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映画『ジャンヌ・ダルク』(リュック・ベッソン監督)を観た~冒頭から衝撃的なシーンがあり息をのむ展開…聖女か妄信か~
年明けに読書中だったのが西洋史に関する書籍でした。
そこに「ジャンヌ・ダルク」という単語が出てきたのです。
ああ、そういうえばそういう人物がいたなあと思いだしました。
とても有名な人物ですが、そういえばこれまで自分はジャンヌ・ダルクという歴史上の人物について、とくに興味を抱いたことはなかったなあ……と。
ざっとした概要的なことは知っていても、あまり惹かれるものはなかったので、そこからさらに調べるということがなかったのです。
ところが、その読んでいた書籍というのが中世ヨーロッパの黒歴史的なものを扱ったもので、魔女裁判や魔女狩りについても述べられていました。しかもけっこうなページが割かれておりました。
そこで、なにかその辺りのことを描いた映画を観てみたいなと思ってしまい、
アマゾンprimeで探して、ジャンヌ・ダルクの映画を見つけました。
映画なので作り物ではあるけれども、その時代の背景や建物のつくりだとか衣服や兵士の装備だとか、そういった雰囲気的なところが掴めるのではないだろうかとおもい、ちょっと観てみようかな……ということになったのでした。
歴史上の人物を描いた映画ですから、ストーリーは結末まで知っている状態で観るわけで、あまりそちら方面での期待はせずに観たのですが、なんとなんとなんと……。
……ものすっごく良かったのです!
いやあ。おどろきました。
予想外のジャンヌ像というか、聖女の描き方で、ほんっとうに鑑賞後もしばらく引きずりました。
引きずったのは、画面から訴えかけてくるものが、あまりにも重かったからですね。
まずは冒頭に、たいへん衝撃的なシーンがあるのです。
ちょっとね。その瞬間、「ひっ」と息をのみます。お子様と観ることはできないかな……とおもいます。
これが、ヒロインであるジャンヌにとってもひじょうに衝撃的なできごとであったことはまちがいなく、トラウマとなって体に染みついていてもおかしくないような、というかまずトラウマになってしまったであろう、とんでもないできごとなのです。
とても理不尽な、しかもひじょうに惨い、残酷なかたちでの、肉親の死、です。
このエピソード以前と以後とで、ジャンヌの目つき、顔つきが完全に変わります(もちろん映画のなかのことですが……)。このあたりの見せ方が凄いと唸らされます。
さて。軍隊を導いたジャンヌの激烈な行動。
そこにあったのは、はたして聖なる信仰だったのか、たんなる妄信にすぎなかったのか――?
という感じで映画は進んでいくのですが。
城壁を睨んでの攻防や中世の原始的な武器による戦いのシーンの、派手さはないけれども、あくまでも地べたを這うような描写から伝わってくるものがあり、それは匂いやら音やら熱やら痛み等々――の連続で、そこのあたりとてもおもしろかった。
多少のグロさはあっても、というか、むしろそれがなければ、そこからつづくジャンヌの「これはいったいなんだったの……」という呆然とした表情の訴えてくるものが弱まってしまうように感じます。神の名の下に血を流すというのは使い古された言い方ですが、これを次々と言葉ではなく映像で見せられるのですね。
そして、場面が裁判に移ってから以降のジャンヌの姿には、憐れみや哀しみ、切なさしか感じられませんでした。
聖女という単語からイメージされる崇高さとは、やはりちがった印象を受けます。
なんだろう……。たとえば日本人には多いのかもしれないのですが、たとえば『神の不在』ということをそこまでの衝撃としては感じないというような、無神論者的な立場から観れば、ほんとうに、ただただ憐れでしかないんですね。ジャンヌに対して深い同情を覚えるのではなかろうか。
