初めての抱擁

「ほら、早くたい焼き食べちゃってね。ぎゅってしてあげるから」


まりかは、午前中の短歌の会を終わらせると、伯父夫婦がいるK市にクルマを走らせた。
大型トラックで混雑することで有名な国道は、今日は25日にもかかわらず、するすると車列は動いていた。
まりかの気持ちの邪魔をするものは、何もないのだ。

今日は、2週間前の土曜の夜、お見合いサイトで知り合ったコウイチと二度目に会う約束だ。
コウイチはそれから毎晩、20時に仕事を上がるとLINEが入り、お行儀よく「これから少しお話しできますか」とたずねる。
まりかはそれまでに、超特急でお夕飯のお片付けを済ませ、いそいそとシャワーを浴び、髪を乾かしてボディクリームを塗り、iPhoneの充電をする。
ああ、何と乙女なのだろう。

おたがいに質問がないのが、不思議だ。
マッチングアプリでも、お顔合わせではこれまでの婚歴や相手への希望、仕事についてなど大質問会が繰り広げられるのが常であるが、彼とはそれが一切ない。
わざわざたずねなくても、どちらともなく知りたいことを聞き出せるように、話が流れる。
心地よい時間が、毎晩続いた。
どうということのない話、何を話したか覚えていないようなとりとめない話をしながら、またお顔を合わせたらいったいどんなふうになるのだろう、と、はたと考えた。

電話だから、話が弾むのか。
電話でも、話が弾むのか。

彼も同じようなことを考えたらしい。

ほどよい交通量の国道を走ること1時間45分、伯母の施設に指定された衣類を届けると、コウイチとの約束の14時少し前。
待ち合わせのショッピングセンターにすでに13時半に到着している彼に、あと10分で着きますとLINEを入れると、まりかはふたたびエンジンをかけた。
ちゃんと前倒しに着いて、待ってくれているところは、合格だ。


駐車場から電話を入れ、ハンドクリームを探しているというコウイチを探しに1階のドラッグストアにゆくと、どこにも彼の姿はない。
いるのは小柄で小太りの男性が店の前にひとり、大柄だが禿げ上がった男性が店の前のベンチにひとり。
たった一度、1時間半会っただけだから、はっきりと顔が思い出せないけれども、どちらも彼ではないと確信できた。
実はコウイチは、まりかのお好みど真ん中、小顔で長身、細マッチョなのだから。

愉快犯なのだろうか。
誘き出しておいて姿を現さず、どこかでほくそ笑んでいるのだろうか。
心配になって携帯を鳴らそうとすると、通路の陰から背の高い日焼けした男性が、手を振りながらやってきた。

会えた!

「前回とまた、雰囲気が違いますね」
「コウイチもね」

前回、体にぴったりした洒落た明るい紺色のスーツを着ていたコウイチは、今日はラフなパンツに紺のTシャツにリュック、といういでたち。
サーフィンで真っ黒に焦げた顔に、見覚えのある細い瞳と、薄い唇に安堵の表情を浮かべている。
まりかは紺のワンピースから、今日はジーンズと藍染のリネンのシャツに、赤いコートを羽織っている。
何といってもほんの1時間半、差し向かいでごはんを食べただけ、わからなかったらどうしよう、というのは、杞憂に終わった。

「おなか、空いたね」
「何食べようか」
「パスタにしよう」

チェーンのパスタ屋さんに入り、まりかを奥の席に座らせると、コウイチは有言実行でまりかの隣に腰を下ろした。
お冷とメニューを持ってきた店員さんが、少し不思議そうな顔をする。
並んで座るというのは、いいものだ。
メニューを一緒にのぞき込むことができるし、表情を気にせずに気配だけを感じながら、自然に話ができる。

「僕、イカとほうれん草のクリームパスタ」
「あっ、真似しましたね。私、違うのにしようかな」
「ええっ、そうなの?」

どうやら食べ物の好みも、遠くはないらしい。

オーダーを済ませると、まりかは彼から頼まれていた手づくりの塩麹と、本を5冊、できたての梅酒を少々、それから午前中の短歌会でいただいたお庭の柿、お気に入りのキールズのリップクリームが入った紙袋を渡した。
こないだ会ったとき、ちょこちょこ彼がメンソレータムのリップを塗っていたから。
彼がひとつひとつ袋から取り出して喜ぶ姿は、50すぎのオジさんとは思えぬ愛らしさがあった。

