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好き

私の書く文はどうにも修飾が過多で、思ったままを書くと偽善的というか、なんだかゴテゴテしてしまうというか、どうやら本心でないように取られることも多い(逆に、自分側の意見や気持ちとして書いたことが、誰かの人格否定として誤解されることも多い)のだけれど、残念ながら嘘を書けるほど上手に生きられていないので、きっとずっとこのままだろう。

いつ何であれ、書いてあることは私の本心だ。時によって移ろうし、反省なり改善なりして過去と照らし合わせれば矛盾も生じるかもしれないが、それを引っくるめて賛成も反対も、礼讃も批判も、好きも嫌いも、なんでもない日常の感想も、全て、偽りはない。

自粛期間はほんとうに悲しいことや目を覆いたくなるようなことが多くて、自分を保つのと、大切な人を大切にするだけで精一杯だった。勉強もスキルアップもままならなかったけれど、仕事や私の生き方として、もうずっと一緒にいることはないだろう、と思っていた子供達と、こんなに長い時間過ごせたのは後々思い出せば良かったのかもしれない。

私はあまり慎重でもないし、謙虚でもなく、協調性にも優れていない。器用さに欠けていて、なるべく多くの人とうまくやっていくことはできないと思う。

ただ、好きとか、大切とか、いとおしいとか、尊敬しているとか、励ましたいとか、会いたいとか、元気でいてほしいとか、守りたいとか、私ははっきり書く方だとは思うけれど、これからもそういうものはきちんと言葉にして、わかるように伝えることはやめないでいよう、とだけ思った。

気恥ずかしさはもちろんあった。笑われることもあったし、それを信じてもらえないこともあった。迷惑になるのかためらうこともあったし、揶揄われて怖気付いたこともある。

しかし、いつか言えなくなる。いつか届かないところに行ってしまうかもしれない。いつか苦手になることすらあるのかもしれないし、拒否されることだってあるのだろう。

だから言っておく。こんな私と友人でいてくれる人たちが大好きだし、ずっとSNSで励ましてくれる人も大切だし、配偶者のことは相棒としてとても愛しているし、子供たちはほんとうにかわいいおもしろい子たちに育ってくれたし、遠くで活躍をして私の日々を癒してくれる方も大切だ。

信じてもらえるとは思っていない。私は楽しませたりすることも不得手で、得になるような何かも持ち合わせていない。また、見返りを求めているわけでもない。


2020.05.25.