの快楽の園の、狂気と官能…。それだけではない、もう一つの重大な共通点が、私の脳裏に浮かんできた。この古洋館の造りをどこかで見たことがある、と思っていた。この細長い廊下の造り、それはまさに、ルーブル美術館のリシュリュー翼であり、あのパリのホテルの地下と同じであった。私はもう一度洋館の中を戻って、造りを確かめた。エントランスから入って、階段を上り、突き当りを左折し、廊下を突き進んでいく。そして最奥に、あの魚の部屋がある。それはまさに、あのパリのホテルの、地下貴賓室の位置の場所ではなかったか。私は奇妙な共通点に、何か嫌な予感がした。さすれば、あの魚の水槽は、地下室の人頭が入っていた水槽と対応しているに違いない。これは、何を意味しているのだろうか。ドイツ語とフランス語が堪能な父は、あの時代に、ここで何をしていたのだろうか。父のせいで、見知らぬだれかが苦しむことになるのだろうか。私のように、ごく平凡な、どこかのだれかが…。


 私はあの日、マクシムと交わした約束を思い出した。その時がきたら、私がやることがある。それはまさに、この奇妙な館で起きている非現実的な出来事と関係がないはずがなかった。なんでも知っている、神の遣いのような彼のことだから、理由はわからないが、今日のこともきっと、予想していたに違いないと思った。

 私は踵を返し、魚のいる部屋を目指して、再び歩き出した。


 魚がいた部屋にもどると、魚は水槽のなかにゆっくりと佇んでいた。それは泳いでいるようにも見えたし、ただ浮かんでいるようにも見えた。私はゆっくりと、魚の水槽の前まで近づいて、声をかけてみた。

「あの。」

 魚は少しだけ、私に反応したように見えた。が、なぜか、返答はない。

「あの、すみません。」

 私はもう一度、大きく声を出して話しかけた。今度は、魚は反応すら示さず、応答も無かった。魚は、わざと沈黙を貫いているのだと分かった。私は魚の水槽の周りを一周してみた。すると、水槽が置かれている台から、水槽に空気を送るポンプの管を見つけた。それは魚をつなぎとめている、生命線のようだった。私はもう一度、魚の様子を見た。最初はグロテスクで凶悪なだけの魚に見えたが、今はなぜか、死を待ち貼り付け台に上るイエスのように、厳かで安らかに見えた。私のやろうとしていることもまた、罪深きことなのだ。しかし、何のとりえもなく常に劣等感と虚無感に苛まれてきた私の人生の中で、このような宿命を与えられていることに、あぁ、私も社会に役立つことがあった、良かった、と安堵した。私はあの日地下室で見た、ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』を思い出した。そこには、地獄に行く前の、嬉々とした生活をする人々が、思い思いにその嬉しさを表現している様子が、画面一面に細密で均等なパワーによってに描かれていたのだ。私はそんな作品を目の前にして、私が生まれてきたことの意味、いま生きていることの重要性、マクシムへの感情、そして父への罪悪…そんなものが入り混じって形成された一粒のカプセル薬のように、小さな私の口から喉へ、そして体内へと侵入してきたのだ。あ、私も、この世界への切符を今手に入れることができたかもしれない。ボスの描いた快楽の園へ、いつか入り込むことができそうだ。なんてすばらしい体験! あぁ、その日が待ち遠しい…。

 そんな記憶を呼び覚ました、その空気ポンプの管に、私は手を伸ばした。管は年月を経て脆くなっていた。私はその管を、強く捻じって、手前に引っ張った。管はめきめきと音を立てて、捻じったところに亀裂が入った。送り込まれていた空気は止まり、管の中を水槽の水が逆流して、亀裂からゆっくりと床に零れ出した。次の瞬間、部屋中にアラームが鳴り出した。何かのセキュリティシステムが作動した様子だった。私は動かずに、なるべく魚のそばに顔を近づけて、様子を眺めていた。アラームはきっと屋外まで聞こえるほどに鳴り響いていた。亀裂から漏れる水をよく見ると、ただの水ではなく、粘度を伴った液体であることが分かった。それはアラームと共に点灯したセキュリティの赤いライトのせいで、まるで血液が流れ出ているようにも見えた。


