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悪魔のためし書き 【短編100枚 文學界新人賞応募作】

悪魔のためし書き

                         古鷹狩 百合子




 神は最初に、天と地を作られた。暗闇のなかに、光を作られた。太陽によって昼と夜ができ、その後で植物、魚、鳥、獣が作られた。最後に、人間が作られた。



   ☩



 まさか、佐伯が自殺をしているところを発見すると思っていなかったから、私はその日の午後、彼の家に向かう道中で、呑気に洋菓子屋に立ち寄り、ブランデーが強く効いた焼き菓子の詰め合わせを買った。合わせる紅茶は、母が気に入って買い溜めしている、イギリスのフレーバーティーを、缶ごと拝借してきた。私の兄と違って、洋食趣味の佐伯のことだから、喜んでもらえるだろうと思っていた。6畳の古びたアパート、しかし家主によっていつでも完璧すぎるほどに清潔・整頓に溢れたこの部屋に、大げさに洒脱な手土産を持ってきたのだった。

 私は古い木造アパートの階段を2階まで上り、2つ目のドアの前でインターホンを押した。数秒待っても、誰も出てくる気配がないので、ドアノブを捻ってみると、簡単にドアが開いた。盗まれるものがないと言って、日ごろからあまり鍵をかけない佐伯のことだ。私は別に怒られまいと思い、勝手に部屋に入った。部屋の奥から、どこかで嗅いだことのある、湿った土と腐った百合の花のような匂いがした。私はとっさに、自分の中の何か嫌な記憶が掘り起こされそうだという不安が立ち込め、思わず息を止めた。靴を脱ぎ、奥に進むと、閉められた遮光カーテンの隙間から一筋の光が漏れており、逆光の最中に、何かが天井から吊り下がっているシルエットが見えた。どうやらそれは、裸の男であるようだった。後ろ手に縛られているようだった。首に何かが巻き付いているようだった。それはびっしりと鱗で覆われた、邪悪な蛇のようにも見えた。

この部屋の中央に、目を閉じて動かない佐伯は、死してなお、几帳面に自身の置き場所に気を配っているような感じがした。部屋には、まだ人生の温もりと侘しさが多分に存在していた。

 私は玄関に鍵とチェーンをかけ、吊り下がる佐伯に背を向けて、お湯を沸かした。佐伯の死体を見ても、私は冷静さを保っていた。自分の心に波風が一度立ってしまえば、それが徐々に高波になり、しまいには手に負えなくなることを恐れていた。私が今やるべきことは、全て予定どおりに、今日の午後を過ごすことであった。

作り付けのぼろぼろの食器棚は、埃一つないが、ガラスの引き戸が壊れていて、完全に閉めることは出来なくなっている。丁寧に使い込まれた傷のある、乳白色のティーカップとソーサ―、そして一番奥に見つけた陶器製の重たいティーポットを出した。繊細な菫の花の模様が、一周施されているポットは、死んだ祖母から譲り受けたものだと、以前佐伯から聞いたことを思い出した。持ってきた缶から茶葉を二人分ポットに入れ、お湯を柔らかに注いだ。出来上がりを待つ間に、カップとソーサーを二脚、佐伯のいる居間へと運んだ。


 死体を前にして飲む紅茶は、私の精神をすこぶる清らかにさせた。カップを口に近づけ、立ち昇る香りをたっぷり吸い込むと、異国の情景が映し出された。標高高い山の、一面に低木の緑が連なる農園。スリランカ人労働者が、秋の始まりの太陽に照らされながら茶葉を摘んでいる。吹き下ろしの風。低木が上から順番にそよぐ。労働者の汗が滴になって落ちる。何時間も、何時間も……

 もし、佐伯の前でこの話を始めたら、彼はなんて言うだろうか。

私は傷だらけの彼の肌を撫で、彼の前に座り込んだ。彼を下から見上げると、天使のようでもあり、ゴルゴダのキリストのようでもあった。

私は彼の左足に口づけをした。涙は出なかった。



   ☩



 あれから、しばしば、金縛りにあう。明け方4時ごろになることが多い。これが科学的に証明された生理現象であることは知っているが、それにしても、その苦しみは私にとって耐え難いものだ。身体が床を突き破り、どこまでも奈落へ落ちていく。呼吸困難の苦しみのなかで、いつも決まって見る幻覚があった。

それは次のような光景である。

 家族や自分の知人友人の誰かが、白い衣装に身を包み、私のベッドの周りを徘徊している。誰が選ばれるのかは日によって異なるが、なぜか兄の時がいちばんはっきりと、現実味を帯びている。意識朦朧と金縛りの苦しみの中で、毎回細かな違いや、夢特有の整合性がとれない部分があるが、一貫しているのは、全員が白い頭巾のようなもので顔を覆っていて、そこにくっきりと目の模様が描かれている。時々、頭には牛や馬の頭蓋骨のようなものを被っていたり、手には奇形の花やキノコのようなもの、大小様々な鳥や小動物の死骸が握られていたりするときもある。

彼らは最終的に寝ている私を取り囲むように等間隔に整列し、その不気味でグロテスクな恰好とは裏腹に、聖母の包み込むような厳かな雰囲気で、私をじっと見下ろすのである。私は自然と涙を流す。大抵そこで、私の幻覚は終わり、気づくと変わりない朝が訪れている。寝汗と涙の痕が、寝具にくっきりと残っているのである。

 このような夢というよりも幻覚を見た翌朝は、目が覚めて意識がはっきりしないうちに急ぎ自分のデスクに向かい、常に開きっぱなしの革表紙の日記に、幻覚の内容を覚えている限り細かに記すのが癖になっていた。万が一、何かがあったとき、このノートが何かの証明として役立つかもしれない。何が起きるというのかは、自分でも良くわからないが。

 私のこの幻覚日記は、回数を重ねるごとに、より詳しく、より精密に記録されるようになった。文章だけでなくイラストも添えて、花やキノコの色形、柄なども精細に描いた。私はこの日記がお気に入りになっていき、苦しい金縛りもこの日記を書き進めるためと思えば、少しの楽しみを感じられた。


数か月前、学校から帰ると、母が私を改まってリビングに呼び付けた。

「十和子、変な日記はもうやめなさい。そのうち頭がおかしくなるわよ」

 どうやら、私の日記を無断で読んだらしかった。母はあたまがおかしくなると言ったが、それほど私を心配している様子では無かった。厳格な家庭で育った母らしく、私を冷たい口調で一度咎めると、日記を処分したと言い、それ以降は何も言わなくなった。日記のことも、日記の内容についても。私は逆に怖くなって、二度と日記をつけることをしまいと、決心させられたのだった。

 教育熱心な両親と私の仲は、世間一般と比べて良いものと言えるだろうが、兄と私は、一般的な兄妹から比べれば、考え方の違いにより関係良好とは言い難かった。確執は私たちが子供のころからすでに始まっていて、人生のいくつかのポイントでその溝はますます埋められないものになっていった。しかし、兄との過去の思い出を掘り返そうとすると、自分の裡から何か忘れているトラウマのようなものが掘り起こされそうな予感がして、いつもいたたまれなくなり、すぐに別のことで気を紛らわすようになっていた。



   ☩



 佐伯が死んだ翌日は月曜日であったが、私は高校を休んで、正午ちょうどになると散歩をするために家を出た。それ以外に気分の淀みに抵抗できる行為が思いつかなかった。

昨日の凄惨な出来事は、その夜には佐伯と親交のあった兄の知るところとなった。私は誰にも何も言わなかった。昨日、私が佐伯の家に訪れたことなど誰も知らないようであった。

当日よりも、十数時間が経過した今になって、自分の裡に黒い墨のようなものが広がっていく、不の感覚がした。朝起きて、コーヒーを淹れる段階で、いつもどおりの日常を過ごせる精神状態ではないと、ようやく実感することになった。

 この日、朝は初夏の通り雨があったらしい。家の玄関を出ると、足元は半乾きの状態であり、不透明の入道雲が立ち登っていて、目に眩しかった。夏の始まりでも、心が浮き立つことは無かった。唯一、柔らかで新鮮な風に、瞬間の慰めを味わった。日はすでに高く、影がほとんど出来なかった。

 今年初めての半袖のシャツに袖を通した。カバンを持たずに来たのは、何ももっていないほうが、失うものが無くて気持ちが楽である。鍵と革の小さなコインケースだけをデニムのバックポケットに入れ、髪も梳かさずに家を出ることにした。一番履きなれたスニーカーを屈むことなく器用に履いた。


 知り合いに会う必要のない場所に行きたい。当てもなく歩いているうちに、昔父とたびたび訪れた、古く広大なホテルの庭園を思い出した。私はまだ小学生であったが、その古めかしく美しい庭に行くと、不思議と無重力になったように体が軽く、気分がよくなった。父は時々、厳しい母や兄と喧嘩してむくれている私を、予告なく突然その庭に連れていき、その後ピアノのあるホテルのロビーで、氷いっぱいのアイス・コーヒーを二人で飲んだのだった。父と何かを話し合うわけでもなく、ただ、雇われピアニストのそつのない演奏を聴きながら、グラスの結露でふやけたストローの袋を、指先でもてあそんだりして過ごすだけだった。しかし、最も幸福な時間を過ごしていた。

 私は、今こそあのホテルの庭に行かなければならないと奮い立った。

今思えば、それは何かに導かれたようであった。



   ☩



 川沿いに聳えるホテルに到着すると、私はガーデンコートの正面入口から入り、突き当りのエレベーターで、ロビー階まで上がった。それから、このホテル特有の長い廊下を進んだ。途中にあるロビーラウンジはいつもより人が少なく、ゆったり新聞を読んだり、コーヒーとお喋りを楽しんだりしている人が数人。そしてカクテルドレスを着たピアノ奏者が1人いるだけだった。主張しないメロウなピアノ曲が、昼下がりの月曜の、気怠い贅沢さを演出していた。

ロビーラウンジを左手に曲がって、小さな扉を二枚ひらくと、庭園に出た。空調のよく効いた館内から屋外に出ると、初夏の暑さが、より際立って顔に纏わりついた。月曜日の午後ということもあって、生成り色をしたレースの日傘をさした女性が1人、楽しむように麗らかに歩いているだけで、そのほかには人が見当たらなかった。

東京とは思えない静かな時間の流れだった。風にそよぐ木々の控えめな音と、庭の奥に位置する滝の音がわずかに聞こえてくる程度であった。耳を澄ませば太陽から降り注ぐ日差しの音さえ聞きとれるほどであった。

 東京の歴史のある場所はいくつもあれど、私はこの庭園の、江戸から戦前戦後、そして現在に至るまでに継続された、落ち着きと気品が好きだった。庭師の丁寧な仕事から、建築時の持ち主の趣味の良さまでが、池の浮島に聳える優雅な松を見るだけで、充分に見て取れた。ああ、このような場所に、私の魂をずっと残しておけたらいいのに。美しい場所の効能は、どんな薬をも凌ぐ。


 赤い煉瓦造りの階段を降り、池のほうへ歩みを進めた。右手に広がる大きく洗練されたデザインの池。現在、どれくらい昔の趣を残しているのだろうか。静かに泳いでいる錦鯉たちの中には、その答えを知っているものがいるかもしれない。背中に大きな白の斑紋がある、紅のミンクのような模様をした鯉が一匹、私の足元に近寄って、顔を水面に上げた。その顔はいつも金縛りにあうときの、私をじっとみつめる家族の不気味な表情を思い起こさせた。丸くぽっかりと空いた口の奥に、無限の闇が広がって、ひとたびそこに吸い込まれれば永遠の孤独を味わわなければならない。そんな空間の入り口を、目の前で開いたり閉じたりして、私を誘惑している大きな鯉。私は気味が悪くなり、鯉から目を話して、歩みを進めた。

