奉納とショー、即ち踵とつま先の話

環境に溶け込む

お囃子における締太鼓の叩き方は、呼吸のようです。深呼吸を日常生活ではあまりする機会がないのと同じように、締太鼓を大振りで叩くことはしません。

動いているのかいないのか、叩いているのか叩いていないのかわからないような、心を無にしているかのような状態になります。

他の奏者(相方の締太鼓、大胴、鉦、笛)と一体になる為に、奉納品になりきる為に、個を殺して、空気になるような感覚があります。

流派や団体によっても違いはあるようですが、今の環境ではそのように感じています。



対峙するのか一体になるのか

子供の頃に、日本各地で伝承される太鼓楽曲を演奏するサークルに所属していた私の身体は、お囃子の締太鼓を演奏することに慣れず、始めた当初はとても苦労しました。

人間の何倍もあるような太鼓を演奏するプロ奏者とは異なりますが、観客がいるタイプの一尺4寸の長胴太鼓での演奏では、相手と一体となり環境そのものになることではなく、個として相手と関わり合うことが重視されました。


神に納めるとはどういうことか

お囃子連では、お囃子は神様に奉納するものだと教えられます。人間への見世物ではないと。


舞踊も楽器の演奏も、全ての芸能は神様に捧げるものとして当初始まったのだという感覚を持っています。

神様をどのようなものと捉えるかについては人それぞれ考えがあるかと思いますが、(自分が)神様に捧げるためには自分自身の鍛錬が必要であり、単純に二分すると「自分の為に踊っている」ことになります。

一方、一般に広く普及した芸能は、一緒に披露する仲間や披露する相手がいることが前提で、単純に二分すると「他人の為に踊っている」ことになります。


自分の為の舞踊は、かかと重心のものが多いように感じます。

他人の為の舞踊は、つま先重心です。もともとかかと重心だったものが、多くの人に見せるものになる過程でつま先重心になることもあります。


振動が起こっているということにはどちらも変わりはなく、エネルギーが発生している限り、どちらも人間の尊い営みだと考えます。

職業にも芸能にも貴賤はありません。

どのような芸能も自分か他人のために存在しており、どのような芸能にも最大限の敬意をはらっていたいと思います。


少しでも共有できる思いがあったのであれば嬉しいです。 電気を届けるしごとに思いをはせる「白金プラチナ電設」もご贔屓に。