しかし、これがもしも信仰を持っている人間の立場から観れば、どうなのでしょうか。磔刑(もっとも苦しみがつづくといわれていた残酷極まる刑だそうです)にかけられた十字架上のイエスですら絶望して神よわたしをお見捨てになったのですかと言ったとか聖書に載っていることを考えれば、ですね。聖書の別の場面では、見えなくとも信じよ、というイエスの言葉もあるのだから、同情とはまた違う感情を持ちそうな気がします。
そういう立ち位置から、この映画に出てくる教会だの司祭だのの姿や言動に惑わされず、新約聖書のイエスによる教えというか「神への信仰」という一点のみを基準に観ていく。
するとけっきょく信仰というのは(あるいはわかりやすく恋愛に置き換えて考えてみても)、いくところまで行き着いてそれを極めてしまうと、ある種、常軌を逸した言動に他人の目には映ってしまう、というものなのかもしれない、と思わされたのでした。
たとえばパウロという偉大な聖人がいますが、かれのやったことに思いをはせると、やはりある種いかれているというか、非常識にもほどがあるとしかいいようがないような、そういうぶっとんだ部分があるのですね。宣教への熱の度合いとか神への愛の強さとかそういった方面で。他の一切のことには構わなくなっていく、文字通りに神がすべて、となっているのです。
そしてパウロのその非常識さがなければ、一地域のローカルな宗教だったキリスト教を、世界的な宗教へと広めることはできなかったのではないか……とおもいます。
そんなふうに考えていくと、この映画のなかのジャンヌが、なにかにつけて周囲を呆れさせ、どん引きさせる、逸脱したことばかりを言ったり起こしたりするのは、つまりはそれだけ神への愛が真剣なものであるということになるのではないか、ということですね。
ところが、異端審問の場面では、映画のなかに登場するイギリスもフランスも教会側も、くりかえし、証拠を見せろとジャンヌをしつこく追いつめていくのです。
おまえが神を見たというのなら、その証拠を見せろ。
と迫るわけです。
これって観ていてちょっとおかしな感じがしてくるんですよね。
すこし考えてみれば変だなと感じるとおもいます。
証拠を見せろと迫ること自体があきらかにおかしなことなのに、高名な偉い立場にいるはずの人たちが、それをおかしいと思わず、ちらとも気づきもせずに、がんがんとジャンヌを追いつめていく。
これはほんっとうに怖いですよー。
上でもすこし書きましたが、聖書には、トーマスという弟子から、(あなたが死からよみがえったイエスご自身であるという)証拠をみせてくださいといわれたイエスが、ひどくかなしむ(だったか諫めるのだったかそういう)場面があるのです。
このときイエスが言うのですね。
見たらおまえは信じるのか、と。で手のひらに空いた穴を見せて、
見えなくても信じる者になれと諭すんですよね。
見ずに信じるのがほんとうの信仰であると。
しかし中世の異端審問においては「目に見えること」が、つまり証拠が、重要視されていたわけです。
そういう場面を見せられるともしかして審議官たちはイエスの教えからはほど遠い場所にいるのではないかなという疑問が湧きます。裁判とは名ばかりでもはや信仰の有無を問うというような、そういう場ではなくなっていた感がありますね。
ちなみに関連書籍を読むと、当時は魔女として捕らえた者たちの財産を没収することが主たる目的であった、というようなことが書かれていたりします。
(なんだかちょこちょことと脱線してしまったかも。申しわけないです。)
というわけで、ひじょうにおもしろい映画でした。
ただ、おもしろいとはいっても、万人にお薦めできる映画かというとそうではない、という印象です。
鑑賞後になにかずーんと重いものを感じてしまった、ある意味とっても怖い映画だったからですね。
自分にとっては充分ホラー映画でした。
グロとかそういう意味でのホラーではなく、人間の心に潜む黒い部分について考えさせられる、そういう意味での怖さ。
怖い、怖い、こわーい……映画でした。
それでは、今回の記事、最後まで読んでくださりありがとうございました。
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