おそらく熟練の庭師によって、美しく刈り揃えられた植木の間を進み、さらに道祖伸を過ぎると、赤い太鼓橋が2つある。朱色が眩しく塗られた太鼓橋からは、この風光明媚な庭の、最も景観がよい場所の一つである。私は太鼓橋のたもとで、腰を屈めて低い位置から池全体を眺めた。すると、池の端の草むらが揺れ、何かがいるような気配がした。私は橋のふもとから、斜面を降り、午前中の通り雨でぬかるんだ土を踏み、池の水面ぎりぎりへと近寄った。そのとき、

「それ以上池に近づくと、危ないよ」

と、背後から青年の声が聞こえた。

振り返ると、黒い詰襟の学生服を纏った、ほっそりと伸びた背筋の青年が、建物の裏からこちらに向かって足早に歩いてきた。細面の顔に、薄く引かれた唇と、涼し気な一重瞼の瞳が、今時めずらしい高貴さと気品を感じさせた。そのような控え目で気高い顔つきの青年を、おそらく私は生まれて初めて見るのだった。

 私は、声をかけられてから青年の顔をまじまじと観察した後で、ようやく青年の言い放った注意に意識を向け、ぬかるみから足を戻し、斜面を橋のたもとまで登って戻った。そして彼に向かって、恭しく頭を下げて、感謝の意を示した。

「そこ、雨が降るとよくぬかるんでしまうのです。子供のとき、僕もよく滑って池に落ちた」

 青年は私の近くまで来て、足を止めた。何という手足の長さ、ほっそりとした首。私は青年の、近くで見るディテールの美しさの観察に耽って、時が移るのをしばし忘れた。フェルメールの絵画を間近で鑑賞したときの感嘆に似ていた。

 見たところ、青年は自分と同じ年頃であろう。けれども、言い表し難い独特の雰囲気をもっていた。

「僕は博義。あなたは?」

「私は、十和子」

「十和子さん。よろしく」

 折り目正しく、やや神経質そうに、博義はお辞儀をした。

 私は、父の付けてくれた十和子という名前の、古く奥ゆかしい響きが気に入っていたが、博義という名を聞いた時もまた、同じ感想を抱いた。自分と博義の間に、奇妙な縁を感じた。十和子という名前の響きはどことなく、厳しい日本の冬を連想させ、さすれば博義という名前は、長い冬から春の訪れを感じさせるような、ほっとする美しい名前という感じがした。 


「十和子さんが良かったら、庭を案内してあげよう」

 博義はまるで、この広大なホテルの庭園が、全て自分のものであるかのような言いぶりで私に言った。私はおどけて、

「もしかして、ここに住んでいるの?」

と、冗談で聞いてみると、

「そうだよ」

と、眉ひとつ動かさずに返答した。


 博義は、知り尽くしたようにこの広大な庭を無駄なく案内した。元来た太鼓橋を引き返す道中で、私が来た時とは何かが違っているような気がした。あるべきものが、無いような。

しかし、それが何であるか答えを見つける前に、博義はどんどん庭の奥へと歩みを進めてしまい、私は後れをとらないように、彼の背中について行くので精一杯だった。

 雅な庭園のさまざまな角度を楽しみながら、私についてさまざまなことを彼に話していることに、私は自分で驚いていた。日ごろ、あまり簡単に人に心を開かない自分が、なぜかこの青年には、あけすけに自分の心の裡を明かしてしまっているのだ。二度と会わないのかもしれないのだから、なにも清廉に取り繕う必要もあるまい、という気持ちも無くはなかったが、それ以上に、私は彼に神の導きのようなものを期待していた。ちょうど、寺院や教会の祈りでは、できるだけ正直な裸の自分になるよう心掛ける現象に似ていた。


「私の兄をどう思う?」

 私は、佐伯の件よりも先に、兄の話を博義に話した。

 兄は私より3歳年上で、幼少のころは、文字通り毎日どこに行くにも一緒に過ごした。そのころの兄は、どこに行っても「美少年」の誉れを得ていた。特に12歳ごろの兄の、天使から人間の男に移り変わる間の美しさと凛々しさたるや、それはアジア人というよりもヨーロッパ人のそれに近かった。私はそんな兄が確かに大好きだったが、私が15歳にもなると、兄は私に対して徐々に口うるさくなっていった。私のやることなすことが、気に入らない、見ていられないといった様子で。

高校を卒業する頃、兄は未だ美しい青年という周囲の評価であったが、妹の私から見れば、昔の天使のような美しさを失い、ほとんどテストステロンの塊のようになってしまった兄に、さほど特別感を感じなくなっていた。

 そして私が高校に入ったころには、兄とは徐々に距離をとるようになり、ここ二年は、共に外出はおろか、家で顔を合わせるときに会話をすることはなくなっていた。

今年に入ってから何度か、兄の大学に忘れ物を届けに行った。その時には何かしら会話をするのだが、やはり兄は私にどこかぎこちなく、何かを隠している雰囲気で私に接するのだった。私はそんな兄が余計に嫌になり、兄と同級で友人の佐伯を見つけ出しては、毎回話すようになっていった。兄はそれも気に入らない様子だったが、しばらくは何も言わなかった。

私はそんなことは今までどうでもよいと思っていたのだが、今、この博義と出会って、兄のことをふと、尋ねてみたくなったのだ。そして私の一連の兄に関する説明の後で、質問に答えた博義の言葉は意外なものだった。

「僕には君のお兄さんの正体が分かる」

 博義は細い指をズボンのポケットに半分だけ差し込んで、ぶっきらぼうにそう言っただけであった。


 庭園の奥の小路の、ある場所に立って遠景をぼんやり眺めるように意識を薄めると、川瀬巴水の版画そっくりの、木々が重なり合った厚みのある情景であることに気が付いた。空に聳える雲母のようである。私はその川瀬巴水の世界に、博義の姿を加えた。痩身で雅な青年は、版画の中で、うまくその存在感を控えて鎮座した。それはヨーロッパ絵画のように人物が主張しすぎるものではなく、日本絵画の調和と研ぎ澄まされた洗練をもって、ひとつの作品として私の目に映っていた。しかしその中にも、この一大庭園の主が彼であるという、堂々たる威厳が感じ取られた。


「ねえ、私たちは、もしかして昔に会ったことがある?」



   ☩

 


 佐伯は兄の高校時代からの親友であった。

私が初めて佐伯に会ったのは、彼らが高校2年の春、私の家に佐伯が泊まりにきた時だった。私は女子高で育ったこともあり、兄意外の若い男に会うのはめずらしく、佐伯に対して過剰な警戒心を抱いていたのを覚えている。それを見た兄が、こいつは男になれてないから、すまない、と、佐伯に対して理由の分からない謝罪をしていたのだった。何がすまないなのか。私はバカにされた不快感と、佐伯に対する緊張感から、改まって挨拶をすることもなく、もちろん交流をするわけでもなく、未知の男を避けるようにして自室に籠って過ごした。知らない若い男が、私の家のシャワーを使うのが、なにかとんでもなく不品行な事のように思えた。結局私はその日はシャワーを浴びるのを拒んで、眠りについたのだった。

 その後も、佐伯はちょくちょく私の家に遊びに来た。私も徐々に慣れていって、ときどき3人でカードなどをして時間を過ごすこともあった。しかし、二人きりで会話を交わすことはほとんど無く、何か話すことがあれば兄を挟んでのやりとりであった。

佐伯は兄とは対照的で、質素で素朴な男だと思ったが、美術や文学、映画の趣味などは、私と驚くほどよく合った。兄は私と佐伯を見て、付き合えばいいのに、とからかったりするようになった。私は佐伯に対して恋愛感情は無かったが、成り行き次第ではキスくらいしてもいいか、というほどには心を許していた。

しかし、佐伯はそのような凡庸な表情や挙惜を私に見せたことは、ただの一度たりとも無かったのだった。


 ある日突然、佐伯の家に行くことになった。確か、兄の誕生日を祝うパーティをするとのことで、私が話を聞きに、佐伯の家まで行ったことがあったのだ。

教えられた住所は、私の学校からほど近くにあったので、私は学校が終わると制服のまま、佐伯の家に向かった。大通りを2本ほど脇道に入り、急こう配の坂を下りきると、その突き当りに佐伯の家があった。私は住所を確認して、本当にここが佐伯の家なのか、間違いではないのかと、何回も確かめなおしたのを覚えている。なぜなら、私が想像するよりも、はるかに貧しい外観の家だったからだ。家というよりも、倉庫といったほうが近い。その建物は、一部の土壁にひび割れが入っており、そこから植物がびっしりと生えていた。窓には木製の閊え棒が嵌められていた。屋根は錆びて変色しきったトタンで、小さな二階部分からせり出したバルコニーには、大量の洗濯物が、堂々と干されていた。私は表札を探した。表札は見つけられなかったが、代わりに、出来合いのポストに手書きで「佐伯」と記されていた。私は自信をもって、インターホンを押した。


 しばらくして、佐伯がドアを開けた。

「やあ。わざわざありがとう。迎えに行きたかったけど、女子高の周りをうろうろするのは、ちょっと勇気が要ってね」

 白々しくそう言って、私を中へ招き入れた。

 佐伯はくたびれたスリッパを私に差し出した。神経質でブルジョア気質の私の母だったら、見ただけで悲鳴を上げたかもしれない。

 しかし私は汚れたスリッパを見て、佐伯自身の清潔さがむしろ際立って感じられたのだった。


 佐伯家には、私の気に入るものがいくつかあった。

 たとえば、居間に掛けられた古い掛け軸。硬派な墨絵の侘しさの中に、丹頂の頭のただひとつの赤が、見る者をはっとさせる力があった。また、その前には古い卓袱台があり、たしかに相当古いが、職人が丁寧に漆をかけたのがよくわかり、骨董の品格を保っていた。新しいもの好きの私の両親のせいで、なにもかもがモダンにまとめられた自分の家よりも、佐伯家の使い込まれた調度品のほうが、上趣味であると思った。

 そして佐伯は意外にも、洋趣味であった。二階に位置する小さな彼の一室の、小ぶりで清潔なベッドが置かれた角には、フェルディナンド・ホドラーの「選ばれし者」が控え目な木製の額と共に飾られていた。私はこの、左右対称性のある絵を好んだ。

ホドラーの作品はいずれも、真ん中に中心となる存在を配置し、それを取り囲むように、リズムを持って配置されたものが、安心感と万物の共通性を感じさせる。しかし、これがデザインやイラストレーションの、完全なる対称ではなく、対称の中にも非対称性があるところが、この世界の面白みに通じている。また逆に、ホドラー的な遠隔視野から覗いてみれば、この世界の様々な違いも、この『対称のなかの僅かな非対称性』に過ぎない。女と男、大人と子供、右翼と左翼、金持ちと貧乏人、白人と黒人、本妻と愛人……。

 そして、唯一の本物である、確立した存在になるには、この『真ん中』のモチーフになるしかない。真ん中のものは、大概、そのものをセンターラインで区切った場合に左右対称になる。しかし、広い視野で見れば、真ん中は他とは独立した特徴をもつ唯一の存在である。

私はこの真ん中の存在にどうしたらなれるのか、しばしば考えていた。もしかして、だれしも自分こそが真ん中の存在であると、心の裡では考えているのではないか? または、実際そうではないと自覚している者も、本当は世界の価値観が自分に合わせるべきだと思っているのでは? 私がまさに思っているように。