クリームパスタを食べ終えると、まりかは約束の付箋とサインペン、スケッチブックを取り出した。
カードワークよろしく、ふたりの to do リストをつくるのだ。

「たい焼き」
「お散歩」
「ワイン」
「クラフトビール」
「美術館」
「お花見」
「温泉」
「なべ」
「おでん」

A2サイズのスケッチブックには、たちまち4色とりどりの付箋がひしめいた。
したいこと、ゆきたいところ、食べたいもの、飲みたいもの、見たいもの、たくさん。
ああ、何と楽しいのだろう。
この人、本当に10日前までまりかの人生に存在しなかった人なのだろうか。


1時間半ほどをすごすと、コウイチは伝票を手にレジに向かった。

「ごちそうになってしまってよいのでしょうか」
「うん」
「ごちそうさまでした。おいしかったです」

そうか、この人は女性にお財布を開かせたくない殿方なのだ。
にっこり伝えると、たい焼き屋さんであんこのたい焼きをふたつ買って、駅の反対側にある伯父のマンションに向かった。
約束どおり、浮気はせず、あんこのたい焼きだ。
無印でお茶も買って、郵便物の整理も兼ねて、部屋で食べるつもりだった。


伯父が最初に倒れてからぴったり2年。
駅前のタワーマンションのカードキーにもすっかり慣れた。
郵便受けのパスワードも、もうメモ帳を取り出して確認することはない。
郵便物を抱えると、エレベーターにふたたびカードキーをかざして、26階に上がった。

予想はしていたが、室内には本当に何もなかった。
先週、不動産屋さんが手配してくれた業者が入って、部屋を空っぽにしてくれたのだ。
自宅に帰る見込みがない部屋をそのままにしていても、管理費と光熱費の基本料金がかかるだけだし、第一、住む人がいない家は傷んでしまう。
不動産屋さんから指摘のあった瑕疵箇所をいくつかチェックすると、ふたりで和室の畳にぺたりと座り、たい焼きを食べた。

「客観的に見れば、伯父、倒れた時点でひとり暮らしは限界だったと思うし、明らかに認知症状も出ていたし。
でも、私が伯父から伯父が愛した家を奪ってしまったように思えるの。
私の選択、正しかったのかな」

話しながら、涙があふれてくる。
伯父の自由を守れなかった後悔が、押し寄せてくる。

「ほら、早くたい焼き食べちゃってね。ぎゅってしてあげるから」

まりかがたい焼きを食べ終わると、コウイチはそっと後ろに回り、長い脚と腕とでまりかをしっかり包み込んだ。
がらんとしたマンション26階の部屋からは、夕陽の赤と空の青とが織りなすグラデーションと、明かりを灯したばかりのスカイツリーが見えた。
ここが、まりかの心の置き場になったらな、と、思った。

コウイチの息遣いと、唾を飲み込む低い音を左耳に感じながら、ふたりは空をながめていた。
彼の左手は、まりかの左手をしっかりと絡め取り、すぐそばにある真新しいワコールで整えられたふたつの頂に触れようともしなかった。

「ひとりじゃなくてよかったね。
何もない家にひとりは辛かっただろうから」

まりかはコウイチに抱きすくめられたまま、うなずいた。
ことばのない世界が心地よい。
どのくらいの時間、そうしていたのだろうか。
ふいに、彼が唇を動かす。

「僕の硬さはどう?」

まりかは、ふふんと小さく押し殺した笑いを浮かべながら、尾てい骨に感じる、硬くてあたたかいものと同じくらい硬いコウイチの二の腕に、顔を埋めた。
まりかの背中からも、小さくふふんと笑いを押し殺す声が聞こえた。


「ベランダで夕焼け、見たいな」
「うん、そうしよう」

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