大木にしがみつく枯れ枝


「いつもお世話になってすみません。ウチの人をよろしくお願いします」

遅れている梅雨をとおせんぼするように晴れわたった六月の朝、まりかはソウちゃんの家の前にトヨタを停めた。
小柄な奥さまがじきにドアから顔を出した。
以前、「ウチの奥さんは“あいのこ”で、東欧の血を引いている」と、ソウちゃんから聞いた記憶がある。
どうりで、森のお家でキノコのスープをつくっていそうな愛らしさだ。


今日はA県神社庁B支部の氏子総代会総会である。
B郡中の百近い神社の宮司らと、神社を支える氏子総代と呼ばれる老人たちが一堂に会する。
会の事業目標には、「皇室の伝統と皇位の重みを尊重する活動」「憲法改正運動への協力」などの文字が並び、軽くめまいを覚える。
まりかは、二十年来の知人で地元総鎮守の氏子総代を務めるソウちゃんに、昨年に引き続き、付き添いを命じられたのである。


会場のホテルに着くと、ソウちゃんが何やらモグモグ言っている。

「ふ・ふ・は・い・ふ」
「あっ、車椅子ですね」

ソウちゃんは、見知らぬ国でトイレを探す旅人のように、もどかしそうにうなずいた。

ソウちゃんは御歳八十七歳。背中を丸め、杖をついてやっとこ歩く姿は、引退間近のテナガザルを思わせた。
暴風雨の日のビニール傘よろしくよろめく彼には、歩く気力も意地も脚力も残されていないのだ。

まりかがホテルのフロントにたずねると、エントランスの隅に案内された。
そこには、田舎のスーパーの果物売り場最上段に置かれた高級マンゴーのごとく、空気の抜けかけた真新しい車椅子が埃をかぶっていた。


車椅子でソウちゃんを運んだのは、バブル絶世期に多くのカップルを送り出したバンケットルームだった。
「令和六年度A県神社総代会B支部総会」の文字が巨大な垂れ幕に踊り、ステージ正面のバルコニーには、新郎新婦の代わりに日の丸がうやうやしく掲げられている。
向かって右手には、保守派の議員たちが顔を並べる来賓席。
ソウちゃんは、まりかに左手の役員席に連れてゆくように指示した。
まりかは、テーブルにつけられた重たい宴会用の椅子をどかした。


ところが、である。ソウちゃんは車椅子でテーブルにつくことを、断固拒否したのだ。
大人の椅子に座りたがる子どもじゃあるまいしと呆れたが、仕方ない。
若い宮司ふたりが走ってきて、まりかを手伝ってくれた。

「顧問の椅子」に座ったソウちゃんは、請われて出てきた二番・指名打者のように得意満面だったが、現実には満員電車で優先席を譲られたことは、周囲の視線からも明らかだった。
ソウちゃんを理事から引きずり下ろすつもりが、彼が無理やり顧問職をつくらせたことを、あとから人伝いに聞いた。
枯れ枝になっても役席という大木にしがみつくのは、殿方の性だろうか。


神社庁氏子総代と宮司総勢およそ三百人が集まった総会は、今年も「天皇陛下、万歳!」で幕を閉じた。
これからが、ソウちゃんの大仕事だ。
総会後の直会(なおらい)で乾杯のご発声に指名されているのである。


「オレ、こんな調子だから乾杯は無理だよ」
「いやいや、タケウチさんを差し置いて、できる人はいませんよ」

と、会う人ごとに言わせる姿は、「裸の王様」そのものだった。


ところが、である。
晴れの舞台のレストランに向かう途中、理事のオガワさんがこう言ったのである。

「タケウチさん、心配しなくても大丈夫ですよ。オレから、乾杯はハセガワさんにお願いしておいたから。ゆっくりレストランに来てくださいよ」

と。まりかは、車椅子を押していてよかった、と思った。
いくら面倒なおいぼれ爺さんでも、殿方が屈辱に顔をゆがませる姿は見たくなかったから。


「早く、早く!」

ソウちゃんは苛立っていた。昭和五十年代に建てられたホテルは、改装を繰り返すたびにバリアフリーから遠ざかる。
レストランへ降りる階段を目の前にしながら、迷路のようにぐるりと中庭を回ったところにあるエレベーターへと、まりかは急いだ。
ソウちゃんの鋼の嘆きを乗せた車椅子は、ずっしり重かった。

レストランに滑り込むと同時に、ハセガワさんの乾杯の声がスピーカーから響いた。
ソウちゃんは、呆然と壇上を見つめていた。
骨折して甲子園のエースを逃した少年のようだった。




「今日はオレもいろいろ考えたよ」

身もココロもボロボロのソウちゃんを助手席に乗せたまりかのトヨタは、国道を気怠く走っていた。
名門私学から地元の市役所に入り、田舎のエリート街道を部長まで上り詰め、半世紀以上にわたり地元の名士としてあらゆる役職を抱え込んだソウちゃんは、ついに最後のお役に見放された。

「あなたには今年も世話になったね。すっかりよくしてもらって、ウチの奥さんとあなたをとっかえたいよ」

消え入りそうな声に、まりかが慰めのことばを見つけられずにいると、ソウちゃんは続けた。


「でも、オレ、もう夜のお勤めはできないから、ダメだな」

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