ある時、兄にこんな質問をした。

「自分がこの世界の中心だと思う?」

 兄は、なんだよ急に、と一瞬怪訝な表情であったが、私が真剣にこの手の質問をすることは、幼少期から度々あったので、それほど妙なことだとは感じなかった様で、一拍考えた後に、こう答えた。

「中心という定義は難しい。少なくとも、この家の主役は、お前だと思うよ」

 そう真面目な顔で言って、私におもねるようにして、お茶を濁した。私はすかさず言い返した。

「私は主役にはなりたくないわ、別に。ただ、軸になりたいのよ。何者にも干渉されない、絶対的存在として、自分を認めたいの。だってそれ以外の生き方だったら、常に自分の反対の存在が出来てしまって、比べながら生きなければならないんでしょう。私、競争って死ぬほど嫌いなの。知っているでしょ」

「ああ、よく知っているよ。全く賛成できないけどね」

 私の不機嫌な態度に兄は意地悪く返答し、この話題は終了した。私は兄の、自分の美しさをいちいち理解した上での、常識的な言動の一切が、鼻について嫌いだった。私の質問に対する兄の本音の返答はイエスであることを証明したのだ。それをはっきりと表明しないところもまた、私には下品に思えた。

それに比べて、控えめで純粋な美しさをもった博義に、私は惹かれた。兄とも佐伯とも違う、本物の貴族の品格が、際立っていた。彼のような存在こそが、まさに真ん中であるべきなのだ。



   ☩



 博義の案内で、山茶花荘と書かれた建物に着いた。この庭園の最奥に位置する。博義は、私を山茶花荘の茶室に通した。窓が開いており、そこから夏色の風が、茶室内の鮮やかな若草色の畳を匂わせ、室内まで緑の風情で満たされていた。縁側の、庭を眺められる位置に、艶やかな金糸の刺しゅうを施された座布団が、2枚、並べて置かれていた。私は手前の座布団に、膝を畳んで腰を下ろした。朝の通り雨によるものか、だれかが水やりをしたのかは分からないが、滑らかに刈り揃えられた山茶花の低木や、風に吹かれる紅葉の青が、充分な水分を蓄えて午後の日差しに照っていた。その照り返しの温度がちょうどよく、風と混ざって私の喉元まで届いた。とても心地が良かった。喫茶店や電車内の空調の、刺すような人工風が嫌いな私にとって、これ以上の快適は無かった。

 私が庭に気をやっていると、背後で物音が聞こえてきた。お茶を点てているような、茶筅が茶碗を擦るような音だった。しばらくして、ふすまが開き、博義が茶碗を二つ、漆の盆にのせて入ってきた。

「素敵。あなたが点てたの?」

「そうだよ。祖母から教わったんだ。僕はお茶を点てたり、人に振る舞ったりするのが好きでね。父からは、女々しいと嫌味を言われたこともあるけれどね。」

「そんなことないわ。女々しいなんて。立派な趣味よ。」

 私はやや不快を含ませた言い方で窘めた。博義は笑って、

「はは。母も同じ反応だったよ。趣味に男らしいも女らしいもあるわけないってね」

と言いながら、私の隣に、その長い脚を折りたたんで腰を下ろした。

 博義が私の前に、お抹茶と、繊細な和三盆の菓子が乗った漆の皿を置いた。私は一礼をし、茶碗を手に取り、それを目線まで上げて観察した。淡い山吹色の釉薬が施されたその茶碗には、流麗な筆で小鹿が二匹、描かれていた。つぶらな瞳の小鹿に、私は嬉しくなって、

「どうして私が鹿を好きだって、分かったの?」

と言うと、

「そこまでは知らなかったけれど、よかった。君は必ず、動物や植物を愛する心をもつ人だということは、分かっていたけどね」

と、予想しない返答が返ってきた。


「天国では、何の話をすればいいか、知っているかい?」

 博義は私に並んで胡坐をかいていたが、それでもどこか雅だった。私は質問に黙って首を横に振った。

「花鳥風月の話さ。あの世には、歴史を超えて様々な時代の国や人種の人々が、いっしょくたに過ごしている。時代や国を超えて雑談するのに、自然や花、動物の話が最もふさわしいのさ」

「なるほどね……」

 博義があまりにも軽快に、流れるような口調で説明したので、実感と経験に裏付けされているかのように聞こえた。同時に、昔どこかで、まったく同じ話を、同じ口調で、私に説明した女性がいることを思い出した。

「ねぇ、その話、私聞いたことがあるわ。子供のころに……」

「誰に聞いたか覚えてる?」

「ええ、あれは、私が軽井沢の家に行ったときよ。よく覚えているわ」

 私は、昔の錆びついた美しい記憶のかたまりに水を与えて、頭の中で生命を蘇らせた。次の瞬間、はっきりとした記憶が、花の香りを伴って立ち上ってきた。



   ☩



 私には、長年、黴の匂いがする倉庫に閉じ込めてある、古い記憶があった。それを時々取り出してみたくなるのだが、取り出したところで、誰に聞かせることもできない。なぜなら、この話題を家族や友人に話そうと試みると、決まって皆、話題をすり替えるのだ。そうして自分のなかでも、触れてはいけないものとして、扱うようになっていったのである。

私は物心がついてから、10歳になるまでの間、何度か家族を離れて施設に預けられたことがあった。その施設は、軽井沢のどこかにあったように覚えている。数年前に、軽井沢に一人で行って、自分の記憶の限りにこの施設を探し回ったのだが、結局、それらしい建物を見つけることは出来なかったのだが、あれは確かに、軽井沢であったと、今でも感じている。

 その建物は、西洋風の小さな別荘が立ち並ぶ細い坂の小路を、登り切った正面にあった。可愛い青銅の風見鶏が入口の門のところに立っており、その奥に進むと、黄色い壁の、フレンチコロニアルな外観の瀟洒な建物があった。別荘、というよりは、大きめの一軒家という感じだったが、幼少期の私からすれば、西洋のお屋敷といった印象だった。玄関と家の一周は石畳で舗装されており、そのすぐ外側は、森であった。そのため昼は絶えず鳥が鳴き、夜はただ、風の音と闇が存在するだけであった。私は毎晩、とにかく森に潜む闇が怖くて、朝が無事に訪れることを祈って、ベッドに潜っていたのを覚えている。

 そこに連れていかれた初日、両親と私は、ペールピンクのベルベット地のシングルソファが3脚ある部屋へと通された。壁もくすんだピンクに塗られており、部屋の中央に置かれた大きなシェードのランプには、水晶の如く輝くビーズが、ぐるりとちりばめられていた。床には繊細に織り込まれた、メダリオン柄のペルシャ絨毯が、部屋の落ち着きと華やかさを同時に格上げしていた。軽井沢らしく、石造りの本格的な暖炉があった。私が滞在していたのは夏だったため、この暖炉は、子供たちの遊びでの隠れ場所として機能していた。私はこのロマンティックな部屋が、一目で気に入った。私と両親を出迎えたのは、先生と呼ばれている一人の髪の長い女性であった。

先生の具体的な名前は、最後まで知ることがなかった。先生は、はじめに私に向かって柔和な笑顔を向け、生苺をミルクの中で潰した、自家製の苺ミルクを、綺麗な切子のガラスの容器に入れて、私に出してくれた。私はすぐさま母の顔色を窺った。私の家では、砂糖の入ったジュースやコーヒーミルクなどは、神経質な母の意向により禁止されていたからである。母は私の様子に気づいて、一言「頂きなさい」とだけ言った。許しを得た私は、まずそのグラスを手に持ち、複数の色で構成されたガラスの美しさを様々な角度から堪能した。そして、白と赤の混ざりあった液体の表面を鼻に近づけ、新鮮な甘い香りを吸い込んだ。


 この施設で印象的だった事といえば、一つは「剥製の部屋」である。文字通り、動物の剥製が並べられている小さな部屋である。変わった特徴として、部屋の両サイドに、二列ずつ剥製が並べられており、おおよそが左右対称に2頭ずつ配置されていた。それはまるで、チェス盤のようであった。一番外側に小鹿の雄、その内側に山羊の雄、その内側に馬、そして中央に見事なたてがみをもった獅子の剥製があった。それらの剥製は今にも動き出しそうなほど、躍動感と生命感に溢れていた。毛並みはどれも最高級の艶を保っており、ひとたび風に吹かれれば草原のススキのように、風に靡きそうであった。私は我慢できずに、なんどもこれらの毛並みに頬ずりをしたことがあった。見た目に反して、しっかりと芯をもった毛並みは、私の頬に予想外の硬い感触を与えた。剥製になろうとも動物たちの目には一点の曇りもなく、純粋で疑わないことの素晴らしさを、子供の私に示唆しているような感じであった。

私はこの施設で過ごした数か月の間、嫌なことがあったり落ち込んだりした時には、決まってこの剥製の部屋に逃げ込み、動物たちと精神の対話をした。施設にいた他の子供たちには、この部屋は残酷であるとか不気味であるとか言って、近寄らない者も多かったが、私はこの生身に近い形を留めた動物たちの部屋が大好きだった。なぜなら、私の家には動物の「骨」しか置いていなかったからだ。私の両親の部屋のベッドの隣には牛の頭蓋骨が、兄の部屋の入り口横には馬の頭蓋骨が、昔から飾られていた。それらがなぜ置いてあるのか、両親に尋ねたことがあったが、明確な答えは返ってこなかった。



 施設での数か月間の生活は、毎日を次のように過ごしていた。朝、鳥の鳴き声で起床し、簡素な洗面所で顔を洗い、歯を磨く。そしてリビングルームに行くと、先生に朝の挨拶をする。ソファに座り、朝のお茶を飲みながら、他の子供たちとおしゃべりをする。10分くらい待つと、先生がイギリス式の朝食を用意している。毎日、先生が森で摘んできた季節の花が、リビングルームに飾られていた。季節の花と言っても、軽井沢の季節は東京よりも1か月以上遅く移ろい、生息している植物も東京で見られるものとは比べ物にならないほど多彩であった。見たこともない大輪の百合科の花や、日本に生息しているとは想像できない毒々しい深紅の花弁を持った花が、自分の住んでいる世界とは違う場所に来ているという印象を強く植え付けた。

それにしても、先生がこの施設に飾っている花の中には、普段絶対に見ることがない、奇怪な容姿をしたものも多かった。それらは、百合や薔薇というように、何か特定の種類の花の仲間であるとは思えない、極めて個性的かつ独創的な見た目をしていた。例えるのであれば、ある日に見た花は、フェニックスのような翼の形をした花弁の中央部分に、白黒のダルメシアン模様をした花弁が連なっており、またある日に見た花は、左右非対称の大きな花弁が二枚あり、その中央にはパリのコンコルドのように、金色の細長いものが天に向かってまっすぐ聳え立っているデザインであった。それらは遠くから見れば、まるで前衛芸術家のオブジェのように見えるのだが、近くに顔をやると、しっとりと水分を含んだまぎれもない有機物であることが分かる。そして、それぞれの花に専門の調香師が付いているかのように、完成された魅惑の匂いを伴っていた。

