延命措置と喪服のファスナー

「写真や血液検査の数値からみて、尿路感染症ですね。
ただ、10年ほど前にガンで右腎を摘出したとのことですが、今回撮ったCTでは、左の腎臓にも3センチほどのガンのようなものが見えます」

急な38度台の発熱で、伯父の老人ホームから呼び出され、受診に同席すると、20代と思しき男性医師が、モニターに映し出された黒い部分を指しながら言った。
娘とさして歳は変わるまい。

ガン?


伯父が東大病院で腎臓を取ったのは、いつごろだろう。
たしか、まりかの仕事がピークを極めていたときだから、10年ほど前か。
ひとりで病院で退屈しているから行ってあげてと母に言われ、土日出勤の合間をどうにかやりくりし、電車とバスを乗り継いで見舞いに行った記憶がある。
不忍池の蓮のピンクが美しかったので、初夏だったのだろうか。

「トオルさん、姪御さんがみえましたよ」

と、病室担当の看護師が言うと、伯父はきょとんとした顔をしていた。
あのとき、伯父も私も、こんなに濃い時間をともにすることになるとは、微塵も思っていなかった。

記憶の世界に入ったまりかを現実に引き戻すように、坊や医師は、さらに続けた。

「狭心症があるので造影剤検査はできないし、もしガンとわかっても、左の腎臓も取ってしまったら人工透析以外、命を繋ぐ方法はありません。
伯父さまの状況から言って、正直、透析は厳しいと思います」

聞きながら、発熱外来でちらりと見えた、伯父の腕を思い出した。
右腕から取られた点滴のラインより細いかと思われるほど、痩せてしまっていた。
まるで、生きることをあきらめてしまったかのように。

「尿路感染自体は、それだけで命に関わる病気ではありません。
でも、いまはご自分で水分を摂ることも難しい状況なので、もしものときのことも考えていただいた方がいいと思います」
「もしものとき、というと?」

そんなの、命が終わりに近づくときを指すに決まっている、と、坊や医師にたずねながら思った。

「栄養を摂るために、胃瘻にするか、静脈栄養にするか、というところですね。
それから、救命措置以上の延命措置は、希望されますか」
「いえ、しません。
伯父本人と飲みながら、よけいなことはしなくていいと何度か言われたことがありますし、お酒も飲めないのに無理やり生きていても、本人もうれしくないと思うので」

こうして、私は両親と伯父夫婦、4人の命の終わり方を決めてゆくことになるのだ。
死神が、お前の決断は本当に正しいのかとでも言いながら、まりかのむき出しの胃袋を鷲掴みにする。
吐き気がする。

「わかりました。そのときにまた、お話しましょう。
私たちも医師として、できるだけのことはします」
「痛くないように、辛くないようにしてあげてください。それだけです。
どうぞよろしくお願いいたします」

モニターから目を上げた坊や医師に、まりかは立ち上がって深々と頭を下げた。
偽らざる気持ちだった。
この3年ほど、伯父に振り回された日々が、脳みその右上あたりにするすると流れた。

子どもじみた言い訳で受診を拒み、あわてて自宅を訪ねたら優雅に朝食を摂っていたことがあったっけ。
無類の酒好きの伯父に昼間から飲まされて、帰りに複雑な乗り継ぎの途中で眠りこけ、隣の隣の県まで行ってしまったこともあった。
自宅で半日以上倒れていたときは、玄関の外にまで「おーい、助けてくれよお」という声が響いていた。
断末魔の叫びだった。

2年前に別れた恋人のカズは、最後にこう言った。

「けっきょく、まりかは俺より伯父さんを取るんだね。
おじさんと飲んでいる方が、俺といるより楽しいんだよね。
まりかは、俺が高卒だからって、バカにしているんだよね」

カズよりも伯父を取ったつもりはなかったけれども、これだけ面倒を見ていれば情もうつる。
両親が死んでも泣かないと思うけれども、このトオル伯父が死んだらきっと涙を堪えることはできないだろうな、と、まりかは思った。
気がつけば18時をすぎていて、病院の正面出入り口はすでに施錠されていて、ようやっと救急出入り口を見つけた。
目の前に自分の車が停まっていた。


スーパーブルームーンを見ながらの帰り道、年寄り4人の面倒を見る意味を改めて考えた。
生きている間をお世話すると言うことは、いつか生が死に入れ替わる瞬間も見届けるということだ。
どこまで生命を繋ぐかを決めて、死を迎えたら、社会通念に従って見送ることもしなくてはならない。
それを4回、これから繰り返すことになるのだ。

重圧にハンドルを取られそうになりながら、まりかはひとつ、大切なことを思い出した。

喪服である。

最後に着たのは、10年近く前、伯母の通夜だったはずだ。
あれからたぶん、8kg増えている。
いえ、まさか、大丈夫、そんなことないわよ。


縁起でもないことを考えるのは不謹慎だと自分に言い訳をしながら、3日ほど目をつむっていた。

日曜の朝、4度、喪主を務めることになる責任の大きさを直視することにした。
娘の部屋のクロゼットから、防カビカバーにすっぽり覆われた喪服を取り出す。
うん、管理はバッチリだ。
カビはおろか、ホコリひとつついていない。


さあまりか、勇気を出すのよ。

ワンピースに袖を入れた瞬間、二の腕にイヤな圧迫感を感じた。
気づかなかったことにして、背中に腕を回す。
するとファスナーは無常にも、お尻の割れ目の半分くらいのところで、ぴたりと止まった。


ああまりか、現実を直視するのよ。



さくらまりか、51歳。
年寄り4人の命の判断より、自分の喪服買い替えの心配が先のようである。

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