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鏡よ、鏡たちよ

他人から見て、自分は何か?

それを過度に考えずに生きていけないのは、自分の最大の欠点だと思っている。

見える世界はこの目の網膜に映っているもの以外は持ち得ないため違うのかもしれないが、きっと、その問いかけが意識の中で薄ければ薄いほど生き易いのではないかと思う。

その分自分を律せる、と捉えることもできるが、残念ながらこの欠点それだけでは済まない。

ありとあらゆる人間関係を躊躇する。

要するに、信じきれないのである。

どれだけ事実上、自分から見た光景上、親しい間柄な時間を過ごそうと、『本当にそうだったか?後ろ指差される真似を自分はしていないか?』と疑ってしまう。

というか、最早何かしら後ろ指差されているという前提でしかいなくなる。
逆に言えば誰かに約束を破られようと、来るはずの連絡が来なかろうと、期待外れなことをされようと、ノーダメージではいられる。何かしら自分が悪い、と。

ただ、それが故に、こちらから何かしらアプローチをするときというのは、不安しかない。いざ実行に移したとしても、余程の自信と余裕が心にあるときか、行動に移すべき確証が得られた時にしかやらない。

そのフットワークの重さは、おそらく現代社会において致命的。

そんなにも嫌われたくないか?とも思うが、寧ろ考えずに行動して嫌われない、自身の存在が害悪にならない確証がどこにあるのか、という話である。

じゃあ何もするなという話だが、心というものは面倒なもので。

こちらからは他人を肯定したいし、関わりたくもなってしまう。

だから、何かと歩み寄ってみるのだが、踏み込むことはまずない。

一方の現実はといえば自分に対してそんなに興味がない、が正しいところだろう。
嫌うほどの興味も存在感もない。それがおそらく正確なところだろうとは、自分では思っている。

なので、踏み込んだところできっと拒まれることも、逆に歓迎されることもないだろうし、そのまま流れるように回っていくのだろう、

最近は何となくそのレベルまで他人という鏡を覗くことに対して、落ち着けるようになってきた。

引き換えに今度は人と関わりたい気持ちが行き場をなくすというか、何をしても自己満足でしかないのかと思う自己嫌悪の副作用付きの鎮静剤であるが。

正直自己満足に好きな他人を付き合わせているのだとしたら、かなり心が痛む。故に自分から何かを誰かと行動を起こすときは、自分以外の誰かが楽しめるような事しか殆どしない。その楽しんでいる姿を以てでしか、自分の行動を肯定できない。

正直とても難しい。

言葉で伝えられても世辞にしか聞こえないし、実際この世にはフリという概念も存在するため、結局は完全な肯定は出来ない。

けれど、そこに『あれできっと良かった筈』程度の光景があって、それで何とか暗示するように、自分の他人に対する欲求と不安を寝かしつける事が、出来ているようには、思う。

きっとあの時間は本物だった、そう言い聞かせるだけの時間が、出来ていたように思う。思いたい。

人と関わるとは、こんなにも難しいものなのである。こんな欠点を持つと。

これらを気にせずに行動できる人が、心から羨ましく思う。


鏡よ、鏡たちよ、貴方にとって私は何?

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