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鎌倉殿の13人とけものフレンズの脚本の共通点

もう少しで最終回の鎌倉殿の13人。最終回に向けて話を反芻して感じたのが、その脚本の秀逸さ、面白さである。その秀逸さについて、僕のわかる範囲で指摘するならそれは「一貫性」と「多面性・多層性」。この性質は、まったく毛色の異なるアニメけものフレンズ(2017)と類似していると感じる(一番の共通点は、どっちも好きな作品であることだが)。そこで、この2作品の「ここすき」としてちょっと語ろうと思う。

鎌倉殿の13人

鎌倉殿は長いので、例として、最終章(第39回 - 最終回)を。
多くの視聴者が、和田殿派と北条派に分かれる回(さらに源実朝派も)。
このそれぞれの人物に感情移入した場合、どの派に肩入れしてもある種の納得感がある。具体的には、鎌倉殿の13人の脚本ではそれぞれに整合性のある理由、しがらみ、正義、そして運があり、それぞれにある程度納得できるのがすごいのだ。

和田殿は


・すこしおバカ設定であるがとにかく忠臣
・乗せられやすい性格
・筋はだいたい通す(が身内びいきが無自覚)
が一貫しており、和田合戦ではこれらが全て悪い方に働いた。さらには姪っこちゃんが北条に捕らえられたままの父親に会えずに死んでしまった、周囲から突き上げられて後に引けなくなった、主に政治的な駆け引きで軍勢を減らされて必然的に負けた、という筋書きに矛盾はない。

北条(主に義時)は


・鎌倉という機関第一主義
・源頼朝を常に規範とする(女関連は除く)
・冷静で用意周到だが、用心しすぎて時に非情な対応
・黒いというより汚れ役を押し付けられ続けて今も続いている感じ
が一貫しており、和田合戦にいたる過程はこれ以外ないよね、というほどの必然。加えて一旦は瓦解したはずの合戦理由が思わぬ形とタイミングで爆発し、和田の増長と力の増大、源実朝の余計な対応が裏目に出るという後押しがあり、筋書きに矛盾はない。その後も彼の行動原理は常に「頼朝ならどうするか、鎌倉をいかに守るか」に終始している。

源実朝は


・優しい
・和田殿を色んな意味ですき
・女や金などに振り回されない分反応が単純(意思決定変数が少なめ)
・正義感はあるが権力の力学に疎い
が一貫しており、和田殿にかけた言葉も必然。ところが、良かれと思った和田への対応は他の御家人からすれば「えこひいき」「ごねれば聞いてくれる」「反逆しても許してもらえる」という認識に発展しかねないもので、和田が強すぎるから云々以前に、一番の死亡フラグを立てたのは実朝という理解もできるほど合戦の引き金となってしまったという筋書きに矛盾はない。

このように、全ての人物が想定される範囲内で判断と行動を行った結果として合戦にいたるという鎌倉殿の13人の脚本は、どの立場、どの人物推しから見ても(哀しいにしても)納得できるという点ですごいのだ。さらには、政治的な見方、人間関係的な見方、実際の史実としての見方、いずれの層で脚本を俯瞰してもそれほど矛盾なく脚本が成立している。これをここでは「脚本の多層における整合性」と呼ぼう。つまり、色々な客層、見方で見ても整合性があり楽しめる脚本ということだ。

けものフレンズ

ジャンルは異なるが、この脚本の多層における整合性は、アニメ けものフレンズ(2017)にも見られる。こちらは有名なたつき監督(チェンソーマンの藤本タツキ先生とは別人)の代表作の一つで、名作傑作の誉れ高い作品である。例として、ダブル主人公のかばんちゃんとサーバルちゃんの関係を見てみる。

サーバルちゃん


・快活で積極的
・弱い人にも優しい
・学習能力が高い
・結構強い
が一貫しており、1話でかばんちゃんに何度も手を差し伸べて成長を見守る描写は「聖母」とまで評された。これは12話に至るまで基本的にぶれないため矛盾しない。

