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呼吸する屑

単に言って、私は屑の類に属する人間だ。怠け者だし、片付けが大の苦手。器用でもないし、この年齢の女性が身につけなければならないであろう社交性も、穏やかな気性もほぼほぼ、ない。秀でるような特技もなく、大輪の華のような美しさに至っては若い頃からない。そこそこに飽きっぽく平凡で、小柄で運動神経もうまいこと繋がってもいない。物理的に無駄に声だけが大きい。

唯一続いていることといえば、無駄に書き散らかすことくらいである。

幼い頃は小さな紙切れで手紙を授業中に回して怒られたし、交換日記で友人と揉めたりした。ワープロも買ってもらっていたし、PCを組んだ頃はHPも運営した。ガラケーの頃もずっと。大学のサークルでは記事も書いたし、ブログも書いたし、Twitterは比較的長く続いていたりもした。

だからなんなのかというと別段どうとでもなく、私は、私が一番自分の文章がつまらないことをよく知っている。大した価値もないものを、ひたすら書き続けて歳を取っているのだ。

口下手で大人しくて、書くときだけが自分を表現できる。

そうであったらまだマシだったのかもしれない。ただ、現実は、親しい人にもそうでない人にも、リアルの中の私は非常にお喋りだ。人見知りをすると沈黙が面倒で話が止まらないし、親しくなればそれはそれで問いかけて聞きたいことが増える。喋りすぎることはいい作用をしないことを、年齢を経てやっと知ったくらいのもの。


それでも些末なものを書く。

何故書くのかは、あまり考えていなかった。とにかく書きたいことが多くて、それに夢中だった頃が長い。30年くらいそんな感じ。

ここ1,2年だろうか。それを考えるようになったのは。これが加齢なのか、いいのか悪いのか、分からない。

ただ、常に私と共に在るのは、溢れる、という気持ちだ。書かないでいると、自分の中からどんどん何かが零れ落ちてしまいそうな感覚がある。そういったことを、誰かに話したことはあまりない。

溢れてしまう。どこかに消えていく。

焦燥感とは言わないまでも、そわそわとした何かが襲うのだ。こういう感覚がある方がほかにいるのだろうか、と、時間ができてふと思う。

絵を描いたり、写真を撮ったり、音楽を奏でたり、壮大な物語を創作する方々とはまた違うような気がする。そんな高等な芸術に昇華しているようなものでもない。いい歳をして恥ずかしげもなく、よく書いているな、と今も思いながら書く。産みの苦しみみたいなものはほぼない。例えるならば、赤子がバケツに入れすぎた玩具のようなものがぼろぼろと落ちていくような感じ。

Twitterはとても簡易で端的で、それを瞬発的に、常々消化するのにとても役に立った。だが近頃、どうにも消費が速すぎる気がしてならず、また短すぎるが故に耐え難い誤解が多かった。もちろん自身の文章能力が拙いことは承知の上だ。短い方が難しいのだ。だから私は俳句や短歌はとても苦手である。

読まれ、評価されたいのか。書き残すということはそういうものだろう。と一般ではなるのかもしれないが、それにも少し違和感がある。読まれてもいい場所には確かに存在させているし、Twitterなどのいいねや感想や返信を頂いた経験は、嬉しかった。とても素直に。

ただ、評価されたいのか、知られたいのか、というと、よく分からない。前述したように、大したものではないからだ。読ませるような書き方はできないし、テクニックもなく、他人が欲しがるものを書く気もさらさらないし、たまたま書いたものが誰かの心を打つようなものも一切ない。本音ばかり書いて、取り繕おうとせず、優しくもなく役にも立たぬ。嫌な気持ちにならたぶん何度もさせた。ほら、屑の書く文章だし。こうして屑として逃げて、中身を進歩させない堕落もそのままだから、つまらないのだ。

しかし善人を装った屑よりずっとマシ。

私は頑固で不躾で恩知らずだけど、そういう子綺麗な嘘をついてまで、遠回しに立場の違う方々を、大衆には分からないように踏みつけるよりはずっといい。私は。

思ってもないことは書けない。書く場所というのは、どこも半仮想世界とはいえど、実際の行動と正反対に近い記述をしてニコニコできる神経の太さがない。たぶんその方が大勢が楽しい。たぶんその方がいい人になれる。でも屑にはムズムズする。反吐が出そうになる。私が嫌われるだけで完結する方が楽だ。

ここのところ、有事どうこう以前から心に引っかかっているのは、自由に発言するもの全てが何かをして何者かになりたいものなのか、ということで、その答えはまだ書くほど纏まってはいないのだが、どうやら自分は自分の範囲を拡げるつもりはない、と思う。この辺りを今月中にはうまく表現したいものだ。

Twitterは見知らぬ誰かに、よい何かを自然に訴えかけるにはマッチしたツールなのかもしれない。ただの呟きから、何かを誰かが得ることに相性が良さそうである。

私は書きたいだけの延長を垂れ流している。屑なりに最大限の善意と良心をフル稼働して、なるべく、基本、自分の中にある唯一まともそうな感情の、好きだ、ということに関して溢れて消えていくことを書き溜めているような部分が大きかった。周囲での出来事に関することはおまけのようなもので。

ここは、誰にも読まれなくていいと思っている。読んでくださる方には多大な感謝があるが、noteに書く内容は、誰に宛てているでもない、自分が読み直すことがきっと一番多い。


書くことは、生きることと同義のような気がしてならないだけだ。息をするのと同じで。


2020.04.20.