殴る男

「サツキ先輩、それおかしいに決まっているじゃないですか!
アザができているんでしょ? それ犯罪ですよね!」

朝7時すぎ、娘のチヒロが、携帯を手にめずらしく取り戻していた。
サツキさんは、娘の幼なじみで、たしかチヒロの3つ上。
学者の卵さんだったはずだ。

娘は思うところがあったのか、通話をスピーカーホンに切り替えた。
狼狽した若い女性の、低い、けれども興奮して高く尖った声が廊下で響いている。

「だって、私が大丈夫って言ったの。
だって、マコト、ふだんはすっごく優しいんだよ」
「だからやばいって言っているんです!
殴られているんでしょ? ケガしているんでしょ?
学校なんて休んで、いますぐ病院に行ってください! 警察に行ってください!」

娘の泣きそうな声に、サツキさんの震える声が重なった。
娘がまりかの部屋にやって来たので、通話に割って入る。

「割り込んでごめんなさいね。チヒロのママです。いつもありがとう」
「あっ、お母さま、いつもチヒロさんにはお世話になっています」

電話の向こうで、ハキハキした声が聞こえた。
サツキさんは、たしか農村部の、かなりな旧家のお嬢さまだったはずだ。
デートDVの直後だというのに、折目正しいあいさつをすることに、心がザクザク切られるようだった。
こんなときくらい、取り乱していいんだよ。
彼女が生まれた環境の複雑さ、背負うものの重さが、スピーカーをとおしてじんわりと伝わる。

「ごめんね、お話、聞いちゃったんだ。
サツキさんの体も心配だし、これ以上、彼氏を犯罪者にしないためにも、すぐに病院に行って、警察に行って。
お邪魔じゃなければ、これからチヒロとお迎えにゆくから、一緒に行こう」

ひと呼吸あって、サツキさんの声がまた響いた。

「警察官なら、隣にいます!」
「あっ、サツキ先輩、叔父さまが警察の人でしたよね?」
「それならいますぐ、叔父さまのところに行って、お話できる?
チヒロ、いつでもお手伝いに行かせるから、何かあったらすぐ連絡ちょうだいね。
約束できますか?」
「はい、大丈夫です。朝から申し訳ありません」

「サツキ先輩ね、6月にアプリで出会った人とつき合い始めたの。
でもつき合い始めて3日くらいで、脚にアザのある写真が送られてきて。
彼女が帰ろうとしたら、彼氏が先輩が動けないようにしようと、蹴ったんだって」
「ほかには?」
「先輩は自分が大丈夫、って言ったから、自分のせいだと言ってきかなかったの」

彼氏というのは、超名門私大を出て、家業を継いだ同年代の男性だと、いつだか娘が話していた。
驚いたことに、出会って1週間で結婚の約束までして、有頂天だったという。
学歴、外見、お育ち、どれを取っても申し分ないようだが、人の道を外れているのは、問題外だ。

「これ、犯罪だよね。ダメだよね、こんな男」
「ダメに決まっているでしょ。
先輩、ちゃんと叔父さまにお話できるかな」
「先輩、そこまで馬鹿じゃないから、大丈夫だと信じてる」

絵に描いたようなデートDVだ。
娘もよく、気づいてくれた。
5分と経たないうちに、サツキさんから連絡があり、午後から叔父さま夫婦に連れられて、整形外科を受診することになった、ということだった。
当たり前だけれども、警察官の叔父さまは、秒で黒と判断してくれたわけだ。


高学歴でイケメン、いいところ出のボンボン。
サツキさんは、理想の彼氏を手に入れたと思ったのも、束の間のできごとだっただろう。
いや、彼女はどこかで気づいていたのかもしれない。
オーバードーズの常習犯でもあるというサツキさんにとって、DV男を選んだことは、ある種の自傷行為だったのかもしれない。
自分を自分で痛めつけるだけでは足らず、交際相手にまで加担させてしまう。
何と痛々しいことだろう。

殴った男も、いったいいま、何を思っているのだろうか。
何が彼を暴力に走らせるのだろうか。
だれか、彼を支える人はいるのだろうか。
サツキさんが100%被害者であることは百も承知だが、仕事柄つい、加害者側のことも考えてしまう。
加害者が世の中のルールを学ばないことには、犯罪はなくならない。
そして残念なことに、被害者側の支え手以上に、加害者側を支えるしくみはさらに足りていないのが現実だ。


老いも若きも婚活、恋活。
マッチングアプリで自己肯定感を満たそうとする人もいれば、満たすつもりが命すら失いそうになる人もいる。
幸せを見つける人もいれば、不幸に突き落とされる人もいる。
人生のパートナーと出会う人もいれば、心身のバランスを崩してしまう人もいる。
まさに諸刃の剣だ。

人ごとではない。
いい歳したオバさんは、いま何を求めているのか。
まりかがほしいものは何だろう。
どこにあるのだろう。
いや、ほしいものは自分の外にはないし、だれかが与えてくれるものではない。
自ら欲して、選んで、手に入れるものなのだ。

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