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私のお月様

「私の」という使い方はまあまあ過去に物議を醸し出して、それは私は私の推しを「俺の天使」って呼んでいるのですが、そうしたら「誰かのものなわけ?云々」などなど2年くらい叩かれたような…。

面倒くさく書くと、このときの私「の」は助詞・所有格ではありますが、「私のもの」というよりは「私にとっての」という意味を多く含んでいます。…というか、マイエンジェルはマイエンジェルなんだよね…

暗澹たるニュースばかりなので、今日も推し様の話をします。ということ。

私の推し様の母語は英語なので、私も一生懸命中学基礎英語を思い出して必死にコミュニケーションを取るわけですが、そこそこ語学のできるイメージのある大学で落第寸前の3年間(最後の年は英語はなかった)だった私は敬愛の意味を込めてマイヒーローかマイエンジェルと言うのがやっとです。かっこいい言い回しを使える英語力はない。

手紙を書いてもなんだか多分間違えているんだろうし、話すのもしどろもどろだしで、英語が下手で間違えてばかりでごめんね、と言ったことがあったんだけど「分かるから大丈夫だよ」って言ってくれたのでした。ほら天使か。天使じゃん…

そうして帰化を申請している推し様は日本語力が4年間でめきめきと上達し、とうとう日常会話は英語がなくても大丈夫になりました…時々連れて行く娘と楽しそうに話してくれる推し様を見ながら、ありがたさに祈るような気持ち。

推し様は天使のように尊く愛らしく、どんなときも私にとってはヒーローなわけですが、存在を例えるとするならばそれは「月」です。

導入が長い。

敬愛している方は、単なる兼業主婦である私とは違う世界に住む方です。今でこそファンサービスの観点からふれあい時間があるだけで、スポーツ選手とファンの関係は遠い憧れです。

私はできればずっとファンでいさせてほしい、と思いながら応援しているのですが、ファンね…と思うときに、夜空を思い出すことが多いです。

それはセンチメンタルだとかロマンチックだとかそういうことではなく、太陽や水や空気ではない、という話です。以前にも書きましたが、推しは無くても生きていけるし、私がいなくても他のファンはたくさんいますから、必須ではなく、不要のほうに寄っています。

月の出ていない夜でも私は死にはしません。けれど、月は太陽のように身体を焼き尽くしたりはしません。また、その時々で見える形が違っても、夜空を照らしてくれることには変わりありませんし、なにより、真っ暗な夜道、心細いときに、月の明かりは、歩く人にとって生きる縁となります。

無くても死なないけれど、有る方が生きられる。

儚い関係性だとは思いますが、憧れとはそういうものだと思います。

無くても死なない、とは、ほんとうにでは要らないのか、ということに関しては、生きている実感がなく、息をしているだけの生存は、真の意味での「生」を感じられないのではないか、と思うのです。

私はマイヒーローのバスケットを観るのが好きで、一番の楽しみです。試合会場に足を運び、ウォーミングアップをしている姿を見つけたとき、身体中が生き返るような嬉しさに満ち溢れること、忘れはしないでしょう。

彼のプレーに宿る、真摯で勇敢で情熱的な姿は、私の道が真っ暗で落ち込んだとき、思い出され、いつも私を照らしてくれます。


2020.06.02.