そう思っていたのは私だけではなく、一緒に施設で過ごしていた4人の子供たちも、おおよそ同じような感想を話していた。

「先生、ここらへんの花はどうしてこんなに変わった形のものばかりなの? もしかして、先生が自分で育てているの?」

 一人の男子が、そう聞いた。

「そうね。すべてじゃないけれど。わたしの趣味のひとつと言えるわね」

 そう言って、先生は、生まれたてのか弱い子猫の顎を撫でるような手つきで、花瓶に生けられている、奇妙でともすればグロテスクな花たちを、一つ一つ指の背中で撫でていった。その瞬間に花たちは、産みの親の指先に触れて、まるで女性器であるかのように、その肉厚な花弁をゆっくりと広げていくように見えた。私はそれらの奇形の花の裡に、自然に存在しないある種の美しさを、子供ながらに感じ、しばらく胸の高鳴りが止まらなかった。こんなものを産み出している先生に対して、畏怖の念を感じずにはいられなかった。そんな私の表情を、先生は色付きの眼鏡越しに見つめていた。私は頭を裸にして、公開させられている気分になった。

 あの夏の軽井沢での滞在の間、私は先生のお気に入りであった。それは他の子供たちと比べて、明らかであった。先生は私を気にかけて、子供には難しいことも平気で話題にした。それらは大概抽象的なものであったが、今考えてみれば、子供こそ抽象的な思想を学ぶのにふさわしいのだ。大人になるということは、具体的なことばかりしか考えられなくなるということだ。それを先生は、理解していたのである。つまり、幼少から大学までの教育課程で、最も難易度が高く重要なのは、幼少期なのである。

 

「徳の高い人間になるために、与えられる人になりなさい」と、先生はよく私に言った。私がこの施設で会得したことは、とにかく目に見えないことを無視してはならない、というようなことであった。


 先生の机は、剥製の部屋の一角に置かれていた。しかし、先生は日中、庭の手入れをしているか、数日に1回の来客をもてなしているか、子供たちとおしゃべりやボードゲームを楽しんでいるかで、剥製の部屋にいることは少なかった。どうやら子供たちが寝静まった後に、この机で事務作業などをしているようだった。剥製の部屋は、私以外の子供たちには人気がなく、怖がってだれも近寄らないので、ほとんど私専用の憩いの場所として機能していた。

変わりやすい軽井沢の天気であるが、その日は快晴と雷雨を一日のうちに何度も繰り返す、おかしな日であった。先生はコーヒータイムの後で、私をはじめて、剥製の部屋へと呼び出した。

 私が剥製の部屋の扉を開けると、先生は雄々しい巻角を携えた山羊の剥製の前に立っていた。そして私に気づくと、長い髪を手櫛で整えた後の手で、私に部屋にはいるように促す手振りをした。先生の髪や衣服からは、いつも焚きしめたお香の香りがしていて、先生のいる部屋にひとたび入れば、その匂いがはっきりと鼻をつくほどであった。

「十和子さん、いらっしゃい。今日の気分はどうかしら」

 先生はいつもと変わらぬ様子で、型通りの挨拶をした。

「気分はいいです。ありがとうございます」

私はそうに答えながら、なにがはじまるのだろうかとやや恐怖して、先生のほうを直視することができなかった。

しかし、先生の二言目は、私の予想していたものとは違うものであった。

「お兄さんは元気かしら」

 先生は風で緑が揺れるのを窓から眺めながら、確かにそういった。

私は動揺しながら、

「先生は兄を知っているの?」

と、問いに問いで返してしまった。

「よく知っているわ。あなたのお兄さんも、ここで過ごしたことがあるのよ。でも、ちょっとあの子は、特別な子だったから。私もあの子も苦労したわ。数年前のことだけど、あなたの顔を見たら懐かしくなってね。今はどうしているかな、と思ってね」

 私にとってそれは初めて聞かされる事実であった。兄も両親も、そんなことは一言も口にしたことはなかった。

「彼は率直に言って、ここでは普通では無かったわ」

「普通ではないって、どういう意味ですか?」

「あなたは、お兄さんとは仲が良いそうね」

「悪くないと思いますけど」

 両親がそう教えたのだろうか、と思った。

「私はしばらく、お兄さんはとても賢いと思っていたの。でもあることがあってね。そうではない、少し問題があるということが明らかになったの」

 先生の説明によれば、その事件は雪の日に起きた。

 兄は、この施設にいる間、夜間に人目を縫ってたびたび抜け出していた。施設を出て、長い坂を下る途中にある、教会に行っていたのである。そして次第に、先生や施設のほかの子供たちに対して反発する態度を見せるようになっていった。最初は素直だった兄だけに、その反発はすさまじいほど急速に、はっきりとしたものだった。

「兄は教会に行って、何を?」

「それは、誰にも分からないわ」

 そしてある日、兄はこの剥製の部屋に先生と、他の子供たちを全員、呼び出して集めた。

「いったい何をしようというの?」

と、先生が聞くと、兄は

「あなたのやっている恐ろしいことを、みんなに知らせるんだ」

と、言った。

「いったい、何の話……」

「分かっているでしょう。あなたは悪魔だ。みんなだまされちゃいけない」

「なんてことを……」



 先生が私に説明してくれたのは、それだけだった。それがどういう意味なのか、私は分からなかったし、分かるべきではないと思った。分かってしまえば、私と兄の関係に溝ができるような気がしたのだ。



   ☩



 兄の言動は、子供たちにはあまり理解されなかったようだが、少なくとも先生の心に消えない傷を刻み込むことに成功したようだ。先生は私に、事の詳細を話そうとはしなかったが、強調して、

「あれは呪いのようだわ。あの日以来、私は自分が悪魔であるという暗示にかかってしまい、苦しんでいるの。あなたのお兄さんに、あんなことを言われたあの日以来ね…」

 先生は、眉間に皺を寄せたあと、左手で眉間を押さえて俯いた。私は同情しないわけには行かなかった。先生の顔つきは、自然の中で牧歌的な生活を楽しんでいる者とはかけ離れた、極めて神経質で張り詰めたものだった。過去の兄の言動が、先生をより追い詰めたことは、間違いないだろうと思った。

 


 今、はっきりと思い出したことがある。それは、先生のデスクの上に飾られていた絵画の中に、ホドラーの絵があったということである。


 人間は時代と生きているものである。いくら自分独特の理念を持っているつもりになっていても、その大部分は、その時代の社会生活の中で決定づけられた価値観である。昔の人間は、今と比べて死ぬことが珍しいことではなく、身近な誰かが手軽に死ぬということがよくあった。今は医療の発達や平和な社会によって、死というものは大変残酷で、受け入れられないものとなっている。こうなると、芸術家でも、何歳までに結婚をして、何歳で子供を作って、何歳で資産いくらを達成して、、などと、人生計画をたてようとするが、昔の人間は、いつ死が訪れてもおかしくないので、こういったことよりもまず、今を生きるということに、専念していたように思う。それが、今よりも昔に芸術家が豊富だったことの、ひとつの理由であろう。人間は死を、うまく利用して生きねばならない。それができたものは、よい芸術家の道が開かれる


この施設のはっきりとした目的は、未だに分からない。ただ、明らかなことは、この施設は貴族的な精神のもと成り立っていたということだ。具体的に言えば、この施設にいる間、話してはならないトピックが定められていた。それは、お金に関すること、仕事に関すること、そして家族に関することである。先二つは、意図が容易に理解できる。俗物的な野心を捨て、自然や文化を愛する精神のみを育てようというものであろう。しかし家族の話を禁止されることは、やや不自然な気がしていた。家柄に優劣がつくのを抑止するためかもしれない。そう考えると、従来の貴族とは異なる、新しい種類の貴族を養成する目的であったのだろうか。いずれにせよ、私はそこで、明らかに私の人生における価値観を決定づける、重要な出会いと経験を幾重にも積んだのである。

 特に夏の間、東京と違って素晴らしく幸福に満ちた暑さを感じられるこの季節に、私は度々冒険をした。施設のすぐ西の森を、自分の感覚だけを頼りにまっすぐ進んでいくと、小さな湖に出た。一周を歩いて30分もかからないほどの湖であるが、子供の私には、この世界の秘境を自力で発見したような感動も手伝って、大湖畔に思えていたものだった。白樺が等しい感覚で生えているこのあたりの森は、森といっても昼間はかなり明るく、太陽が高い時間帯には、頭上からまっすぐに光が差し込み、そのまま地面の芝に降り注いだ。まるで誰かが手入れを怠らないでいるかのように、ペルシャ絨毯のような芝は毎日艶を失わなかった。私はこの明るい西の森を抜けて湖畔に出るときの感動がたまらなく好きだった。そのため自分の中で、この湖を「感動の湖」と勝手に名付けていたのだった。

 感動の湖には、中央やや奥に浮かぶ、小さな中洲があった。人間が10人も渡ればいっぱいになってしまうくらいの小さな小島だが、何本かの低木と、百日紅の木が植わっていた。遠くからみると、ただの中洲に見えるのだが、よく目をこらして観察すると、低木に囲まれた木陰に、小さな小屋のようなものを見つけることができた。小屋といっても、大人が腰をかがめてやっと入れるほどの高さで、外観は寄せ集めの木で丁寧に作られたような感じであった。しかしテントというほどの粗末さはなく、それはきちんとした家の体を成していた。なにより屋根がすばらしく、薄く裂いた木のようなものを、丁寧に編み込んでいるようで、ヘリンボーン調になっていた。私は湖の岸に座り、ぎりぎり水面に触れない位置から、あの中洲のおしゃれ小屋を何時間も観察した。途中、寄ってきた白鳥の番に、持っていたパンくずをやったりしながら。

やがて日が傾いてくると、小屋の裏側から、人影が現れた。手に木の枝をもっており、それで小屋の周りの背の高い草を払いのけていた。痩身の男性で、控え目な白のシャツと、日焼けした肌のコントラストが眩しかった。遠くからは、それ以上の印象を得ることはできなかった。私はこの男に近づいて観察をしたかったが、湖を中洲まで渡る術をまったく思いつかなかった。私は立ち上がって、今まで餌付けをしていた白鳥たちに、小さく「ごめんね」と口に出して謝った後、湖の水を手ですくいあげて、それを勢いよく白鳥の背中に浴びせた。驚いた白鳥は2羽同時に、その大きな翼を広げ、水面を勢いよく蹴って飛び上がった。私の目論見通り、中洲の男は、こちらに気づいたようだった。私は彼に興味があるということを示すように、しばらく中洲のほうを向いて静止した。男もまた、しばらくの間、動かずに私を観察しているようだった。



   ☩



翌日、私が目を覚ましたときは雨だった。私はいつもどおり先生とほかの子供に朝の挨拶をすませると、庭を散歩するふりをして、傘と白鳥用のパンくずをもって、西の森へと入っていった。晴天の日は明るいこの森も、雨が降れば一様に暗くなり、途端に恐ろしげな森へと姿を変えるのだった。そこには何か魔物が住んでいそうで、私は目を半分つぶって、暗い森をまっすぐに、感動の湖を目指して駆けていった。駆けているにも関わらず、いつもより時間がかかって、湖に到着したころには、雨が上がり、厚く黒黒した雲だけが空に残されていた。

岸まで行って中洲の家を確認した。数分間見つめていたが、誰の姿も見つけられなかった。私は途端にやる気を失くし、急に自分の濡れ汚れたデニムの裾が気になりだした。それはきれいなライトウォッシュの色をしたデニムで、跳ねた泥が落ちるかどうか、不安になった。このまま放置してしまうと汚れが落とせなくなるかもしれない。そう思って、湖の岸へ行き、靴と靴下を脱いで、片足の足先を20センチほど、湖に沈めた。夏の朝の、ひんやりとした湖水が、つま先から、繊維をつたって登ってくるのが心地よかった。私はさらに湖に入ってみたい気分になり、25センチ、30センチと、体を湖へ沈めていった。水面が体を上り詰めてくる感覚は、初めて経験するエクスタシーと言ってよいほどのものであった。私は自分の欲望に制御が効かなくなっていた。その時、