かばんちゃん


・引っ込み思案で弱気
・優しいというよりも問題を無視できない(*注1)
・学習能力と発想力が突出して高い上、過去事例からの応用も得意
・力が弱い(フレンズとの比較)
が一貫しており、最終話に向けてゆっくりと変化していくものの、全体として矛盾はない。けものフレンズ1はかばんちゃんが成長していく物語という側面があるため、引っ込み思案や弱気は少しずつ克服し、力に関しては自分は知恵で代替しつつ、他のフレンズの力を借りるように変化していく。

ところが。これは全く逆の見方もでき、これでも物語としての矛盾は無いという多層構造というか鏡像構造があるのである。

サーバルちゃん


・快活で積極的だけどいきなり狩りごっこを仕掛けるあたり距離の縮め方が下手すぎる一種のコミュ障
・弱い人に優しいけど自分も強いほうではない、というか色々下手すぎる
・あまり物事を深く考えないのに積極的なので「さばんなちほーのトラブルメーカー」

という、フレンズの中でも欠点が多いほうであり、そう思ってみると10話まで各話で満遍なくやらかしているという点で一貫している(ただし、各話で解決しているので目立たない)。1話(初対面の人に狩りごっこを仕掛ける、危険な斜面を降りさせるなど)、2話(川流れ、かばんちゃんにバスを持たせて溺れさせる)、3話(崖からの滑落)、4話(遺跡アトラクションで壁の向こうのセルリアンを呼んでしまう、遺跡も壊す)、5話(物損事故)と続き、6話以降はかばんちゃんがうまくやりそうなときは一歩引くようになる。しかしそれでも8話(プリンセスを強引に落とす)、9話(水風呂に飛び込む)、10話(つまみ食いがばれる)とちょくちょく失敗していくドジっこであるのだ。
ただし、フォローに心がこもっており、視聴者にストレスを感じさせることもない。

そして、その才能に対してイマイチ自己評価(他者評価も)が低いサーバルちゃんは、かばんちゃんと旅することで自己肯定感を取り戻しつつ、よりよい人間関係構築ができるようになっていく。さばんなちほーのトラブルメーカーといわれていたサーバルちゃんが、最終話でヒトの知恵を応用し、フレンズ連合軍の王手をかけるシーンは涙なしには語れない。つまり、サーバルちゃんもまたかばんちゃんとは別の形で成長していくのだ。

つまり、もっとも一般的な解釈として「かばんちゃんの成長物語」がけものフレンズのひとつの主題なのだが、「サーバルちゃんの成長物語」でもある。さらに伏線を拾っていくと、「ミライさんの残した課題を、ヒトとフレンズが解消していく物語」でもある。さらにかばんちゃんの内面を見ていくと、「ヒトとしての幼児性から脱皮し、人間の知恵と尊厳と内的規範と生きる意味を獲得・確立しつつ、動物としての特性をも統合的に持つ」という、ある種の「理想の人間」に到達していく物語としても見ることができる。

秀逸な脚本の面白さは、何周しても各キャラクターごとの発見や新たな見方がでてくる点であり、これはまさに脚本の「一貫性」と「多面性・多層性」の故である。そういう意味で、鎌倉殿の13人とけものフレンズ(2017)は脚本が秀逸だといえる。それに加えて、キャストも演出も優れているのでいずれも多くの人に支持されるのだと思われる。

こういう脚本のコントロールはとても難しいのだと思われる。それに加えて、脚本が演技や演出などで表現されていないと意味がないわけで、両立されている作品は名作と呼ばれるに値する。

結論

どっちもすき

*注1
かばんちゃんは生まれたばかりという設定であり、他者との関係性が構築できていないため、まずは「他者と関わる」が最初にくるため優しさをいきなり発揮することはない。冷たいのではなく、関係がない相手に対していきなり「どう関わればいいのか模索」がある。かばんちゃんの場合、「手助けする、ボランティアする」という関わり方が最もやりやすく、しかも相手との関係を良い方に持っていけるため比較的多用している。

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