【こぼレビュー】結婚するって、本当ですか?

書いた:若木民喜
出した:小学館(ビッグコミックスピリッツ)

 大原と本城寺は職場で出会い、結婚する。

 日本には「失われた三十年」、という言葉がある。これは、高橋留美子がめぞん一刻を書いて以来の恋愛マンガ不作の年月を表す。
 本作はめぞん一刻に挑戦した一作で、かなり成功しているといえる。結論から言えば失われた三十年がようやく終わったと思える会心の出来である。

 まず、めぞん一刻に挑戦するには現代的なアップデートを図らねばならない。これがまず大変な作業でふつうめげる。そこを本作は丁寧に丁寧に、それはもうスイスの時計職人が如くめぞん一刻を分解して、一つ一つに油を差し、取り換える部品は取り換え、再度組み上げた。この作業は実にクリエイティブで、そして緊張の至るものである。
 例えば、めぞん一刻といえば四谷であり三鷹である、と人は言おう。しかしこの作品には四谷も三鷹もいない。彼らは令和には居場所がない。
 何故その判断になるか。
 そもそも高橋留美子は小池一夫劇画村塾の人間である。小池一夫イズムの体現として四谷は存在する。キャラはまず強烈である必要がある、というわけである。それが、作品が要請するものなら作品に関わるし、そうでないなら空気になる。実際、四谷はいなくてもいい。
 対して若木民喜の作劇はやりたいシナリオがあり、そこにキャラがいるといういささか現代的なもの(ピクサーとか以降)で、本作でもその方向性は変えていない。なので四谷はエッセンスだけは職場の同僚などに移し、人としての役割は終えたわけである。

 三鷹に関しては完全に不要である。まず、こいつの役割は遅延行為である。冷静に考えて、主人公とヒロインが結ばれる事が序盤にはほぼほぼ決まっているこのストーリーにまぎれの要素はいるだろうか?はっきりいって、小池一夫の悪い部分が詰まってるといっていい。いや、武論尊もこういうのやりがちだから単純に昭和の悪い霊だな。この三鷹という存在を消すことで、ストーリーは締まり、めぞん一刻とは違う角度の視点を得た。それが結婚という制度の実作業であり、本作のテーマである。

 本作は「結婚」に対しての懐疑は一切行わないのがポイントである。つまり、結婚制度は無条件で良いものであり、達成すべきことというのが作中に無謬の信頼としてある。同僚の離婚のエピソードを挟むことで、結婚に対する懐疑をゼロではない態度としているが、実際にはこれは主人公の結婚に対する決意としてのエピソードとして働いており、メタ的な、日本的な結婚制度に対してのエクスキューズではない。
 両親、仕事、住まい、趣味、人生等、恋愛と結婚について深掘りしていく中で、様々な問題に二人で当たり解決することが必ず二人の仲を深める。
 これはめぞん一刻も実はそうで、基本的には二人の関係は揺るがない。というか、ここさえ守ればよかったというだけの話でもある。
 めぞん一刻のラストエピソードに当たる、音無父が酔いつぶれて〜結婚するまで、めぞんですっ飛ばした場所を逆にそこに絞って書く。
 二人の距離縮めエピソードの簡素化や要素の置き換えが実にうまくて、全編前向きで、また現代的なスピードのある展開があり、二人の関係はなにやら進んでいるという感触は得られる。読者はうまく乗せられることだろう。

 ただ、問題がないわけではない。
 「神のみぞ」からそうなのだが各エピソードに対してジャンルを紐づけるシナリオの書き方をしている。本作でも史跡散歩が趣味の本城寺、大原の地元である熊本、ハワイ、ガラス…。エピソード(=キャラ)にこういう一つのジャンルが当てはめられてて、それを活かしたりしながらしゃべるのはメタがかかりすぎててやや鼻白む部分ではある。
 また、どういうマンガの書き方をしているか知らないが、序盤を終えてからはなんだかネームが他人っぽいとしか言いようがない微妙なページをどうでもいい話の時に挟むのが気になる。絵のクオリティが保たれているので違和感に至る手前なんだけど、どうしてもそこに間延びを感じてしまう。作者本人のレベルで手癖で書いてもこうはならないと思うので個人的には別の人が書いたやつをチェックしてるだけと思っているんだけど、気合いれなかったらこうなっちゃうのか?
 もちろん雑誌連載として当たってから先を膨らませて話を盛ってる部分もあるだろうから一概にこのやり方が悪いとは言わないけど、連載で休まずクオリティを維持するのって大変だなと思うね。

 とはいえ本作は若木民喜のキャリア上で最高の、そして青年漫画の恋愛マンガとしても新しい地平を開いた一作となるだろう。


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