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空港キャンプ

空と大地の歴史館を訪ねる。入口らしいところにはヘリコプターのようなオブジェがあった。成田空港ができた時代というのは、プロペラからジェット機の時代だったという話を館内で聞いた。“成田空港地域共生・共栄会議”という施設も近くにある様だった。

一番最初に展示された写真は昭和41年の航空写真の上に成田空港の敷地図を重ねたものだった。個人的にはとても象徴的に感じる。

学生闘争、冷戦、ベトナム戦争、新左翼、そういった歴史もまた展示されている。行政から届く文書はワープロだが、市民からの手紙は手書きのものばかりだった。

「テロと政治の対決」に行ってしまう。という言葉が気になった。

一周、自分の目で見た後に、学芸員と話がしたいと伝えると、入口付近で四人くらいで話していた内の一人が対応してくれることになった。私から見たら年配のおじいさんだ。どれくらい時間はありますか?と聞かれたので、閉館まで、と言った。閉館までは一時間半あった。

この歴史館は過去の検証の意味合いもある。それはどういったことかというと、三里塚という土地がどうして選ばれたか、国有地が多く、立ち退きになる人数は富里案(スイカの名産地)に比べて少ないのだとか、分水嶺であったり、開墾が非常に難しい痩せた土地であることだったのだとか、提示されたのは十分な買取額であったとか、富里で反対が出たために、総面積を縮小したのだとか、そういうことである。学芸員の話によれば89%が賛成して立ち退いたのだと言われる。彼は貧しい草が忙々と生えた人の家の写真と、そうではないスイカを食べる家族の写真を比較しながら話す。これだけの貧しさであった、という様に。

私の心の中での疑問は以下の様なものだ。“貧しさ”と“少数”であることは正当さの理由になるだろうかと。社会システムが例えそうであっても、表現の中では少なくともそれは理由にはならないものであって欲しいと考えている。そして、そこには立ち退いた人の隠された反対への思いはあっても、今も尚反対を続ける人の反対への思いに関する資料は私には見つけることができなかった。

ベルリンの壁の崩壊の直後、国と熱田派(反対派)の話し合いが行われている。そして、その話し合いに出席した人物が、先程入り口にいた人物であると教えてもらえた。「まだ生きているんですね」そしてその彼は当時のことを“狐憑き”と表現していることが展示されている。いわゆる時代の空気、時代のイデオロギー、左翼的なもの、それが解けていく90年代。彼はただそれに流されていたのだ、ということなのだろうか。

学芸員とは、帰りのバスも一緒に乗って話を続けた。そこで名刺を貰い、名前を知った。彼は空港職員として何らかの形で働いていたことがあるようだった。雨が降ったり止んだりしていた。普段手帳に挟んでいるとのことで、財布の中のその名刺はボロボロだったが、それはそれでいいと思った。木の影で雨を凌いでバスを待ち、彼の隣、優先席に横並びで座った。その時、90年の話し合いで“共生”というキーワードがあったことを聞いた。共存共栄という利益のために、意見を排除する時代がその前にあったということである。成田空港は以来、そういった開発をして来ていると彼は話している。具体的にどの様な点が共生なのですか?と聞いたが、その返答はなかった。このキーワードを聞いた時、様々なことが繋がった。

彼とは考え方が違う中で、二時間程様々な話ができた。そのことはこの“共生”というワードが大きいかもしれない。そのことに感謝しながら、第二空港ターミナル駅で別れた。その後、私はカフェに入り、この様な文章を書いた。

空港キャンプ

キャンプという言葉について

※キャンプの語源はラテン語「campus」で平らな場所、広場、大学の構内を指す言葉「キャンパス」。
さらに、古代ローマの練兵場、戦場そのものを指していた。キャンプ(Camp)と辞書を引くと、「野営」「テント生活」の他に「軍隊生活」「陣営」「同志」など幅広い意味を持つ言葉だ。参照:
https://camping.or.jp/learn-camping/camp

成田空港という場所には、“成田闘争”という過去がありました。それは死者を出す様な激しい戦いでした。

成田空港ができる時、農民からの反対運動が起きました。木の根と呼ばれたこの土地は、開墾が難しく、戦後になってから満州引き揚げ者、沖縄の人々、家のない戦災者が20年ほどかけて耕したそうです。その人たちがようやく借金を返せるという様なタイミングで、国はここに空港を作ることを決めました。欧米に負けをとらないアジアとしての日本の発展のためです。

国は高値でその土地を買い取り、結果的には住民の多くは立ち退きました。反対派から村八分が起きるなどもあったと言います。村の人々・心はバラバラになってしまいました。この時国が急いだために十分な話し合いの時間がなかったという検証がされています。

そして、学生運動や冷戦の時代の影響、新左翼の応援によって運動が激化していきました。当時の政治思想、ムーブメントこそがこの運動を後押ししたのだという見方もできるでしょう。

90年、ちょうどベルリンの壁が崩壊した直後、国と熱田派(反対派)による話し合いが行われて“共生”を目指そうという言葉が登場します。

しかし、今尚反対し、2024年の今でも空港の敷地の中で住んでいる人がいます。彼らは空港で“キャンプ”していると言えるのではないでしょうか。

成田闘争は、あらゆる立場に立った見方ができるといえるかもしれません。どんな考えをあなたが支持するかは問いません。
けれども、もし“共生”(相手の立場を理解すること、そして存在を認める、いてもよいとすること)という言葉がこの場所で目指されるとするなら、私は今晩ここで一緒にキャンプをしてみたいと思います。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/3daa6cc7611feea65961ca4e839fd4c5fc1378b3
↑の記事から、反対の人の言葉を抜粋します

◆「お国のために」と
 「私の兄貴は中国の中支で、『お国のために』と戦死してるんだ」――戦後、ひと鍬ひと鍬、木の根っ子と格闘し、頑固な笹山を拓き、農地をつくっていった三里塚開拓農民、熱田一(はじめ)さん(故人)のおっかあ(妻)・熱田てるさんの言葉です。一さんは反対同盟(熱田派)代表として死ぬまで同盟の旗を降ろしませんでした。それを支えたのが、てるさんです。この言葉につづけて、「私にとって、そのことと空港反対闘争とは大きく関係してるんだよ」と話します。
 1941(昭和16)年だから、日本が真珠湾攻撃で米国に宣戦布告をした同じ年、てるさんのお兄さんに召集令状が届きます。同じ千葉県の佐倉にあった歩兵部隊に入隊し、1年後には中国・北支に派遣され、中国を転戦したあげく戦死しました。頭部貫通銃創で即死だったようです。戦争が終わって20年たった頃、この土地に空港を建設することが閣議決定されます。
 「その20年間、私も百姓を一生懸命やって、子どももできた。戦争が終わってさ、やれやれと思ったところだった。戦争中はカボチャやイモしか食えなくてたいへんだったけど、やっと人間らしい生活ができてきたのに、いよいよ私らの時代がやってきたと思っていたところにさ、またまた『お国のため』というのが持ち出されてくるのは、どうにも納得いかないと思ったよ」


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