「何をしているんだ!」

と、低い男の声が真後ろから聞こえた。私ははっとして、振り返ると、昨日中洲で見た男が、こちらに向かって走ってくるのが見えた。私は目標を思わぬ形で達成したときの、得も言われぬ満足感を感じて、湖から体を引き上げた。


 近くでみると、その男は身長180cmほどで、細見の身体とは裏腹に、逞しい筋肉を乗せた肩甲骨が、シャツの上からでも見て取れた。昔なにかで見た、西洋の悪魔が隠している翼のようだと思った。日も高くなってきて、わずかに汗ばんだ首元に、金色のメダイユのネックレスが光っているのが、ちらちら見えた。そして目を上にやると、長いまつ毛の奥に、翡翠の緑をした瞳をもっていた。

「ねぇ、あなたここに住んでいるの?」

 私は、ごく基本的なことから、男に尋ねることにした。男は、持っていた手ぬぐいのような布きれで、私の濡れた足を拭きながら

「そうだよ、ここにきてから、もうすぐ季節が一周するな。君は? この辺に住んでいるの?」

 男の手首は女性のそれのように、か細く白く繊細であるのにも関わらず、手の甲から指先にかけては骨ばっていて、林檎を片手で押しつぶすことさえできそうな様子であった。

「私は住んではいないけど、森の向こうの家に、毎年しばらく預けられているの。お父さんとお母さんがそう決めたから。理由はよくわからないけれど。」

 私は思っていることをそのまま説明した。

「ふうん、なるほどね。それで、湖に入った理由は?」

 私は、次に男の名前やどこから来たのかを尋ねようとしていたにも関わらず、男のほうから質問をされてしまったので、いささか動揺して、押し黙ってしまった。男は私のその様子を見て、

「話したくないこともあるだろうね」

と、回答を得るのを早々に諦めた。

「君はよくここに来ているだろう。昨日も白鳥を脅かしているのを見たよ」

「脅かしていたんじゃないわ。遊んでいたの。あの2匹の白鳥と私はすでに深い絆で結ばれているの。信頼関係ね」

「うらやましいね。じゃあ僕とも今日から信頼関係を始めてくれるかな。ここが気に入っているけれど、時々孤独でね」

「もちろん、いいわ」


 そのような会話をしていると、風が強くなってきた。茂った背の高い葉たちが互いに擦れる音が、強弱をつけて断続的に聞こえ出した。湖の水面に、海のようなさざ波が立ち、その揺れに白鳥たちがやや不快そうに見えた。

「今日はスコールがあるかもしれない。森を抜けなければならないなら、早く戻ったほうがいい。僕はいつもこの湖の真ん中に暮らしている。よかったら、また明日にでも遊びにきて」

「どうやって、湖の真ん中まで行くの?」

「あれだよ」

 そう言って、男が指さした遠く先には、桟橋があり、その脇にかすかに、黄色いボートのようなものが留めてあるのが見えた。

「なるほどね。また明日、天気が良かったら、あの桟橋のあたりに私がいないか、時々気にしてみてね」

「分かったよ。さあ、早くお帰り。気を付けて」

 男はそう言って、私の背中を押してやや乱暴に送り出した。私はその慣性に任せて、森のほうに走り出した。たしかに、あたりが暗くなり、再び雨が降り出しそうな匂いがしていた。

「ところで! 僕の名前はセバスチャン!」

 後ろから、男がそう叫ぶ声が聞こえてきた。私は振り返らずに、走ったまま、にんまり

と笑った。



   ☩



 施設に戻ると、勝手にいなくなった私を、先生が探していたようだった。小雨から、だんだんと霧雨に変わっていった。先生は私の濡れそぼった髪を見て、無断で外出してはいけない、などと、一通り窘めた。しかし、私が湖に入ったことは、気づかなかった。雨で全身が濡れていたおかげで、セバスチャンと出会った一連の出来事について、話すことを免れた。先生は最終的に「風邪をひかないように、すぐシャワーを浴びなさい」と言ったが、私は従う振りをして、部屋に戻ると、濡れた服のまま、一人掛けの背もたれの高いソファに、勢いをつけて腰を沈めた。母が見ていれば怒鳴られるに違いない。しかし、そんなことも構わないほど、私の頭の中は今日の一連の出来事でいっぱいに埋め尽くされていた。窓に降りかかる雨の量が多くなっていた。セバスチャンは、こんな雨の日はどうするのだろう。私はこの謎にまみれた湖の住人に、惹かれずにはいられなかった。



   ☩



「ふうん。そのセバスチャンって男」

 博義は、長い間、私の話を興味深そうに聞き入っていたが、区切りのよいところで割って入った。

「なんでそんなところに住んでいるのか、聞いたの?」

「ええ。一番はじめにそう聞くべきだったって思う。なぜか、彼に会うといつも、特にそう、あの二つの緑の瞳を見つめると、なんだか精神が不安定になって、予定していたことが話せなくなっていたわ」

「不思議だけど、分かるような気がするよ、君の言っていること」

 私の曖昧な説明でも、博義は少しも苛立つことなく、まっすぐに受け入れてくれるのが、嬉しかった。

「彼は特に、目の色が会うたびに違うの。朝に会うと澄み切った湖のような緑色、曇りの日の午後に会うと、まだ磨かれていない翡翠の原石のような、灰褐色が混じった色、そしてよく晴れた夕方に会うと、そう、完璧な金色だったわ」

 そう言って博義の目を見つめた。彼はまだ見ぬ天界への入り口の扉のような色の目をしていた。

「そろそろ、日が暮れる。帰ったほうがいい」

 そう言われて、ここに来てからすでに六時間もの時が一瞬にして流れていったのを確認した。自分がなぜここに来たのか、すっかり思い出せなくなっていた。



   ☩



 そう、目の色といえば。ちょうど、初めて彼の名前を知った翌日の夕方に、セバスチャンに会いに行ったのを思い出した。その日は太陽がいつもより大きく、森に沈みゆくときに、辺り一面を橙色に塗りつくしていた。たしかあれは木曜日で、先生が子供たちをリビングに集めて、好きな本を読み聞かせる日であった。先生の本の趣味は、子供にとってはやや難しいものが多く、ある時はラディゲや、またある時はジッドであったりした。日本のものでは、泉鏡花や森鴎外が選ばれたが、子供の私にとってそれらは日本語というより、別の国の言葉で書かれたものであるようなエキゾチックな印象を受けた。現代風ではない文体のものでも、先生は淀みなく滑らかに読み上げた。私はこの毎週木曜日の会が気に入っていたが、この日ばかりはそれよりも、感動の湖に行かなければならないという使命感が上回っていた。私は先生が自分の部屋の本棚に、読み上げる本を探しに行くのを見計らって、ごく自然を装いながら表へ出た。すでに午後の日差しが落ち始めていた。暗くなる前に戻ってこられるだろうか、と心配しながらも、私は迷うことなく、西の森へと入っていった。


 その日は、やや急いでいたために、いつもの小路ではなく、より湖に近いであろう道に進むことにした。昔だれかが作ったであろう小路は、今では、その痕跡がかすかに見てとれる程度で、もしかすると小動物のみが今でも利用者なのかもしれない。私は、自分の身体はまだ小さいので、この道を使っても動物たちは許してくれるだろうと思った。そしてもし道が分からなくなってしまった時のために、道際にたくさん生えている紅い小さなワイルドストロベリーを摘み、それを小路の真ん中に等間隔で落としながら進むことに決めた。たどり着くべき先は、お菓子の家ではなく、湖の真ん中に建つあばら家である。


 ワイルドストロベリーを摘んで、それを落として、を繰り返しているうちに、近道であっても時間がかかってしまうことに気が付いた。何か他の方法はないだろうか、と考え、木の枝を拾って、道の真ん中に引きずりながら歩く、という方法を思いついた。雨が降らない限り、消える事はないだろう。私は適当な木の枝を探してあたりを見回した。すると、一本の、まるまると緑葉を蓄えた大きなシデの木の根元に、しっかりとした長さと太さをした枝が落ちているのに気づいた。私は膝の高さまである草を掻き分けて、シデの木を目指してまっすぐ歩いた。するとシデの木の向こうに、何かが横切るのが見えた。大きめの動物か、人間か、それは分からないほど一瞬だったが、私より大きいことは確かであった。私はその何かを確認するべく、急いで近寄った。シデの木の下に落ちている朽ちた枝が萎びていて、足に纏わりついてきた。私はそれらを振り払うために、膝を高く蹴り上げながら、多少滑稽な動きで走った。

 大樹の下を通り過ぎると、背丈ほどある草むらの間から、イギリス風の上質な革でできたハンチング帽を目深にかぶった、若い男のような姿が見えた。その帽子から首元にかけて、艶のある黒髪が覗いている。森の中にしては、ややフォーマルな恰好が、異質な感じを漂わせていた。顔をよく見ようと目を凝らしたが、木の間から差し込む斜陽の力だけでは、満足にその顔立ちを確認できなかった。分かったことは、凛々しく尖った鼻先、そこから形の良い大き目の鼻孔が備わり、細面の顔の真ん中に精悍に聳えていることだけであった。

「ねぇ、あなた! ちょっと待って」

 気づくと、私は声をあげていた。男はじっと立ち止まって、私のほうを見た。私は近づきながら、「あなた、何をしているの?」と続けた。

「時々、森に来て過ごしている。考え事をしたり、詩を作ったりするのに、森から霊感を貰えるんだ。君は?」

 男は青年の声で、柔らかな鈴を雲の上で転がしているような、美しい声であった。

「私は、この先にある湖へ行く途中なの。知ってる?」

「もちろん。あの湖に住んでいる男と知り合いかい?」

「セバスチャンを知っているの?」

 私は近づく歩みを止めた。なぜか、彼にはそれ以上近づけないような気がした。

「あの男には気を付けたほうがいい。僕は君の味方だよ」

 そう言って、彼は踵を返すと、背丈ほどある草むらの向こうへと、消えていってしまった。私は混乱したが、彼が嘘を言っているとは思えないのだった。気を付けるとはどういうことだろう? 私の「味方」とはどういうことだろう? 私はシデの木の枝を拾い、元来た小路に戻ると、これを引きずりながら、湖へと急いだ。結局、日はすでに山並みに触れるほど落ちていた。


 感動の湖に到着すると、無風のため鏡面の如く艶やかな湖面が、一面隙間なく夕日の色に染まっていた。桟橋に二羽の白鳥、その羽でさえも半透明の夕日色の塗料でコーティングされているような色であった。夏も後半にさしかかり、匂いも新鮮なものから芳醇で深みのある大地の趣を帯びたものになり替わっていた。私は白鳥のいる桟橋へ向かった。

 桟橋の周囲に、セバスチャンの姿は見当たらなかった。やはり来るのが遅かっただろうか。私はがっかりとして、先ほど足止めを食った、あの青年のせいだ、と考えた。昨日から一晩中セバスチャンの事を考えていただけに、今日彼に会えないと分かって、苛立ちがこみ上げてきた。私は持ってきた大きな木の枝を、苛立ちとともに、橙の湖面に向かって投げた。枝は一回転半してから、思ったより静かに着水した。桟橋の反対側にいた白鳥たちは、敏感に湖面を伝わる振動を感じ取り、体は着水したまま羽だけを大きく上方向へはばたかせた。まるで私への抗議と諦めの勧めであるかのように。


