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歌舞伎の世界は"異世界モノ”と近いかもしれない

歌舞伎を観てきたんすよ、歌舞伎。

うちのバーのオーナーから偶然チケットを譲ってもらって、銀座の歌舞伎座で行われた『初春大歌舞伎』っていう演目を約4時間半まるごと。

生で観るのは生まれて初めてだったし、周りはセレブっぽい爺ちゃん婆ちゃんばかりだったんで、場違い感が半端ではなかったけど、めちゃくちゃ面白かった。

上映されたのは、明智光秀がいろいろやらかす『絵本太功記』と、芸者や鳶頭たちが派手に舞う『勢獅子』と、八百屋の娘の恋愛をめぐるドタバタ劇の『松竹梅湯島掛軸』の三本立て。

ラストに女形の中村七之助(ジブリ版かぐや姫の顎尖った人の声優やってたね)が、まるで人形に操られているかのように舞うんだけど、その一挙一動があまりにも美しすぎた。あの姿を観ただけでも、2019年はいい年だったなと思う。

ただ、観劇中に「ん?」と思ったところがあった。3番目の『松竹梅湯島掛軸』っていう劇で、舞台は本郷駒込の吉祥院が舞台になっているんだけど、物語の進行中に「あっちで戦の準備が…」とか「木曽の軍勢がどうのうこうの」というセリフがあったのである。

なにがおかしいかといえば、この物語の登場人物の衣服も話している言葉や背景の建物も全部、江戸時代のものなのに、木曽という平安末期から鎌倉くらいまでの時代に活躍した一族の名前が出ているからだ。

あらためてストーリーを説明すると、紅屋の長兵衛という商人が、八百屋の娘のお七と武士の小性吉三郎の身分を超えた恋愛を手助けするという話で、メンヘラっぽいお七の機嫌をうまくとったり、寺の小道具をうまく使って侍たちをとっちめたりするところがゲラゲラ笑えるコメディだ。

だから、江戸時代の町人の日常が描かれた作品であっていいはずなのに、作品の端々には、木曽との戦を気にする登場人物たちのセリフがある。しかも、特に戦自体が物語の根幹と絡むようなこともないのだ。

なんでこんなめんどくさい設定をわざわざ入れたのだろうと、終わった後もモヤモヤしてしまったので、橋本治の著書『大江戸歌舞伎はこんなもの』を読んで調べてみた。

この本は、現代の歌舞伎を素人相手に分かりやすく解説したものではない。明治以降は変化してしまった"大江戸歌舞伎”の当時の様子を、資料から読み解き「こんなものだった」と想像を巡らしていくものだ。

橋本治本人もあとがきで述べている通り、"誰も見たことがないものを「既知のもの」にしてしまって、「それはいかなる構造を持っていたのか」と説明”するという実に変わった書籍なので、読む人は限られる。しかし、今回の僕の疑問はていねいに解説されていた。

ざっくりかいつまんで紹介しよう。

まず、江戸の歌舞伎では、物語を支える根本的な設定である"世界”がある("三千世界”とかの世界ね)。これは、歴史的な時間とほぼいっしょで、例えば「戦国武将たちの活躍した時代」とか「鎌倉幕府があった時代」とかそんな感じ。

歌舞伎つくる人たちは「よっしゃ!今度の芝居は、源頼朝が伊豆に流されてた時代の”世界”でいこう!」という具合に決めて、今度はその具体的なストーリーである"趣向”を決める。『忠臣蔵』でも『四谷怪談』でもなんでもいいけど、世界と趣向を組み合わせて、物語を構成するわけだ。

そうなると『鎌倉時代×忠臣蔵』とか『戦国時代×四谷怪談』とかそういう組み合わせが無数に生まれる。実際『仮手名本忠臣蔵』という舞台は、鎌倉時代初期の義経が死んだ後の世界で、義経の奥さんに使えていた安達内匠之助という、まんま浅野内匠頭の名前をもじっただけの登場人物がいるのである。つまり、忠臣蔵のパロディ作品なのだ。

そうなると『江戸時代×忠臣蔵』、つまり同時代の忠臣蔵はないのかという話になるけれど、実はない。それどころか、江戸を舞台にした話というのはごく例外を除いてほとんどないのである。

例え江戸で起きた事件をモチーフにした作品であっても、それは何らかの過去に起きた有名な世界へと移し替えられてしまうのである。

だから、僕の観た『松竹梅湯島掛軸』も、趣向は江戸モノなのに木曽軍が攻め込んでくる無茶苦茶な物語になっていたわけだ。

なぜ、そんなことになるのか? 当時のお上からの監視や身分差による認識の違いなど、さまざまな原因があるが、気になる人はさっきの橋本治の本を読んでほしい。

特に歌舞伎用語の「時代」と「世話」に関する一連の論評は、江戸の人たちの心のありようを詳しく明らかにしているから読んでくれ、頼む。

正直な話、ステレオタイプ化させた世界を前提にして、趣向をさまざまに組み合わせる歌舞伎の方法論は「なんだか『異世界モノ』みたいだな」って思った。

ステレオタイプ化されたRPG風の時代を"世界”。そこにいろいろ転生なり何なりで登場した主人公たちの活躍を”趣向”としてとらえると、近しいものがあるってこと。

"世界”の方には、中世ヨーロッパ風、中華風、第一次世界大戦風まで人気なものがある。そこに「王様になって女の子とイチャイチャする」、「スマホ使ってチートする」、「幼女が戦争しまくる」といった趣向を組み込むと見事に物語は成立する。世界と趣向が見事に噛み合えば噛み合うほど、斬新さが生まれ、人気を得られる。

こういう見立てをすると、案外日本に生きている人たちは昔からこういう創作のあり方が好きなんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろう。

橋本治は明治期に「パロディをしなくてもいい。自分で自分の作りたいものを作ってもいい」という概念の入ってきた明治時代になって歌舞伎は命を失うと書いたけれど、日本では発表する場所やメディアが変わっただけで、創作の方法論自体は脈々と引き継がれていたのではないんだろうか。

最後に暴論を投げたけど、逆に異世界モノを楽しむように、江戸時代の歌舞伎を観に行くと面白いもの視点も生まれるかもしれないなってところで、今日はこれぎり。

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