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いつかきっとうまくいく(いつかきっとウクライナになる) 

~1人目の来日者~ テティアナ・ロパテンコさん手記

みなさんこんにちは、私はターニャ(訳注:テティアナの愛称)といいます。ウクライナのクレメンチュクという街に住んでいます、いえ、住んでいました。クレメンチュクは乳製品、食肉、製菓工場、また石油精製工場、車両製造工場など、多くの工場がある工業都市です。戦争が始まったのは深夜のことでしたが、その瞬間を境に、それまでの人生とその後の人生はまるで違うものになったかのようでした。この戦争の前までは友人たちと会えば近況を報告しあい、この一週間に起こった面白い話を語り合ったというのに、戦争が始まってからは、防空壕で会って話すことといえば、「ここに来る途中でロシアの軍用ネオンサインを見たから、空襲警報が終わったら必ず警察に電話をしなければ」などということくらいでした。日本に住む娘から電話があり、YMCAが日本への渡航支援を申し出てくれていると聞いたとき、私は「そうしましょう」と答えました。そのためには、まず隣の国まで行き、その国の日本大使館でビザを取り、飛行機に乗る必要があります。ポーランドを経由することにしたのは、それが最も辿り着きやすい経路だったからです。駅まで着くと、避難のための無料列車が運行していることを知りましたが、その列車は超満員で、通常4人がけの席に11人が立って乗っている状態でした。私は膝が悪く、12月24日には腕を2カ所骨折し、現在も療養中だったため、他の選択肢を探さざるを得ませんでした。娘夫婦がSNSでより安全な経路を探してくれている間に、私はバスターミナルに行きました。リヴィウ行きのバスの座席予約をそこで受け付けており、運賃は1,900フリヴニャ(訳注:約7,600円。ただしウクライナの平均月収は約4万円)でした。私は席を予約し終えると、出発に向けて荷造りするために一旦帰宅しました。必要最低限のものしか持ち出すことはできないと思い、結局リュックサック一つ分の荷物だけを背負って出発することになりました。

翌朝、心の中で我が家に別れを告げ、バスで出発しました(クレメンチュクは工業都市のため、ロシア軍が市内の工場を爆撃し始めたら私の家にも被害が及ぶ可能性があり、私の帰る場所がなくなるのは時間の問題でした)。長時間かけてバスは走り、通常12時間のところ、25時間もかかりました。これは、バスの運転手が安全のため、大都市を迂回し小さな通りを選んで走行したためにほかなりません。途中、軍の検問所やバリケードを何度も通過し、戦車を脇目に見つつ、書類のチェックを受けたりもしました。 ほんの数日前まで美しかった私の国が廃墟と化していくのを目の当たりにするのはとても恐ろしく悲しい気持ちでした。半壊した家屋、学校… 25時間の間にバスが停車したのは3回だけでした。急がなければなりません。リヴィウに到着すると、バスの運転手は、追加料金で国境まで送ることができると言いました。45席のバスの乗客のうち15名がそうすることにしました。そこから国境まで2時間かかりましたが、国境を越えるのは20分で済みました。この状況にしてはかなり早かったと言えます。国境から先のバスの列に並ぶ人は多く、5〜7時間待ちでした。私はワルシャワに行く必要がありましたが、あいにくワルシャワ行きのバスはなく、クラクフ(訳注:ポーランド南部の都市)からワルシャワに行けるだろうと思い、クラクフ行きに乗りました。

自宅からワルシャワまでの道のり

自宅を出てポーランドまでの道中で一番辛かったこと。それはおそらく、家と、これまでの人生をかけて働いて手に入れたすべてを置いていくということです。そして、国境まで一体どうやって、いえ、そもそも日本までどうすれば辿り着けるのか想像もつかなかった、ということです。私が最後に飛行機に乗ったのは33年前、それも隣の国に行くだけでした。33年ぶりに、しかも乗り継ぎもしながら、そんなに遠くまで…。それは言うまでもなく、私にとっては非常に大きな負担がかかるものでした。25時間を超える道のり、そして、もしかしたら次の瞬間、バスに爆弾が落ちてくれば、この世から自分があとかたもなく消えてしまうかもしれない、という恐怖。

YMCAの職員がポーランドで出迎えてくれました。ポーランドでの私の滞在はもちろん、書類の準備やビザの取得にいたるまで彼らが私をずっとサポートし、手伝ってくれました。ワルシャワに来た当初は、飛行機の音で目が覚めると、空襲警報が聞こえたのではないか、防空壕に逃げ込まねばならないのではないか、などと考えながら飛び起きてしまう日々でした。ポーランド滞在で一番大変だったこと。それは、言葉の壁もそうですが、ひたすら待たねばならないことでした。その間、YMCAのスタッフやその仲間たちがみんないかに親切にしてくれ、私を支えてくれたかについて、ここに記さずにいられません。こんな短い時間ではありましたが、記念写真まで撮るほどに、私たちの間には友情が築かれました。

出発の日になり、YMCAの職員が空港まで送り届けてくれ、その先の行き方を教えてくれました。最初のフライトはフランクフルトまで数時間でしたが、その後乗り継いだ東京までのフライトは12時間以上と大変なものでした。でも本当に大変なのは、到着してからでした。飛行機を降りると、まず山のような書類に記入しなければなりませんでした。場所を移動しては新しい書類への記入と確認、さらにまた別の場所に移動しては、また別の書類への記入と確認、といった具合でした。すべて英語と日本語で書かれていましたが、私と同様、そのいずれの言語もわからない人は少なくありませんでした。飛行機を降りてから空港を出るまで、実に3時間半以上、しかもこれだけ長時間に及ぶフライトの後のことです。

飛行機の乗り継ぎ、そして空港を出るまでで一番大変だったこと。それは言語の違う人々とのコミュニケーションが取れないこと、空港で記入し確認しなければいけない書類が自分で読み通す事さえ出来ないほど膨大で、その上確認作業もきっちりしなければならなかったことです。 今ここ東京で、私はウクライナで起こっている恐ろしい日々から、徐々に自分を取り戻しつつあります(最初の数日はまだ思い出すだけで自然と涙が流れましたが)。今後どう過ごしていくべきかまだ分かりませんが、今は小さな孫娘の子守りをして過ごしています。一日も早く《いつかきっとうまくいく(いつかきっとウクライナになる)》日が来ることを祈っています。

*《いつかきっとウクライナになる》は《いつかきっとうまくいく》という意味を表すフレーズです。

(横山由利亜)
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