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ゴリラゲイ雨を即差別認定するべきではない理由

東急ハンズのツイッターアカウントが
「ゴリラゲイ雨」というツイートを発信したところ、「差別的だ!」と批判が集まったという話だ。(いつもと口調が違います)

*注
私は「差別は悪いこと」という事実自体は当然のことであるとは思っている。ただし、「差別かどうか怪しいこと」を差別と決め付けることは逆差別の元であるとも思っている。そもそも人間は物事の善悪を完璧に判断できるほど賢くはない。差別かどうかの基準も時代と共に変化する。「差別である根拠」が明確でない以上は、差別かどうかきちんと議論すべき、という主旨で本記事を書いている。

さきにまとめ

  • ゲイという用語そのものは差別用語ではない

  • ツイートが差別かどうかは現時点では不明

  • 言い間違いはそもそも面白いもの。アカピッピミシミシガメは面白い。

  • 不快なのはしょうがないが、それだけで叩くべくか?

  • 差別云々より広報としてまずかった”かも”

  • 広報として好ましいかどうかは、アンケートで民意を問うべき

さて、このツイートである。

軽口ではある。しかしちょっと待ってほしい。本当にこれは差別だろうか?
差別というラベルは本当に注意が必要だ。何しろ「差別」という言葉には暗に「問答無用の悪者」という非常にネガティブなニュアンスが内包されている。誰かを差別主義者だと糾弾して、後でそうじゃなかったとわかったときに責任をとれるのだろうか?特に大手マスコミが「差別的発言をした○社」という風に指弾してしまうと取り返しがつかない。

「差別主義者」を糾弾することは暗に「自分はそうではない」というPRにもなるため、往々にしてその声は極端に大きくなり、時に一人の人間の人生すら終わらせることになる。

そして、「差別」という言葉はあまりに強すぎるため「どういう差別なのか」「何が問題なのか」「正しくはどうすべきなのか」が議論される前に話が終わってしまいがちである。問題の本質が見えなければ同じことは繰り返される。

ゲイという言葉は差別用語ではない

ゲイという言葉は性的嗜好に付けられた名前であって、これ自体は差別用語ではない。言葉そのものが差別的だ、というのはゲイという性的嗜好そのものを否定する「差別主義者」そのものである。さらに、「あなたはゲイですか?」と聞くこと自体も差別ではない。聞いているだけだからだ。男性が男性に聞いているのなら、パートナーになってほしいのかもしれない。聞くこと自体が差別?セクハラ?それは状況次第だろう。大勢の前で聞いたりしつこく聞くのでなければ、またからかう目的でなければ一度は聞かないとわからない事柄である。

従って、ゴリラゲイ雨というフレーズに「ゲイ」という言葉が入っていること、それ自体は差別的とはいえない。

ちなみに、私も「あなたはゲイですか?」という問いに答えることはやぶさかではない。私は身体は男性でヘテロセクシュアルなので、男性から性的な好意を寄せられても応えることはできない(好かれること自体はうれしい)。従って答えは「いいえ、私は女性を性的に好むヘテロセクシュアルであります!」である。この問いに答えることで素敵な女性を紹介してもらえるかもしれないし、あるいは私にアタックしようとしていたどこぞのゲイの男性に無用な労をとらせずに済む。正しい情報は自身と周りの人間に有用なので、問われたら正確に答えたいと思う。ただし、大勢の目の前で、例えば朝礼の時間に「yunyun君、君はゲイかね!?」などと聞かれるとそれは困るのであるが。

ゲイという単語が含まれること自体が不快?

これはどうしようもないことだ。後述するが、これは差別とは本来無関係である。問題なのはわかる。しかし、不快だから差別、これはまずいことだ。どんなものにも好き嫌いはある。近年の学校教育で「人の心を大切にしよう」を曲解しているのではないだろうか?不快なら「私に対してその言葉は使わないで欲しい」と伝えるのが自然だろう。「不快に感じる人が多いのだから察して欲しい、配慮して欲しい」は一見まともなようで今回は成り立たない。

「ツイート主は面白いと思ってツイートしたのだ。面白いと感じて欲しい」は通らないのに、個人の快不快だけ主張するのだろうか? それこそ、自分の不快なものを「差別だ!」とレッテルを貼って叩きまくっているのではないか? ただ面白いと思ってツイートした、ミスかもしれないけどそれを人類の敵のごとく叩くのはいいのだろうか? 言わせてもらえば、企業アカウントで言い返せない相手をこぞって叩くその態度、私にはそちらの方が不快だ。

このように、物事を快・不快で判断することには限界があり、常に矛盾が生じる。誰かの快は誰かの不快。よほどの問題がない限り、自分の快・不快を相手に押し付けるのは傲慢である。

そもそも言い間違い自体が面白い

これはツイート発信者自身の弁でもある。これは私も同感である。言い間違いは微妙でややこしいほど面白いのだ。例えば、「アカピッピミシミシガメ」。いわゆるミドリガメという種類の亀は正式名称が「ミシシッピアカミミガメ」である。語源を知っている人間は「ミシシッピ/アカ/ミミ/ガメ」と脳内で区切ってから発音するので間違えることはない。しかし知らない人はこんな感じで微妙に珍妙な間違いをするのである。アカピッピミシミシガメはどこにも差別用語も差別的用語も入っていないが、面白い。だから、ゲリラ豪雨→ゴリラゲイ雨も面白いと感じてもおかしくはないのだ。

ただし、広報ではよろしくないかもね

ここまで擁護してきたが、最後に差別とは関係なく、「ゴリラゲイ雨」はまずかったかもね、とは指摘しておく。なぜなら、発信アカウントは「広報」が仕事だからである。広報の仕事は三つ。「周知」と「好感度稼ぎ」と「信頼構築」である。消費者に商品を知ってもらう周知。炎上でもいいから周知したいのであれば、今回の発言は成功だ。でもきっとそれは望んでいないだろう。好感度稼ぎとしては完全に裏目だ。信頼構築としては微妙だ。発言で不信感を抱いた人もいるだろう。一方で即謝罪して訂正したことで信頼が上がったかもしれない。また、商品そのものとは関係ないので信頼感は据え置きの人もいるだろう(私もそうだ)。

好感度を大事にしたいなら、今回の件はまずかった可能性がある。ただしこれはきちんとアンケートしないとわからないことだ。ネット上には厄介な拗らせアカウントも多く、日常の憂さを晴らすために叩ける奴は叩く、というアカウントも多い。こういう輩は声も大きいので一見すると多いようだが、実態はわからない。

一方で、中立または好意的なアカウントはよほどのことがない限り企業に声をかけてはこない。広報は一般好感度が大事なのだから、今回のゴリラゲイ雨発言で賛成多数なら「お騒がせしてごめんちゃい♡」で済ませばいい。一方で、否定的な意見が多ければ、差別とは関係なくこういうツイートは慎むべきだろう。

何が悪かったのか、原因は何か判明しないまま謝罪だけするのはまずいし、根拠不明なままツイート担当者に処分を下すのは酷である。まあ、ちょっと軽口過ぎたのはそうだろうが、どの程度の処分にするかどうかも、お気持ちではなく根拠を持って下して欲しいと思う。

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