 何分が経過したのだろう。私は足元に溜まっていく液体の海と、水位の下がる水槽で静かにたたずむ魚の姿を、交互に眺めていた。アラームは鳴りやまない。すると、誰かが早歩きでこちらに向かってくる足音が、アラームの合間に聞こえた。私ははっとした。この足音の人を、私はよく知っているのだ。

 次の瞬間、ドアを開けて、部屋に入ってきたのは、よく知っている私の父だった。父は私を見て、この世の終わりを確信したかのような、冷めた怒りと諦めと絶望の表情で、私にゆっくりと近寄ってきた。いつも冷静で、何事にも動じなかった父の、初めて見る姿だった。相対して私は、この後なにが起こるのかを、冷静に頭の中でいくつも並べて予想していた。

 父が私に怒鳴りつけた。

「お前、何をしたんだ!」

 それは文字通りの意味以上に、私の今日の行動すべてに、いや、あのパリの日から今日までのすべてに向けた言葉だと思った。あの日から、私の父に対する裏切りはスタートした。そして今日、やっと終わらせることができるのだ。私は無言で父を見つめた。父は、魚の水槽を見て、ひとこと、「もう手遅れだ」と呟いた。液体が半分以上漏れ出した水槽で、魚は苦しそうにもがいていた。それはなんとなく、初めて死ぬ者ではなく、一度、死を経験したことがあり、再びその恐怖を受けようともがいているように私には見えた。私は苦しむ魚と、怒りの形相の父を見て、罪悪感に押しつぶされそうになった。部屋にはアラームが鳴り続けていた。血の気が引いたような顔をした父の冷たい手が、私の首に伸びた。

「私の理想が、私の人生すべてが、この部屋にあったのだよ。いつかかならず、この部屋から、日本を、世界を変えるはずだったんだ。私のすべてをお前が終わらせたんだ。」

「思えば、あのパリの日から、私はお前を信用していなかったのかもしれない。あの男が何か吹き込んだんだろう。私は分かっていた。だからあの男を殺したんだ。だけど、すでに手遅れだったんだな。」

 父の、私の首を絞める手に力が入る。父の本当の姿を見て、私も胸の内をすべて曝け出さなければならないと思った。これが最後のチャンスなのだ。

「お父さん、出来ない娘でごめんなさい。私はお父さんの期待に応えて、立派な娘になることが出来なかった。幼い時から、勉強も、音楽も、芸術も、何をやっても全然ダメで、あんなにたくさんのお金をかけてもらったのに、全てを無駄にしてしまった。私はお父さんの遺伝子を、まったく受け継がなかったし、お父さんのような立派な美学や理想をもって生きられるわけでもなかった。そんなダメな私にお父さんはいつも優しくて、大きな心で接してくれていたけど、私にとってはかえってそれが、無言の圧力であって、私自身の価値の無さを際立たせているように感じてた。お父さんに今、私を殺してほしい。お父さんの理想の娘になれなくて、本当にごめんなさい。お父さん、ごめんなさい…。」

 父の目から涙があふれているところを、人生で初めて見た。父は私の首を絞めながら、小さく、ごめんな、と呟いた。そして、自分も死ぬつもりだというようなことを言ったような気がしたが、意識がすでに遠ざかっていて、もうよく聞き取れなかった。私は涙を流しながら目を閉じて静かに祈った。呼吸をしようとすることをやめた。父の手のひらの温かさを感じながら、子供のころ、お父さんと遊んで触れ合ったころを懐かしく思った。それと共に、生まれて初めて、心と体が満たされていった。あのパリでの約束を、いま果たすことができるのだ。私は目を閉じた。あの水槽に無数に漂っていた魚の死体や、浴室に積まれていた海獣の死体、そのすべてが、父を呪って苦しめていたのかもしれない。私は浴室で会った、あの墓守のような一匹の海獣を思いやった。彼は大丈夫だろうか。自身の裡で、魂を許すことが出来るだろうか。もしかしたら、私が彼にしてあげられることが、もっとあったのではないだろうか、と、朧げな意識の中で後悔をした。


意識が途切れるころに、マグノリアの、甘くさわやかな匂いがした。


 私の視界が暗くなってから、どれくらいが過ぎた頃だろう。

マクシムが、私にそっとウインクをした。

                                   終




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