 数分間、桟橋近くに腰かけ、茫然と湖を眺めていると、セバスチャンの住んでいるあばら家の後ろ側から、黒い煙が立ち上っているのに気づいた。黒黒とした煙が空に向かって、悪魔を形どって、夕日の空にフレアの如く舞い上がった。私はセバスチャンの家の一部が、火事になっていると思い焦った。しかし、自分ひとりでは彼の家のある中洲までたどり着くことが出来ない。私は湖に対して時計回りに回り込み、黒煙の出どころをたしかめようと走った。すると、家の向こう側に、男が屈んだ姿勢でいるのが見えた。その瞬間に、夕刻の風に乗って、生臭さと香ばしさが混ざった悪臭が、私の顔を包んだ。私は思わずえずき、一度吸った空気を生理的に吐き出した。そしてもう一度空気を吸い込んだとき、今度はまざまざと、血の匂いを感じた。大量の生き物を燃やしているのだと、子供ながらに感付いた。男は屈んだ状態で動かず、私に気づくことも無かった。男の足元をよく見ると、白い羽毛が半分、赤黒い血で染まったものがあった。それは一羽の白鳥であった。



   ☩



 私はセバスチャンが怖くてたまらなくなった。しばらく気分が動転していたようで、気づくと森の中を走っていた。セバスチャンがなぜ、あのような残酷な行いをしていたか、皆目見当もつかなかった。唯一、彼の後ろ姿しか見なかったのが幸いだった。あのときの彼の表情を一瞬でも確認してしまったら、それは私の脳裏に焼き付き、立ち直れなくなっていたかもしれない。

 そう考えながら、私は現実から逃げるように走った。そしてあのシデの木まで来たころに

「何かあったのか、」

 と、男に声をかけられた。行きに出会った、あの帽子の青年が、木陰に座り、片膝を立てて座っていた。私はびっくりして立ち止まり、少しの間考えると、自分の目から涙があふれていることに気が付いた。涙は体温と同じ温度をもっていて、それが頬を滑り落ちている感触があまり感じられなかった。両目から滑り落ちた涙が、顎に溜まって質量をもったときに、はじめて、自分が泣いていると気づいた。恐怖の涙ではなく、訴えの涙であったと思う。

 私は青年にやや近寄り、震える声で、湖で見た出来事を話した。どう話したのかは、少しも覚えていない。少なくとも、それほど上手には説明できなかった。それでも、青年は私が心に傷を負って、それをどう治療すればいいかを探していることを、理解してくれたようだった。不思議だった。そして、青年は座ったまま、少し考えた後、私にこう助言した。

「すぐに先生に会うといい。そして君が見たすべてを話すんだ。彼女は100%、君の理解者であり、同じ立ち位置にいる」

「どうして?あなたは先生とお友達なの?セバスチャンとも?」

 私は視界が涙でかすんでいたが、青年が私の問いに答える前に、微笑んだのが分かった。そして優しい声色で

「僕は君を導かなければならない。それと、先生は君と同じ感情を、セバスチャンにもっていたのさ」

「私の感情って」

「恋人だった時があるんだよ、あの二人はね。だけど、やっぱり世の中に対する理想の根本的な違いがあったんだな」

 私は予想していなかった情報に戸惑い、次の言葉を探していると、

「さぁ、僕の言ったとおりにするんだ」

 と、青年に先に促されてしまった。私は言われるがまま、再び走り出した。青年と数分話しただけで、私の精神は驚くほど落ち着いていた。湖で見たあのショッキングな悪夢から、もうじき覚めるような気さえしていた。



   ☩



 夏の軽井沢の長い昼は、すでに終わっていた。施設の裏口に着くと、裏庭で花を手入れしている先生の姿が見えた。はさみを使って、鉢植えの大輪の百合の葉を鋤いていた。丁寧に剪定した葉を数枚重ねて、それを銅製のトレイの上に、規則正しく並べていた。

 私は走ってきた様子を隠すために、息を整えようとした。大きく息を吸い込んで、吐いた。そうしたら、またあの、湖で吸い込んだ生臭い悍ましい匂いが私の肺の中でよみがえり、それが脳に一連のトラウマを思い起させた。結局、自分を落ち着かせるなどという無為な意識をやめて、私は裏口の扉を開けた。古いアイアン扉の軋む音に、先生はゆっくりとこちらを向いて、私を見ると、持っていた鋏をトレイの上に置いた。

「なにかあったのね」

 私は、どこにいっていたとか、何をしているとか、そのような問い詰めを受けるだろうと身構えていたので、思いがけないその全てを見透かしたような一言に、魂を抜かれたような気持ちになった。

 私が、どの言葉から発するべきか、決めあぐねていると、先生は特になにも言わずに、トレイを持ち上げて、私についてくるように目で促した。裏の間口から建物に入り、先生が私を導いたのは、剥製と奇形植物の部屋だった。

 先生は、女鹿の剥製の下にある、金縁の鏡の前で、高く結った長い髪の乱れを整えていた。毛先を一度ほどいて、指先で撫でるように毛束を整えたあと、再びそれを頭上に収めた。部屋のアンティークのくすんだシャンデリア球が、髪をまとめているピンに跳ね返って、一瞬眩しかった。私は、重たいフリンジの付いたカバーリングのソファに腰を下ろして、話をする準備を始めた。

「彼に会ったんでしょう。分かるわ」

 先生は私を見ずに、鏡の前で続けた。私はとりあえず、はい、とだけ返事をした。自分の声が、意外としっかり発することができたので、これから会話を始める自信となった。



「先生は、セバスチャンと関係があったのですか」

「関係があった、とは、ずいぶん大人な言い方を覚えているのね、十和子さん」

 私は無意識に、直接的な表現を避けることを覚えていた。

「私はね。あの人とは仲が良かったわ。あの人もまた、私を気に入っていたの。しばらくはね。でもある時、大きな言い争いがあってから、すっかり会わなくなって、それきり」

 先生は私を一瞥してから、私の向かいにあるソファへ、ゆっくりと上品に腰を沈めた。

「彼を好きになった当初は、私たちは完全に同じ考えだと感じていたの。あなたも、見たんでしょう。彼の異常性を」

「異常性というか…、でも、あれは彼にとって、異常なんでしょうか」

 私はそう答えると、先生は声をやや張って、

「そうね。あなたの言う通り、彼にとっては、あれが理想的な人間の姿なの。私も今は、それが理解できるわ。理解できるけれど、納得することは出来ない」

と、言葉を強めながら答えた。

「先生の理想は、私にもなんとなく分かります」

「十和子さん、不思議ね。あなたに出会った時から、ずっと、同じ世界を生きるべきだって感じていたのよ。あなたのお兄さんは、まったく正反対のタイプなのにね。競争が好きで、人間は努力によって完全に報われる、と信じているタイプだわ。それはあなたたちのご両親の影響だと思っていたけれど。少なくとも、あなたは違うようね。本当に不思議」

「確かに、私と兄は、兄弟なのに全く違う性格なんです。なぜかはよくわかりません。でも、ひとつだけ、ぼんやりと覚えていることがあって。兄はある日、私が母に買ってもらった、ホドラーの画集を見て、退屈で怠けている絵ばかりだ、と言ったんです。そのときから、ああ、私は兄とは全く違う世界に生きているんだと、思ったのを覚えています」

「そう。私や十和子さんのようなタイプの人間には、ホドラーの絵は、美しい精神の泉が描かれているように感じるの。でも、お兄さんのような人間には、ただのしがない水溜まり程度でしかないのね」

 先生は、背もたれに少しだけ体重をかけた。

「私たちは、私たちのような人間が多数派になれば、社会はもっと幸福になると考えているでしょう。私は特に、そのためにここで活動しているの。でも、残念ながら、いまの世界では、あなたのお兄さんだけが正しくて、尊敬される人間なのよね。努力ができて、才能がある人が、どちらも持っていない人を正式に見下していいことになっている。そのバロメーターが、つまりお金なのよね。だけど、」

 その時、男の子供のひとりが私たちのいる部屋に走ってきた。重い憂いの瞼をもったその少年は、私よりいくらか年長のように見えた。

「先生、これ見て」

 そう言って少年が両手で差し出したのは、ぐったりと死んでいるネズミだった。黒々として、目をまだ開けたことのない、悪魔の落とし子のようだった。

「まぁ、だめよ。ネズミはたくさんの菌をもっていて、触るのは危ないのよ。これをどうしたの」

「カーテンを閉めようとしたときに、窓の下にいるのを見つけたの。でもここを見て」

 子供がネズミを仰向けの状態にした。そこには、ぽっかりときれいに、五百円玉ほどの穴が開いていた。

「鳥に内蔵を食べられたのだわ」

 先生は椅子に置かれていた麻の鞄からシルクの光沢のハンカチを取り出すと、ネズミを慎重に、まるで水饅頭を崩さぬように受け取った。この悪魔の化身染みた生き物でさえ、先生の手に横たわれば、誰もが哀れみを感じずにはいられないほどに、か弱く繊細なものの死の姿だった。


「セバスチャンはね、人間は自然に還るべきだと考えているの。最終的に、彼は自分の死体を、鳥に食べさせたいのね。自然は人間を支えてくれるのだから、人間はその恩返しをしなければならないって。私はね、十和子さん。あなたの気持ちがよくわかるわ。私も彼に惹かれていた時期があるの。だけど、」


「この世界では、やはりまだ、あなたのお兄さんのような考えが主流で正義なのね。私は同意できないけれど、かといってセバスチャンのような生き方も違うと思うの。あなたは私と同じ種類の人間だから、こうアドバイスするわ。いい? 表面的にはあなたのお兄さんに同調するふりをしながら、精神は自分の好きなようにもって生きるのが、一番賢い生き方だわ。心の中では、あなたは文化的な女王として、玉座に座りながら誇りを持って生きるのよ。私はそのために、この施設で働いているの」


「それから、セバスチャンのような人は危険よ。私とあなたのようなタイプは、彼のような人間を、まるで聖職者のように崇めてしまうわ。あのような男は、最初は清廉で美しいと思うでしょう。でもね。その先には決して近づくことの出来ない深い溝があって、その裂け目に嵌まり込むと、傷を負うことになりかねないわ。」

 私が当日の疲労とストレスで、意識が朦朧としているなかで、先生が最後に言った言葉は、

「心が壊れそうになったときは、必ず花を飾って」

というものだった。気づくと、私の目から無意識の涙が溢れていた。私と先生は、一連の会話によって、お互いの濃縮された闇の部分を、真っ白な牛乳で柔和に薄めようとしていた。



 私が施設から家に帰る日は、朝早くから雨が降っていたのをよく覚えている。軽井沢は、雨が降り始めればたちまち、木々の濡れそぼった匂いでいっぱいになる。私はあの期間の記憶は、映像的なものでも音声によるものでもなく、匂いによるものがほとんどである。雨の日に、蛙が浮足立っている様子までが、匂いの中に感じられた。子供のころであったから、余計に敏感に感じ取ることができたのかもしれない。とにかく、その日は朝から雨が始まり、両親が私を迎えにくるのは正午の予定であった。私はその日の朝、仲が良くなった一人の少年と、一つの傘で裏庭に出た。彼について思い出そうとしてみても、どうにも印象がうすく、名前や顔立ちはおろか、この日の事を除いては、何も思い出せない。

