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40 『百億の昼と千億の夜』から「と」を取りたい

 光瀬龍の代表作とされる『百億の昼と千億の夜』は萩尾望都によってマンガ化もされていて、かなり名の知れた作品である。
 しかし、この作品の本当のタイトルは『百億の昼、千億の夜』なのだ。「と」はいらない。代わりに読点が入らなくてはならない。

 光瀬龍がつけたタイトル『百億の昼、千億の夜』を、編集者が作者に無断で改変したことは、既に指摘されているし(立川ゆかり『夢をのみ 日本SFの金字塔・光瀬龍』469頁)、その編集者自身の証言もある。にもかかわらず、タイトルは無断改変された時のままだ。

 光瀬龍は、この作品のことを『百億の昼、千億の夜』と、よく「言い間違えて」いた。私が訂正を求めると、彼は笑った。そして、また言い間違えた。
「この人は、自分が書いた作品タイトルも忘れるのか?」と思っていた。
 今、思えば、彼は捜していたのだ。
 彼の「言い間違い」に対して
「それが正しいタイトルなんですか?」と返してくれる読者を。

       ○

 自分を探している親を、物陰から笑いをこらえて見ている子供のようなところが光瀬龍にはあった。
 どうして、私は気がつくことが出来なかったのか。たぶん、情報が音声だったからだ。
『百億の昼、千億の夜』
 このように文字で示されたら、見たとたんにわかる。実際、これを文字で見た時、私は叫んだ。
「互文か! そうだったんだ‼︎」
 互文は、そんなに特殊なものではない。神出鬼没とか雲散霧消とかに使われている漢文の用法だ。 A a B b= A B a bとなるものだ。
 神出鬼没=神鬼出没、つまり「神や鬼のように現れたりいなくなったりすること」だ。「神のように現れ、鬼のようにいなくなること」ではない。
 だから、『百億の昼、千億の夜』=「百億千億の昼夜」=「膨大な時間の流れ」ということだ。序章の中にある「幾千億日の昼と夜」、ラストの文の中の「百億の、千億の日月」は、両方ともそのバリエーションだ。
 かつ、『百億の昼、千億の夜』には、もうひとつの意味がある。「栄光の日々の後の、それに十倍する雌伏」だ。これは、ペルシャでは光の神アフラマズダだったものが、仏教において阿修羅となったことと重ね合わされている。
 そして、彼自身の人生とも重ね合わされている。だから、彼はこの作品を指して「私小説なんですよ」と言ったのだ。
 まだまだある。
 いろいろなことが腑におちて、この作品のタイトルは、絶対に『百億の昼、千億の夜』でなくてはならないことを、私は理解した。

       ○

 「と」を取りたい。
 「と」を取らないままに、死にたくない。
 ここ数日、その考えがどうにも頭から去らない。
 きっかけはわかっている。
 今日は2020年7月28日(火)だ。
 7月25日(土)の朝日新聞夕刊に「赤羽台団地のスターハウス」という記事が載っていた。
 光瀬龍は、赤羽のこの団地に住んでいた。私は彼と会うために、この地へ何度か行った。

 記事には、パン工房「サンメリー」のことも載っていた。ここの二階で何度か食事をしたことがある。
「アルファルファって、食べたことある?」
筒井康隆の「アルファルファ作戦」は読んでいたが、アルファルファの実物を見たこともなかった。
「ここのサラダにのっているよ。頼んでみる?」

食べながら、いろいろな話をした。
作品についての話もした。
「あしゅらおうが、穴の中に入っていく時、私、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』とつぶやいたんです。そしたら、ゼンゼンだったんで、笑いました」
そんなことも言った覚えがある。
『虎穴に入らずんば虎子を得ず』という故事成語の舞台となった場所はゼンゼン(鄯善)だ。
もしかしたら「こいつは漢文に詳しそうだから、わかるはず」ということで、「言い間違えて」みて下さったのかもしれない。
たとしたら、本当に申し訳ない。
あれは、高校受験の時に愛用していた参考書に故事成語の逸話が載っていたから知っていただけだ。
私は15歳の時に『百億…』を読んだ。
19歳の時に、53歳の光瀬龍と面識を得た。
今は、私は59歳だ。会った時の彼の年齢を超えた。

      ○

ここ数ヶ月、「いつコロナにかかって死ぬか、わからないよな〜」という感覚のもとに、まずは実利的な身辺整理をしていた。日常生活を送りつつ、コロナのせいで増えた負担や手間に対応しながら、粗大ゴミを出したり、エンディングノートを書いたりしていた。
 それがだね‥。
 何てこった。
 「と」を取りたい。
 「と」を取らないままに、死にたくない。
 まさか、ここまで自分がこの作品にこだわっているなんて知らなかったから、今、とても困惑している。
 同時に、私は怒っている。

 作者は、いったい何をしていたの?

「作品が残るかと思うとね。…残らないだろうね」
「作家になってよかったことなんて、何ひとつ思い当たらない」
 無力な小娘の読者に向かって、彼は愚痴をこぼした。そんな暇があったら、せめてタイトルから、余計な「と」を取るべく、彼は動くべきだったのだ。
 かわいそうだ。
 作品が、かわいそうだ。
 作者に守ってもらえなかった作品がかわいそうだ。
 私のような中途半端な読者しか得られなかった作品がかわいそうだ。

 正しいタイトルを奪われたままに、この作品は時の流れの中を生きのびていけるんだろうか?
 「と」を取りたい。
 今、切実に「と」を取りたい。

【追記】
今日、60歳になりました。
光瀬龍は、私を「無力な小娘の読者」と考えていたのではなかったのかもしれないということに、思い当たりました。
もしかしたら、作品の生命に貢献するような評論を書く可能性を持つ者として遇していてくださったのかもしれません。

自分の愛するものを守る力を持てるように、残りの人生も真剣に生きたいと思います。

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