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ボーイミーツボーイ

※これは2023年1月6日に他アカウントにて投稿した記事の改稿版です。

久々にBL漫画を読んだ。
一定の人には嫌煙されがちなジャンルだけれど、私は名作も多いと思っている。今回またそう思えるものに出会えたので、紹介したいと思う。

Peyo著『ボーイミーツマリア』
なんのひねりもなさそうに見えるタイトルに、最初はなんの期待もしてなかった。帯には安っぽい掛け算の煽り文句。キンドルで無料じゃなかったら目を通すこともなかったと思う。

ある作品がBLというジャンルの中で発表されることの意義について、考えたことは何度もある。
通説だと、大半の読者である社会弱者の女が、男に対する下剋上の現れだとか、俗的には女が性的欲求を満たすため、とか、単なる内輪ノリだとか。

ただ、この作品においてBLという演出は、単なる「透明性」の表現だった。
男でもなく、女でもなく、中立的な、単なる「人間として」主人公たちが存在するための装置だった。

透明性、中立性は言論にかかわろうとすれば、常に課題として立ちはだかる。性別、文化、人種。人を多様にカラフルに染めるものは時として鎖にもなってしまう。

男であるか、女であるか、そんな悩みを抱える主人公「有馬」は、「僕が僕でいること」を肯定されたかった。
彼は時に「有馬」としていたかったし、「マリア」としていることもできた。過去未来永劫無変化な「あり方」ではなくて、変化が許される中で選ぶ「自分でいる」ということ。「有馬」でもあり、「マリア」でもあるということ。男だ、女だ、ではなくて、男でいる、女でいる、自分でいるということ。

もしこのお話がボーイミーツガールだったら、女との対比で必然的に生まれてしまう、男であるというアイデンティティを主人公に付与してしまったら。彼は決してこんなセリフを吐かなかっただろう。

自分自身のアイデンティティと向き合い、それを受け入れようとともがくことは、誰でも経験しうることである。この作品はBLというジャンルだからこそ、それを中立的に表現し、その葛藤を描き出すことに成功している。

男だから女だからと縛られることの多いこの世界のなかで、こういった類のBL作品は唯一その呪縛を解き放ってくれる。

こんな作品が生まれる日本も捨てたもんじゃないと思っていた矢先に、作者がすでに亡くなっていることを知った。
大作ばかりが世を賑わせているけれど、小さな強いキラメキから目を離さないでいたい。

電球が切れたので買いに行く。


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