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ずっと思ってたこと


言わずもがな自粛期間が続いている。久しぶりに少しずつ好きなものに触れている時間が増えている点については、嬉しい。

こうなる前(つまり1ヶ月ぐらい前)までは、正直、生活することにいっぱいだった。私の中の生活は、寝て、起きて、なにかを食べ、芝居をし、仕事に行き、お風呂に入り、寝る、こと。タスクが少ないのに、毎日エネルギーを使うので、そもそもほかのことに手を出す余裕がなかった…というのは嘘で、移動時間だったり、少し気が緩んだ瞬間に音楽を聴いたり小説を読んだり、コーヒーを飲んだりする。ただエネルギーを使うというのは事実で、音楽や小説、また好きな食べ物飲み物をひっそり自分で楽しむ程度だった。

「ユラリ好きなものないの?」「好きなものあるの?」と、よく言われていたし今でも言われる。言われるたびに思う。

「果たして好きなものは出力せねばならないのか?」

出力するには何事もエネルギーがいる。体力がいる。喋ることだって書くことだって体力がいる。実は今こうやって書くのも体力的な面で辛い(気圧が下がっていることと、私の中での昼夜が逆転していることが 続いているので身体が重い)

他のことにエネルギーを使ってしまったら、わざわざ消耗してまで出力する必要があるのかなと思う。

もう一点、共有しづらい好きなものもあったりする。私はただただコーヒーが好きでカフェを巡ったり、雑貨を見るのが好きだったり、植物を見たり、手紙を書いたり、古着を見たりすることも好きだったりするが、これは共通言語にしづらい。何か象徴的なキャラクターや記号があればいいのだが、特にない。そして、「聞いて聞いて!」という気持ちにまで昂らない。「素敵だなぁ」と思っておわる。結局そこまで昂らないということは体力不足もあるかもしれないけれど、やっぱりじんわりと感じて、ほろほろと涙を流すだけで終わってもいいじゃないかと思う。私にとっては、どう転んでも次のエネルギーになる。

昔バレエの発表会を観に行った時に至極感動したことがある。華やかで、豪華で、踊りも素敵で、その場で言語化できなく帰り道黙っていたら母親に「楽しくなかったの?」と言われた。そうじゃないんだよなあ。その時は「余韻に浸る」という言葉を知らなかったので「違う」というしかなかった。

好きなものを、咀嚼して、噛み締めて、自分の中に宝物としてしまう人もいる。それを「見て見て!」と言わなくても楽しめる時もあるし、「見て見て!」と言いたくなる時だってある。先ほどの好きなものに対する質問での私の反発は、「好きなものあるの?」「好きなものないの?」ではなくて「好きなものなに?」という聞かれ方をしたら、なかったのかもしれない。ちょっと捻くれているがただそれだけの話だと思う。寝ることが好きな人もいるだろう。そんなことをわざわざ話す必要ないと思う人だっているだろう。話したくない時もあるだろう。もちろん、話したい人もいるだろうし話したい時もあるだろう。それぞれだ。

 最近自分のSNSを見ていると、好きなバンドの話が増えているし、ゲーム(どうぶつの森ですが)の話も増えている。演劇人としては、少し悲しい状態かもしれないけれど、たまにはこうやって出力しているというのは、楽しい変化だなと思う。

(追記:ただここまで書いて、今役者として課題になってる点は多分こうゆうところなんだろうなぁと思った。すぐ出力しようとならないところ。それが悪いとかじゃなくて、その性格をどう生かすか。)

ヘッダーは1ヶ月前に行ったDior展の写真。これも素晴らしかった。「消費されない美しさ」ってこうゆうことだなと思った。服、小物、アクセサリー全てに自我があって、凛と存在していた。


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