 裏庭は、中央が自然の芝になっており、その奥、半分森に入るようにして、先生が育てている立派な英国式のガーデンがあった。大人の背丈を超える草木のイングリッシュ・ガーデンは、子供の私にとっては小さな森のごとく感じられたものだった。私と少年は、そこでじゃれ合って遊んでいるうちに、先生が庭に飾っていた、陶器でできたマリア像の置物を、地面に落としてしまった。地面に敷かれたテラコッタのタイルによって、マリアの首から下は粉々に散った。私は驚きとショックで、その場から動くことが出来なかった。すると少年は、砕け散ったマリアのかけらを丁寧に全て拾い上げた。破片で、小さな白い指先から血が滲みだした。彼は構うことなく、隅の大きな木の根元に、マリアの破片をきれいに並べていった。そうしている間に血はどんどん溢れていったが、それが雨で薄まり、鮮やかさを失って、砕けたマリアの白い身体へ蔦っていった。私は一本しかない傘を彼とマリアのために差し出していた。そのせいで、顔までが雨に濡れ、自分が泣いているのかどうか、はっきりと分からなかった。



   ☩



 佐伯の自殺をようやく受け入れた日から、私は毎日、あのときの先生の言葉を思い出していた。先生とセバスチャンの関係は、そのまま私と佐伯の関係に当てはまるような気がしていた。先生はまるで預言者のように、私の現在の不幸を言い当てていた。


 佐伯が私宛に残した遺書はこうであった。


 

君は、兄に影響されず、美しき信念を持ち続けて欲しい。

 僕たちは、表と裏に生まれたのだから。



 佐伯を殺したのは、もしかすると私なのか。

 

私は自分の部屋にある何もかもを処分したくなった。この不幸な環境を作り出しているのは私自身であり、さすればあの軽井沢の出来事から佐伯の自殺まで、全ての責任が自分にあるような気がした。飾り棚の一番上に立てかけてある、一冊の写真帳を手に取った。   

そう、今回の事件の直接的な要因があるとすれば、あの一週間だ。

今となっては、忌まわしい思い出以外の何物でもない。

 私は白の革表紙の写真帳を手に取り、あとで燃やしに行くつもりで、それを開いた。



   ☩



 大学生になったばかりの兄が、父から譲り受けた車を売って、自分の好きなコンバーチブルのゴルフを買ったので、その車で夏の休暇に出かけようと言い出したのは、およそ一年前であった。

勉強をするでもなく、かといって仕事や遊びをするわけでもなく、ひとりで気だるい夏を過ごそうとしていた私にとって、それはやや面倒な提案だった。しかし、佐伯も入れて3人で、と聞いてから、私の感情は突然、前向きなものへと切り替わった。

 行先は伊豆半島の先端から、やや西に行ったところにある小さな港町で、佐伯の希望だった。昔、彼の親戚がこの港町で民宿を営んでおり夏休みの旅に一人で何度も訪れていたらしい。子供のころの懐かしの風景を、私たちと共に味わいたいというのだった。

 前日、夜が更けるまで、父と野球の話をしながら酒を浴びるように酌み交わしていた兄は、約束の時間に遅れて自室から出てきた。私はすでに、全ての準備を終えて、あとは荷物を兄の車に積むだけだった。玄関を出て、兄を待つ間、煙草を吸っている父と会話をして過ごした。

待たせたな、と悪びれもなく姿を現した兄に、毎回佐伯くんを待たせて、可哀そうにねと、嫌味を投げてから、自分の旅行鞄を、後部座席に投げ入れた。自分の手持ちの鞄には、文庫本とコダックのフィルムカメラだけを残し、あとは全て旅行鞄に押し込んだ。


 邸に着くと、佐伯が小さな鞄一つを脇に置いて、玄関先で煙草を吸っていた。

「誰のせいで遅くなったかは分かる」

と言って、缶コーヒーの灰皿に煙草を入れた。兄は運転席から黙ったまましかめ面をして、早く乗るように合図をした。



   ☩



 私たちはそれから5日間、映画のように夏を過ごした。私はジャンヌ・モローというわけにはいかなかったが、兄も佐伯も、私の機嫌を損ねないような振る舞いで通していた。

 静かな炎天下のなか、佐伯は一人で釣りをしに、堤防にでかけた。私は読みかけの本とタオルケット、炭酸水のボトルをもって、履きなれたサンダルで砂浜へ向かった。

 強い日差しによって炒られた砂浜で、百頁以上本を読み進めるためには、風通りのよい日陰を探すほかなかった。適当な高さをもつ岩陰に一度腰を下ろしてみたが、腰が痛くなり、ふたたび別の場所を探すほかなかった。

 そもそも人影の少ない砂浜だが、私は快適な読書場所を求めて、より人気のない岩場へと足を踏み入れて行った。すると、腰を屈めれば一人分が通れるほどの、洞窟のようになっている場所を見つけた。その奥には、地下方向に緩やかに下っていけるようである。私は行けるところまで行って、暗がりが怖くなり始めたら引き返そうと決めて、怪しげな洞窟に足を踏み入れた。

 洞窟は入り口だけが狭くなっており、奥に下るにつれて、屈む必要がないくらいの空間が広がっていた。奥から湿ったひんやりとした空気が吹いてきて、思ったよりは居心地がよい。小一時間、日照りにあった私の二の腕の火照りが、湿った微風によりみるみる冷却されていった。体中が解毒されていく感覚であった。

 私は当初の想定を超えて、この聖なる風の出どころを求めて進んだ。狭い空間ではあるが、そこにある空気はどこまでも広がっていきそうな、宇宙的な感覚がしていた。

 宇宙には終わりがあるのかどうか、そんなことを考えながら悪路を進むと、真正面に、天井から日の光が差し込んでいるのが見えた。その向こうの黒く険しい岩肌に、なにか白い、いや乳白色のものが佇んでいるのが見て取れた。近づくにつれて、私はそれが、私の背丈ほどあるマリア像であるということに、気が付いたのだった。

 そのマリアの下に立って、見上げた時、そのあまりにも不思議な光景をしばらく理解できなかった。こんな洞窟の奥にあっても、泥の汚れひとつない、母が大切にしているイギリス食器のつるんとした陶器的な白。それでいて、よく見ると真っ白ではなく、やや黄みがかっているのが滑らかな曲線の頂点部分に感じられ、それがミルクの柔らかさを感じさせた。中央にしめやかに合わせた手のひらから、たっぷりとしたドレープが波打って、足元まで伸びていた。足元を取り囲むように、煤けた三連の蝋燭の燭台が、いくつも並んでいた。そして目線を上にやると、その顔は。

 乳房を隠す長さの髪に、伏した目の半月形。頬骨から顎にかけて作り出されたはっきりとした肉付きの輪郭、薄付きの上唇。

見覚えがある、この顔は、他でもない私そのものであった。



   ☩



 忘れもしない、あの最後の日。佐伯が私を、港の脇にある小さな海岸へと呼び出した。夜の十一時を回っていた。

「軽井沢での出来事を覚えているかい」

 波打ち際で靴を脱いでいた佐伯は、私の到着を気配だけで確認して、いきなりそう言った。私は何のことだか分からずに、返答を見送った。

「僕はあのときからずっと、人生を悔いて生きてきた」

 佐伯は月明かりだけが照らしている、闇夜のなかで、自身の存在を確かなものにしていた。そして私は、独特の緊張感が、波とともに自分に覆いかぶさってくるのを感じた。

「君が了の妹として紹介されたとき、本当に驚いたよ。僕がまさに何年もかけて、再会を願っていた人物だったからね」

「どういうこと? 私たちは会ったことがあるというの? あの軽井沢の家で?」

「あるさ。君は気づいていなかっただろうから、僕は何も言わなかった。こんな機会を待っていたからね」

「もう一度、やらせてほしい」

 みると、佐伯の手に、小さな何かがぐったりとした状態で優しく握られていた。私は十分な秒数をかけて、暗闇に目を凝らした。それは、小さなハツカネズミであるようだった。

「もう一度ってなに」

「思い出してみて」

 私の中で、軽井沢の記憶は、疲れている日に限ってみる、中途半端な悪夢のようなものとして、思い出すことをしなくなっていた。そのおかげで、不思議とトラウマになることは無かったが、その中心に逃れられない苦い塊が据わっていることは変わらなかった。

 その苦い塊とは、なんだっただろう。一つは、あのセバスチャンという男との事、そのことについて先生と交わした一連の会話、そして。そう、まだある。

 先生とセバスチャンについての会話を交わしたあの夜。少年がひとり、部屋に入ってきた。少年の掌の上には、黒い大きなネズミが横たわっていた。先生はネズミを少年から受け取ると、自身のハンカチで包み、それを一旦サイドテーブルの上にそっと置いた。私は、先生との会話が終わったあと、こっそりとそのネズミを持ち出し、自身の手で、埋葬しようと中庭に出た。

 私はあの時、なぜそんな行動をおこしたか? おそらく、この哀れな小動物を自分の手で埋葬することによって、私が受けた衝撃を、一緒に葬ろうとしたのだと思う。

 私は落ちている枝と、自分のヘアゴムを使って、手のひらサイズの十字架を作った。そして、庭の隅っこの、椿の木の根元に、穴を掘った。降っていた雨のせいで、湿った土が手に纏わり付き、それを払っていると、後ろから

「なにしてるの」

と、声をかけられた。先ほどの少年だった。

「埋葬、しているの。君が拾ったかわいそうなネズミを」

 その時の私は埋葬という言葉を正しく理解していなかったように思う。ただ、この言葉に神聖な精神と理想を含んでいるような気がしていた。そしてこの悪魔の落とし子のようなネズミに、自分の邪心を託していた。少年は、憂いの垂れ下がった目で私を見つめてきた。揃えた前髪のフリンジが夜風に揺れて、意外にも凛々しい眉が見え隠れしていた。

「それは僕が拾ったもの。僕のものじゃない?」

「そう思う? 本当に自分のものだと思うの?」

 私は、私の神聖なる儀式を邪魔されたために、苛立ちを隠せなかった。

「そう思うなら、君、これを食べられる?」

「え」

「私からこの子を返してほしかったら、この子の肉を食べてよ」

 私は自分でも驚くほど冷たい声色で、少年にネズミを差し出した。

「食べられないの? そんなことも出来ないで、自分の欲求を私にぶつける権利なんてない」

 少年は怯えた目で、私を見ていた。いや、今よく思い出すと、怯えだけでなく、喜びや期待といった類の感情もあったように思う。私は、自分が言っていることが自分でも気持ち悪くなってきて、ネズミを急いで穴に埋めた。ネズミの名前を書くために、一度土に刺した木の枝の十字架を、再び引き抜いた。

「待って」

と、小さい声が聞こえたが、私は無視をして、十字架を持って自室へと帰った。



   ☩



 あの少年のことを、今まで思い出すことができなかったのは不思議だ。今になって、驚くほどはっきりと記憶が思い起こされた。そしてもっと不思議なことは、今目の前に立っている佐伯が、あの時の少年であるということ。成長した青年の繊細かつ男らしい手には、あの時よりは小さいネズミが、同じようにぐったりと横たわっていた。

「冗談でしょう?」

「冗談だと思いたいの? 僕はこんなに長く、この時を待っていたのに」

「あの洞窟のマリア像は、あなたがやったのね」

 佐伯は私の問いに直接答えなかった。潮風が夜の匂いを含んで体に纏わりついた。

「僕はね、ずっと考えていたんだ。僕の理想が君の兄に勝つためには、どうすればいいかってことをね。でも、結局、無謀だって分かったよ。世界はまだ、君の兄のような人のためにあるんだ。そして君も、結局は僕みたいな男よりも兄を選ぶ。違うかい?」

