主体性と規範意識

前回noteの続きです。

①主体性とは自己責任そのものである

自分を主語にして嫌悪を表明できないのは主体性がないからではないか。
そして嫌悪を隠し通すことができなくなった人が、他人基準への責任転嫁や特定嫌悪の正当化によってロンダリングをするのではないか。

と前回noteでは仮説を立てました。

主体性のない人の多くが嫌悪ロンダリングをしないと声を上げられないのは、責任を取りたくないからだと私は考えています。

以前、こんなツイートをしました。

差別は一人ではやりにくい。
そもそも一人で嫌悪してるだけなら単なる個人の好みでしかないし。
と思っていましたが、嫌悪も同じくらい一人ではやりにくいのだと今は思います。
未熟な不良が仲間とつるまずに一人で悪いことできないのと同じなんですよね。
赤信号はみんなで渡らなければ怖い。
嫌悪もみんなでやらなければ怖いんだと思います。それはなぜか。
いざと言うときに連帯責任を押し付けられる相手がいないからです。

自分がどうあるかは本来、常に自分で選べることです。

日本人は自己責任を勘違いしていて、本人の選択を経ていない結果に対しての責任を求めがちです。
それは間違いで、本来は本人の選択を経た結果こそが正しく自己責任の対象です。

大人になれば、人生の浮き沈みには良くも悪くも本人の選択以外の要因もかなり入ってきます。
結果に自己責任を求めることは多くの場合不適切だと思います。
しかし、自分がどのような人間であるかについてだけは、常に自分で決められることだと思います。

何に好き嫌いを表明するか。
行動するかしないか。
お金や時間の使い道として何を選択するか。
これらは全て自分が責任を負うべきことです。
そして、自分ができることは他人もできることです。

何かを嫌悪するということは何かに嫌悪されるということですし、
何かを批判するということは何かに批判されるということです。
今井絵理子は嫌悪も批判もされたくなかったから、自分もしないと言ったのです。
政治家という職業にはあまりにも相応しくない発言ですが、個人としてはそれも一つのやり方です。

嫌悪はするけど嫌悪はされたくないし、批判はするけど批判はされたくない、だから嫌悪を正当化しよう、ロンダリングして綺麗なものに偽装しよう、というダブスタ責任逃れよりはずっとマシです。

②嫌悪の責任逃れをしたい人が規範を主張する

全ての人は自由です。
しかし一方で、たとえ法律の範囲内でも人が自由に主体性を発揮しすぎて、周りが不快な思いをしないために、
社会ではこうあるべきであるという、マナー、モラルという概念が共同体には育っていきます。これが規範意識ですね。

**「規範意識」とはまさに、責任逃れのための外付けの正しさそのものです。 **

いじめられても病気でも学校には行かなければならない
新社会人はその会社に最低3年いるべき
会社に自分がいないと周りが困るなら休んではいけない、辞めてはいけない
飲み会には参加しなければならない
ビジネスはスーツでなければならない
中高生の化粧や染髪は風紀を乱すからよくない
能力の高い人は低い人を助けなければならない

規範意識の薄い私がざっと思いつくだけでも、社会に根付いた規範は色々あります。

認定された規範に基づく注意は個人の嫌悪として扱われず、乱す方を悪者にできます。
規範意識は個人の主体性の上位に置かれるものなので、個人の主体性同士でバチバチするより楽だと思う人が、これは規範であると主張することが多いんですよね。

規範意識が強くなり、多岐に渡れば渡るほど、私たちは多くの嫌悪するものを正義面で排除できるようになります。
主体性によって嫌悪を表明するのは面倒だから、新しい規範を作って嫌悪を表明する人が多いのが現代です。
しかし、その裏返しとして自分たちも多くの我慢を要求されるのに疲れてきたのもまた現代なのでしょう。
ポリコレ疲れはその最たるものです。

規範意識を全て取り払えとは思いません。
その規範、本当に必要なものですか?
ということを常に考えるべきだと私は言いたいです。
そして、規範意識に無意味に従うのではなく、自分自身の主体性によって、守るか破るかを選ぶべきだとも思います。

規範は義務ではなく、選択肢の一つです。
疑問の鐘を鳴らすのも、規範に従うことを選ぶのも、常にあなたなのです。

「やらされている」被害者になるなよ。
ましてや自分も被害者の認識を持ちながら、他人に規範を押し付けるなよ。
と思います。

③規範という名の搾取

この規範は誰にとって都合がいいのだろうか、と私は常に考えます。

見合った権限を与えないのに、働かせたい放題にするために社員を名ばかり管理職にして、高い労働意識を求める経営者。

あなたがいなくなったら周りが困ると言って、迷惑をかけたくない人の意識の高さを利用して、退職する権利を行使させない会社。

助け合うのは人として当たり前のこと、お互い様だと偽って、自分への配慮ばかりさせようとする人。

個人の主体性によって規範意識を破ろうとしたら、それは義務だと嘘をつく人。

このような明らかに特定の人に都合のいい規範意識の強化に、私は反対します。

第1回のnoteでも書きましたが、善意の義務化に成功すれば、感謝や労力コストをかけずに奉仕が得られるようになります。
こんな美味しい話はないわけで、だからこそ誰得な規範が生まれるし、ヤバイポスター屋さん謎マナー講師のような産業も生まれてしまっています。
反対や疑問を表明していかないと、義務は際限なく増やされるという危機感があります。

あなたが義務だと思い込んでやっていることは、本当に義務ですか?
あなたが義務だと思い込んで他人にやらせようとしていることは、本当に義務ですか?

と、常に疑問を抱くのが生きていく知恵だと思っています。
そして、義務ではないことを提示されたときは、それは義務ではないですよ、やる必要も感じないので私はやりません、ときちんと断って生きます。

良心に付け込まれないように生きましょう。

↑またサイコパスって言われそう。

以上

友梨(Yuri)

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