【こぼレビュー】浅草キッド

撮った:劇団ひとり
見た:Netflix

 1970年代の浅草。芸人を志す武は演芸場で青春時代を過ごす。

 まず驚いたのは、これがきちんと今の水準で映画として見れる脚本になっていることだった。優秀なスクリプトドクター的な人か、整形した人がいると思う。さすがにこれを本当に劇団ひとりが独りで構成しているなら芸人を今すぐ辞めて脚本家になったほうがいい。この2~3年で日本で撮られた長編動画の中では5位に入るくらいにはモダンでレベルの高い脚本だろう。

 構成としては演芸場での出来事が2/3幕となっていて、1/3でビートたけしになった後の話。それとは別にストーリー全体は「栄光と没落」を半々で割っている。こういう重層構造(ラーメン用語でいうダブルスープ)が今っぽいわけ。
 ここからは図示しないとややこしいかと思うがヒロインと師匠を「今の自分」「なりたい自分」とした二軸にし、それぞれの立場と演芸場の関係を書くことで武の青春時代があぶりだされる。隙がない構成だ。

 序盤はかなりもたもたしている。かつてあった演芸場への憧憬はそれを通してその頃の日本を写しているが少し「良すぎる」気はする。まぁグリーンブックとかでも結構良すぎるアメリカを描いてたりするので、毒にも薬にもならんところでは憧憬ポルノやるのが今流行っているのもある。これは、シリアスな場面だけで構成するよりは全然いいと思うし別に問題提起ではない。

 先ほど書いたように劇中の2/3はこの美化された演芸場のシーンで出来ており、映画の主人公はビートたけしだが実際のカメラの中心は演芸場だ。こういった伝記的作品となると、特に日本はキャラクター文化が発達しすぎているのもあり、概ねキャラクターを描くこと「だけ」に終始しがちだが本作はそこまでたけしにこだわっておらず、ビートたけしの大ファンである劇団ひとりにそこへの阿りがないのは立派というか、なんというか。邦画のつまらなさは大きくそこに起因しているので本作ではこの絶妙にたけしの内面にこだわらない匙加減のおかげで視点の距離感として海外の映画よりの印象になっているのではないだろうか。

 上がって下げる「栄光と没落」のプロットにはグレートギャツビーの含みがあり、これがとんでもなく効いている。つまり師匠はギャツビーであり演芸場の権化である。その栄光の頂点が没落の始まりであるわけだが、本作は巧みにグレートギャツビーから役割をずらしている。
 ヒロインが歌うシーンを頂点にしているのは演芸場へのレクイエムとして単純ににくい演出と言えるし、没落する師匠は金はないものの真摯な芸への気持ちを持ちつづけた点で疑う余地もなく武にとってのギャツビー卿だった。元ネタはストレートでもっと個人的な部分、人間の部分に焦点があるのだが、この映画では「芸人」に焦点がある。すばらしい!
 しかも本作は2段ギャツビーになっていて師匠は3幕目にギャツビーらしくちゃんと死んでしまう。(というか原作では、この2段目の師匠が死ぬギャツビーだけあったところを映画のシナリオで1段増やしたんだと思うけど…)栄光と没落の演芸場ギャツビーであり師匠ギャツビーであり…もしかして、ギャツビー好きすぎるんか?まぁ、なかなか凝ったわかった人向け天丼ともいえる。

 途中だるくて割と飛ばしてしまったので2時間じゃなくてもいいと思うけど、これだけの構成が日本語で作られるなんていいことやないですかと思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?