「また連絡しますね」

「3時から別件が入っているので、申し訳ないですがそろそろ。
ずいぶん長くお話していたんですね。
いま、時計を見てびっくりしました」

2日連続で30度近くまで上がった夏至前の日曜日、私はサムライ業のクロネコさんを待っていた。
お昼すぎに待ち合わせたのは、私の家からも彼の住まいからも1本で来られるところだ。
JRから地下鉄への乗り換え駅で、近くに観光名所も多いとあって、そこそこ混んでいた。

ひと足早くついた私は、駅のトイレで口紅を塗り直して、改札口に背筋をしゃんと伸ばして立っていた。
去年買った五部袖ワンピースは、ローウェストでギャザーでゆったり切り返しが入り、スカラップレースの裾がお気に入りだ。
ふくらはぎをすっかり覆う丈の服を着ると、165センチの身長が愛おしくなる。

ほどなく、水色のポロシャツに、グレーと水色のウィンドウペンのスラックス姿のクロネコさんが、自動改札をくぐるのを見つけた。
彼の視線をつかまえて、ゆっくり微笑む。
クロネコさんは57歳、首周りはすっきりしているけれども、ポロシャツが中年らしいお腹の線を拾っている。
どこからどう見ても、ふつうのおじさんだ。
写真よりも髭が濃いのは、まりか好みだ。

「はじめまして」
「はじめまして」
「こちらです。行きましょうか」

半歩前に出て、リードしてくれるのは、安定がある。
駅のロータリーから大通りに出て、信号を渡って路地を1本入ったところに、予約してくれたスペイン料理店はあった。
5組ほどを座らせるテーブル席と、5席のカウンターだけのこぢんまりとした店だ。
ランチコースの主菜を時間をかけて悩んだまりかを、彼は黙ってにこにこしながら待っていてくれた。
昨日のタクシーさんなら、痺れを切らしたころにようやく辛い鶏肉のトマト煮に決めた。
スパークリングワインを頼んで、何となく沈黙。

「こういう席は、久しぶりなので」

こういう席って、どういう席だろう。
女性とふたりで、ということ?
小洒落たお店での食事、ということ?

いつの間にか話題は、クロネコさんのサムライ業と、まりかの本職である社会福祉士の仕事の接点の話になった。
何らかの形で生活に困ると、何らかの形で行政的な手続きが必要になる。
法的な部分を支えるのがクロネコさんの仕事で、誇りを失わずに食べて住まうことができるように支えるのがまりかの仕事だ。

初対面だし、できるだけ殿方が会話をリードできるように、ことばを引き出すことに徹する。
これをやりすぎると、これまでの結婚や恋愛のように、いつの間にか心のコップがいっぱいになって、ある日突然、決壊するのだけれども、はじめましてだから特別だ。

スパークリングワインを飲み終わったころに、やっと前菜が届く。
追加で、赤ワインを頼む。
ネコの話、映画の話、子どもの歳の話。
話を追いかけるのに神経を使いすぎないし、でも立ち入ったことを聞きすぎない絶妙な距離感の取り方だ。
それでいて、よそよそしく感じないのはどうしてだろう。

前菜に続いて、サラダ、スープ、主菜と、ゆっくりゆっくり運ばれてきた。
運んでくれるのは、アジア人よりも黒々とした髪と瞳を持つ、少年と大人の間くらいのウエイターくんだ。
カウンターの向こうで、先輩格の女性に料理の説明を仕込まれているのが聞こえてきた。
左隣の2席は女性ふたり連れ、右隣のふたつのテーブルには家族らしき3人連れがそれぞれ食事を楽しんでいた。
少しぎこちない私たちの会話を、彼らはどう聞いていたのだろうか。

食事のあと、トイレから戻ったクロネコさんは、申し訳なさそうに腕時計を気にしながら伝票を取った。
スマホを開くと、2時20分を回っていた。
12時半の待ち合わせから、2時間近く。
驚いた。
昨日は、時計ばかり気にしながら1時間20分をすごしたのに。
打ち合わせがあるという渋谷までは、地下鉄で30分はかかるだろう。
クロネコさんは、本気で時間を忘れて、まりかと話していたようだ。

お店を出たところでお会計についてたずねると、ちょっと考えて、

「あー、では、1000円いただけますか」

と言った。
さくらまりか、3度目のマッチングアプリ生活で、20人近くの殿方に会ったけれども、自分のお財布を開くのは、実は初めてである。
ふだんから、お支度に女性はお金がかかるのだから、殿方がデート代は負担して当然、というのが信条だ。
でも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
それどころか、いつもよりすっきり「ごちそうさまでした」を言うことができた。
1500円のランチに、ワインが2杯。
割り勘にも満たない金額だけれども、一緒の時間をともに手に入れて、一緒に楽しむことができた気がした。

通りに出たところで、仕事の打ち合わせ前にお酒を飲んだことが、いまさら気になった。
飲む前に、予定を聞いておくべきだっただろうか。

「仕事の打ち合わせですけど、仲間内なので、まあそのへんはわかってくれるので」

心なしか、行きよりも早足で歩き始めたクロネコさんは、うなずきながら微笑んだ。
早足で、でもまりかを置いてけぼりにせず、歩きながらも上半身だけは私の方に向けてくれているのがわかる。

「僕は地下鉄ですけど、JRの駅までお送りしますね。こちらです」

きちんと進む方向を左手で指し示してくれるのが、安心感を与えてくれる。
いいぞいいぞ、さっさとウチはこっちだからといなくなった人もいたけど、やっぱり殿方はこうでなくちゃ。

「僕、最初からこのアプリは1か月だけと決めていたんですよね。
まりかさんはどのくらい?」
「そうですね、始めたのはまだ寒いころだったかな」

クロネコさんから最初に連絡をもらったのは、たしか3週間前の日曜日。
プロフィールを見る限りは、24人の女性からいいねがついている。
私がコンタクトを取った中では、比較的多い方だ。

1か月のタイムリミットは、そろそろのはずだ。
彼は、この中の何人の女性と会ったのだろうか。
まだ、狩を続けているのだろうか。
地下鉄の移動中に、ほかのだれかにメッセージを送るのだろうか。
駆け足でやってくる不安などこれっぽっちも見せず、並んで歩くうちに、私たちはJRの駅に到着した。

「今日はありがとうございました。とても楽しかったです。
打ち合わせ、間に合いますか?」
「こちらこそ、ありがとうございました。大丈夫ですよ。
また連絡しますね」

クロネコさんは、ふたたびうなずきながら微笑んだ。

「連絡、お待ちしています」

物語は始まるのだろうか。
それは、クロネコさんとまりか、ふたり次第だ。
私は小指の水ぶくれのことなどすっかり忘れて、駅の階段を駆け上った。


*2023年6月19日の活動状況
・もらった足あと:4人
・もらったいいね:0人
・やりとりした人:1人
「お友だちでいられたら、と思っています」と送ったトマトキムチのタクシーさんからは、「いつでもまりかさんの都合がいいときに、声をかけてくださいね」と、返信があった。
どこまでもいい人である。
彼によいご縁があることを祈るばかりだ。

サポートしてくださった軍資金は、マッチングアプリ仲間の取材費、恋活のための遠征費、および恋活の武装費に使わせていただきます。 50歳、バツ2のまりかの恋、応援どうぞよろしくお願いいたします。