嫌悪ロンダリング

前回のnoteには多くの反響をありがとうございました。
真っ向からの反論が来るかなと思いましたが、意外と来ないものですね。
少なくとも私は、賛同よりも批判によって思考を発展させていくので、スキと同じくらいキライの表明にも価値を見出しています。

ただし、主語は自分のみにして、「キライ」と言ってください。
「社会的に、政治的に正しくないから、規範的に許されないからキライと言われるべき」
という意見には全く価値がないと思っています。という話を今日はします。

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私たちには「スキ」「キライ」があります。
これはどうあがいてもなくせませんし、なくすべきものでもありません。
一方で、「キライ」の表明は悪である、対象によっては差別である、と考えている人は多いと思います。
嫌いな気持ちはなくせないし黙ってもいられない、だけど周りの目と見つめ合うと素直にお喋りできない。
だから、
自分が〇〇を嫌いだとは言わない。
でも、〇〇には嫌われる理由があるから嫌いと言われても仕方ないよね。

という相手への責任転嫁を経由して嫌悪を表明する人はこれほどまでに多いのだろうな、と思います。
私はこれを嫌悪ロンダリングと名付けます。
不健全なことです。

私は断言します。
嫌いなものは嫌っていいです。
その代わり、自分だけを主語にして嫌いだと言うべきだと思います。
主語を大きくしたり、嫌われるのはアイツが悪いからだと言ったりするのはやめましょう。
嫌悪を綺麗なものにはできません。

カジュアルに嫌ってるものはどんな人にでもそれなりにあると思います。
それを本人を目の前にしてわざわざ傷つけるために言わないことは重要だと思います。
しかし、嫌うこと自体が悪であると誤解することは、「奴らが嫌われることを社会的に正しいことにすればいいんだ」というネオ差別的な理論を導くことを自覚する必要があります。

在日朝鮮人は犯罪率が高いから、イスラム教徒はテロを起こすから、オタクは犯罪に走るから、出て行けという論理はよく見ます。
ある属性を悪く言うための理由を同じ属性の悪い奴から引っ張ってきて差別の材料にするのは、非常に高い頻度で行われる嫌悪の正当化です。

以前、自民党の今井絵理子議員が「批判なき政治」を目指すと発言し、炎上したことがありました。

多くの人が彼女を小馬鹿にしていましたが、私は果たしてどれほどの人が彼女を笑えるだろうか、と思いました。
「批判」を悪と結びつけたり、差別と混同したりする人の多い社会を、彼女は正確に認識していただけではないかと思います。
政治家の大半も、私はあなたの意見が嫌だとストレートに批判することもされることもせず、
主語を大きくしたり他人基準の正しさを盾にしたりして嫌悪ロンダリングをする人ばかりです。
彼女は嫌悪ロンダリングをする知能がない分、批判そのものを悪だとそのまま言ってしまったのでしょう。

「私は〇〇が嫌いだ」
と自分の価値観の軸によって気持ちをストレートに表明するのは、主体性がないとできないことです。
そしてこの主体性がない人こそ、「私は〇〇が嫌いだ」と言うことができず、「〇〇には嫌われるべき理由がある」と言ってしまうのだと思います。

「私はオタクも萌え絵も嫌いだ」
とネットで言っていいんです。
「オタクや萌え絵には嫌われる理由がある。なぜなら犯罪を生むし社会的にも正しくないから。アタシもオタクだし個人的な嫌悪なんかじゃないもん、ちゃんと理由があるもん」
というのはいじめや差別の論理です。

日本人には主体性がなさすぎるのではないか、と思います。
主体性がないから自分の個人的な好き嫌いを表明できずに、「みんなが言ってるから」「国が言ってるから」「社会的に正しくないから」という軸のない主張しかできないのだろう。
という仮説を立てています。

次回は「主体性と規範意識」についてお話しします。

以上

友梨(Yuri)

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