見出し画像

名前も形もない贈り物

今日でまた、一つ年を重ねた。
まあ誕生日だからって、派手なパーティーはないし、高いプレゼントをもらうわけでもない。ただ普通の一日を過ごしている。
だけど、今年は今までに経験したことのないくらいの安心感と静かな感謝の気持ちでこの文章を書いている。
なぜなら、日ごろからいろんな方からいろんな贈り物をもらっていたからだ。

その贈り物は形もなく、名前もない。
しかも、すぐ私が受け取れるものでもない。時差のある贈り物だ。



コロナになり、人に会えなくなった。
大事な友達にも、相談したくなるようなメンターにも、なかなか会えなくなってしまった。私は約半年間、部屋で一人授業を受けたり、考え事をしていた。
私の毎日は自分の部屋でほとんど完結しているような状態だった。
よくよく考えてみれば孤独な作業だったなと思う。


だけど、それがむしろ私にとっては周りにいる人の存在の大きなに気づかされる瞬間が多かった。だから、私は全然寂しくならなかったし、むしろいつもより誰かが近くにいてくれているような気がして、落ち込んでも心の奥底はいつも温かった。
こんな感覚生まれて初めてだった。


一人になってからいつも誰かのことを思うようになっていた。
歩いている時に、たまたま耳にした音楽から、音楽が好きでダンスが好きな友達を思い出す。
たまたまテレビで流れているニュースを見て、その土地出身の子の顔が浮かぶ。
そして、その子とも馬鹿な思い出を懐かしみ、気が付いたらマスクの下に隠れた口角が上がっている。そんなことがすごく多かった。
「あの子今どうしてるかな」と考えることが多かった。


ある時は、昔聞いていた言葉が今になって自分の心に響くこともたくさんあった。
たとえば、「真理を模索し続ける人にはついていき、真理を断定する人からは一目散に逃げろ。」という恩師からの言葉。これは1年前に聞いた言葉だけど、今いろんな選択肢があって迷っている私にとって「焦らなくていいんだ。迷い続けたらいいんだ。」と今になってふと腑に落ちた。

気が付いたら、私は日々の中で私はいつも目に見えない誰かから、昔いただいた名前のない贈り物をいただいていた。それを強いて言葉にするなら、「思い出」「記憶」になるのかもしれない。
それが私にとっての精神的なセーフティーネットになり、まだまだ未熟で弱い私を支えてくれているんだなと気づいた。


これからどんどん不透明な時代になり、不安な時代になっていくかもしれない。というか、勝手に私が不安になっている。
また自分は一人になってしまうのではないか。これから自分はどうなってしまうのだろう。そう考えて眠れなくなる日もある。
だけど、昔お世話になった人からいただいた贈り物にまた出会える日が来ると思うと、少し希望をもって歩いていけるような気がしている。
そして、私はそれだけたくさんの方に関わってもらえている時点で一人じゃない。
そんな贈り物をたくさん持っている私は本当に幸せ者だなと思う。


だから、いつになるかわからないけれど、いただいた方に御礼もしていきたい。
会える方には直接会って、お礼を言いたいし自分がどういう風に捉えたのかちゃんと伝えたいなと思っている。
もう会えない人には、心の中で最大限の感謝をし、私が違う人に縁をつないでいきたい。そうすれば、どこかでその感謝がその人に届くはずだから。


私に出会ってくださった皆さん。
また、直接はあえていなくても、この記事をたまたま読んでくださっている方がいるのであれば、心から感謝したいです。
いつも本当にありがとうございます。

これからもどうぞよろしくお願いします。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?