 佐伯が何を言っているのかを理解しようとしても、私には分からなかった。彼の話の核心のようなものは、なんとなく感じることができた。

「兄とは仲が悪くなったたわ。私とは根本的に違うの。でも現実的に、理解することはできる。彼の理想って、アメリカ的で、私の趣味では決してないんだけれど」

 佐伯は、ほっとしたようで、顔の筋肉が緩み、月明かりで落ちる陰影が薄まった。私にやや近づいて、15センチ上空から、私の顔を見降ろした。

「やっぱりね。僕と君とは違う。だけど、君なら僕のことを分かってくれる。それは僕たちが出会った、あの軽井沢の夜から確信できたんだ」

 佐伯は、片手で私の手をとった。そしてもう片手に抱かれたネズミへと導いた。ネズミはまだ生暖かく、ごく近しい時間まで生命がそこにあったことが分かった。私はネズミを両手で包み込むように受け取った。昔、叔父が飼っていた烏骨鶏の、有精卵をゆで卵にしてしまったときの残酷さが、手のひらの温もりから感じられた。子供のときに軽井沢で埋葬した、あのネズミが、転生して再び私の手のゆりかごに戻ってきたのだ。

 悪魔の子か、天使の子か。

 私は次第に、自分が母なる大地の偉大さを秘めた、神秘の存在であるかのように感じていた。どんなに強い生物、大きな獅子や、ジュラ紀の悍ましい肉食獣、子供の時に読んだおとぎ話に出てくる凶悪なゴーレムや一つ目の巨人ですら、今は私の目前に跪かせる自信と力が滾々と沸き出てきた。片手にもたれた小さな悪魔か天使の生物は、それらに負けず劣らずの、私の使徒として輝きを放っていた。

 佐伯の白目は、暗闇の中でも分かるほど血走っていた。焦点が定まらず、一つの空気の分子を見つめているようでもあった。私は両手で、ネズミの腹をやや上方に押し上げるようにして、佐伯の目の前に向かって差し出した。佐伯の瞳が虚空からネズミに滑らかに移動した。口角がわずかに上がり、充分な秒数をかけて、恍惚の表情に移り変わっていった。上がった口角の端から、形の良い犬歯が最初に覗いた。その白さが月明かりによって、彗星の塵ほどに煌めいて見えた。上唇が持ち上がり、ネズミの脇腹あたりに、犬歯が突き立てられた。毛並みの揃った光沢のあるネズミの腹の皮を、佐伯の歯が一定の圧力と伴って突き破った。中から黒黒とした血液が、玉状に滲み出た。表面張力を失ったあと、佐伯の白い歯を一面黒く着色した。私は自分のしていることは、これまでの人生の迷いの清算であると同時に、自分の裡にある清純なポリシーを、初めて表世界に取り出して適用した気分になった。私はおおむね満足した。佐伯も同じ感情だったことが、彼の垂れ下がった目じりに現れた笑い皺により、明らかになった。


 幾分かの時間が流れ、空気が冷たくなった。

 佐伯は、齧った肉片をゆっくりと咀嚼して、まっすぐ飲み込んだ後、血にまみれたネズミを、海に流すべく波打ち際に歩いていった。

「あの日から、僕の人生を君に差し出すと決めていた」

というような言葉が、深い海から吹き上げる風と合わせて、私の耳に届いた。



   ☩



 佐伯の部屋で、首を吊りながら休んでいる彼を前に紅茶を飲んでいた時に、思い至ったことは、「私が彼を殺したのではないか」ということである。厳密には、佐伯は私に、自身を殺させるつもりだったのではないか。私があのネズミを食べさせることによって、彼は感染症により死ぬこと望んでいた。しかし、希望通りに事が運ばなかったために、仕方なく首を吊ることになった。

 その予測を裏付けるためには、彼の司法解剖を待つしかないと思っていた。しかし、佐伯の家族は、精神異常による自殺との判断を受け入れ、司法解剖の必要が無いことを申告した。私は、真実を確認する一縷の望みを絶たれ、机に伏せて泣いた。数日間、昏睡したようにベッドで時を過ごしたために、すでに寝るという生理行動が出来なくなっていた。逃げることは許されない。私は今こそ、いつもの金縛りを欲していた。それなのに。


 極めつけは、自室の外から漏れ聞こえてきた、母と兄の会話であった。

「あの子と、ちゃんと話したの? 佐伯くんのこと」

と、母が声を潜めて兄に聞いているのが始まりだった。

「意味ないだろ。あいつは佐伯の事が好きだったんだ。今は僕が何を言っても反発するに決まっている。無駄な言い争いをしたくないしね」

 兄は、悟ったような言いぶりだった。

「でも、正直、その、ひどいんだけれど、ほっとしたわ。あの子にとって、佐伯くんは、なんていうか…」

「母さんの言いたいことは分かるよ」

 兄は母の躊躇する声色を遮って言った。

「あいつに佐伯は悪影響だった。確かに」

「十和子は、不器用だけれど頑固なところがあるから。あなたみたいに、要領よく生きることが苦手なのよね。子供のころからそうよ」

 母の声は、憐みに満ちていた。

「というよりも、要領よく生きることに反発したいのさ。そんなあいつにとって、佐伯は理想的な要領の悪さをもつ男だった。僕はなんども、奴に忠告したよ。十和子にはあまりお前の生き方を吹き込むな、あいつは未熟で危なっかしいから、ってね」

「お父さんと二人で、心配していたのよ。あの子、佐伯くんと会うようになってから、ますます社会に反抗的になって…時々、私たちには分からないような難しいことを言ったりして。どうしていいかわからなくなっていたわ」

「今回のことで、改善に向かうはずさ。あいつだって、もう子供じゃない。社会に出れば、佐伯のスタンスはまったく役に立たないってことが、嫌でも分かるだろう」


 そこまで盗み聞いて、私の精神は限界に達した。耳を両手でふさぎ、逃げられる場所を考えた。思いついたのはただ一つ。今の私を、理解し得る唯一の存在がいる場所へ、向かうことにした。



   ☩



 導かれるようにして、夜の庭に足を踏み入れると、丁寧に、かつ不自然さを出さないようにして刈り揃えられた花や植物の足元に、まるで灯篭流しのようにして、無数のキャンドルが灯っていた。何匹かの白くふんわりした蛾たちが、私の行き先を示すように、灯りに群がって羽ばたいていた。私は灯りをなぞって歩いた。不可解で幻想的な灯の道は、どうやら中央の滝壺のある池へと続いているようだった。

歩いているうちに、木々や植物が呼吸をしているのが、五感で感じ取れるようになっていった。滝の音が近くなっていくと、白く濃くなってゆく霧が、私の伸びた髪先をたっぷりとふやかしていた。



時の概念を忘れたころ、いつのまにか滝壺に到着していた。

見渡すと、日が落ちて暗くなった滝壺を取り囲むようにして、丈の長い白衣装を着た人々が、等間隔に並んでいる。下を見ると、何かがぬめりを帯びて、庭の灯りを反射している。夜目を利かして、それをよく見る。それは巨大な、噛みつき亀の禍々しい甲羅であることがわかった。わずかに水面にもたげた顔には、ホオジロザメのような感情の無い目が二つに、横にならんだ鼻孔が二つ。体長1m近くの悍ましい水生怪物は、ただ静かに獲物を待っているようだった。

私は慄いて、後ずさりをした。すると、私のすぐ後ろで、懐かしい花の香りがした。私は振り返らず、一時の確認もせず、博義がそこにいると確信できた。

彼は私をなだめるように言った。

「大丈夫、何も心配しないで。君が望んでいる世界だよ」

 博義は私の肩から首にかけて、指で優しく撫でた。夏の夜に冷たい風に吹かれた時のような、ひんやりした爽やかさが全身を駆け抜けた。私はこの時から彼に精神を預け、ただ話を聞き続けるだけだった。

庭を照らし出すはずの灯りは、霧に乱反射して、視界を不明瞭にさせていた。そういえば、もう滝の音ですら、意識をしなければ聞こえないほどになっていた。私の残っている五感を、ほとんど全て博義を感じることに使った。

「君が心の底で望んでいた世界に違いないよ。人間は、理想のために生きるべきだろう?」

 私は爪を噛んだ。博義は、私の両肩を掴み、腕を押すように少しずつ力を込めていった。私を池の中へと進ませるように。

ふと滝の周りを見ると、人々が跪いて、なお私を見つめていた。数人は、祈るような姿勢をとっていた。私の中に、経験したことのないほどの使命感が泉のように湧き上がってきた。それは広大な砂漠に、突然湧き出した、自然的な恵みの泉のようだった。これが博義の言った、「私が望んだこと」なのか。

私は空のほうを見るように、少しだけ顎をあげた。そして一歩ずつ、池のほうへ歩みを進めた。博義は私の後ろにぴったりとくっついて歩いてくれた。厳かと感動の気持ちでいっぱいになった。私は泣いていた。人生で初めての幸福が、足元から浸食する池の水と一体化して、徐々に身体を上り詰めてきた。つま先、足首、ひざ下、太ももを経て、腰へと上り詰めてきた。私は恍惚の液に、頭まで浸されることを期待した。私の前方から、巨大なあの噛みつき亀が獲物を定めたように、泳いでくるのが見えた。

 私が水の中に浸りながら感じていた感覚のひとつは、あの金縛りの苦しみそのものだ、と途中で思い出した。地底の存在しない場所で、永遠に墜落する苦しみ。連続する浮遊感の海の中で、有象無象の生物がこちらを見ている。悪の花鳥風月で埋め尽くされた地獄。薄靄が立ち上り、不自然な月の光が眩しい。しかし閉じようとする瞼に抵抗して、私を取り囲んでいる白い人々をよく見た。よく知った人物が並んでいた。左から中央に向かって、セバスチャン、佐伯、先生、右から中央に向かって、兄、父と母。確認するように自分の手首を見ると、白磁のように青白くなっていくのが分かった。

そうか、これもまた夢。私は悪魔に魂を売り渡す代わりに、自分の理想の世界へと橋渡しをしてもらえることになったのだ。博義の導きによって。

池の水が、私の顎下まで迫ってきた。私はこれまでの人生の登場人物を回想した。私によって殺されようとした佐伯と、社会生活から離れて生きたセバスチャン。私が最も共感できる人間だった、先生。軽蔑し続けた兄、自分とは無関係な世界で生きている両親……。



口から肺に水が入って来ようとするギリギリのところで、背後から何かが私の両肩を掴んだ。

私は全身の力が抜け、掴まれた腕に寄りかかるように倒れ込んだ。できる限りの力で振り返ると、それはやっぱり兄だった。

「良かった……」


兄は必死の形相から、私の目をしばらく見つめると心からの安堵の表情に変わった。目に涙を浮かべていた。

前に向きなおっても、もう博義も、他の誰の姿も無かった。

私は兄に抱きかかえられながら、心の底から落胆し、絶望した。

結局、兄のような者だけが、この世界で正しいのだ。私や佐伯やセバスチャンや先生の存在は、百合の花の、あのグロテスクな赤い雄蕊のようなものでしかない。美しい理想の人間は、幻想でしか現れない。


佐伯は、誰にも影響されずにと言ったが、私は結局、全ての人に影響されてしまった。


私は巨大な亀の口元に向かって、自分の指先を差し出した。獲物を差し出された亀は、恐るべき顎の力で噛みついた。口内のぬるりとした生暖かい触感と痛みが同時に訪れ、凶悪な鋭い歯が、勢いよく私の二本の指を嚙みちぎった。兄の悲鳴が鼓膜の奥まで届いた。


私は心の中に、百合の花を持った、砕けたマリア像を修復して、祈った。



                                     終

 

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