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すずめの戸締り考察 ~新海誠監督の神道観~

新海誠監督の「すずめの戸締り」は、日本書紀、古事記、日本神道に由来するモチーフに彩られています。
作中の名称だけでも、
・閉じ師である草太が扉を閉じるときの呪文のような言葉が祝詞
・岩戸鈴芽→天岩戸 + 天宇受売(あめのうずめ、岩戸を開くときに尽力した芸能、縁結びの神)
・宗像草太→宗像三神(航海、交通の安全)+草太(草薙の大刀)
のように日本神話のモチーフが散りばめられています。

また、この閉じ師の祝詞や彼の仕事内容から、日本神道を下地にした新海誠監督自身の神観とも言うべきものが垣間見られますので、勝手に深堀してその頭の中身を想像してみよう、というのが本記事の目的です。

扉閉じは地鎮祭の反対の仕事

では祝詞を見てみましょう。

かけまくしもかしこき日不見(ひみず)の神よ。
遠つ(とおつ)御祖(みおや)の産土(うぶすな)よ。
久しく拝領つかまつったこの山河(やまかわ)、
かしこみかしこみ、謹んで・・・・・
お返し申す!
https://twitter.com/suzume_tojimari/status/1590706593280278532

直訳すると、
声に出してお呼びするのも畏れ多き日不見の神よ。
 先祖代々よりの土地を守る神々よ。
 長きにわたりお借りしておりましたこの山河、土地を
 恐れながら謹んで
 お返し申し上げます

となります。

ここからわかるのは、
・日不見の神と土地土着の神がいる
・土地は神々からの借り物
・なんらかの要因、条件で土地は返却するもの
ということです。

さて、察しのいい人は映画を観ながら連想していたかもしれませんが、この様子は明らかに建物や施設を建てる際の「地鎮祭」を意識したものです。

開く

我々人間側の感覚としては、土地建物を建てる、農地などとして利用する、町村として使う、つまり土地を人間用に開拓したときには開所式開村式開町式など式典を行います。これは全て「開く(拓く)」行為です。一方で、これは土地にいた神々を押し退ける、控えめに言っても「場所を空けてもらう」わけで、その慰め、お願いのために、地の神を鎮める祭りとして地鎮祭が行われるわけです。お願いを聞いてもらった神々には、新たな御住まいとしての神社なり依り代が用意され、代々祀られるのが一般的です。




これは古神道

から続く日本のシンプルな神信仰であり、多くの日本人にとっては、昔話などでなんとなく共有されている緩い共通認識といえます。

感覚的に他に類似するものとして「山開き」「海開き」があり、これは今は一種の季節行事となっています。が、特に山開きは本来は霊山の禁足期の終了を意味する厳格な決まりでした。つまり、本来は神のものであって決して足を踏み入れてはならない霊山に、お参りのために入山する許可が下りる時期なのです。この禁を侵すと、「山の神から人間として認識されずに木として数えられてしまい、実際に木になってしまう(千葉県石原市の石神)」「山ミサキという生首の化け物に出くわす(山口県豊浦郡)」「単純に神隠しにあう(全国各地)」などとされています。

閉じる

さて、厳密に言えば、こういった土地を使わなくなったのであれば「閉じる」儀式が存在します。これは開所ほどには積極的に行われませんが、閉所式閉村式閉町式などの式典は存在します。

石川県小松市のように、ダム建設や住人減少などで廃町、廃町するときには閉町式が行われたと記録にあります。

これは一種の魂抜きの儀式でもあるのですが、先の「地鎮祭」の土地を空けてもらうという意義を考えると、逆の祭りがあって然るべきなのです。つまり、土地を返す儀式です。無理に造語すれば「地放祭」とでもいうのでしょうか。

人間による強引な開拓

もっと命あるもので例えると、十勝平野の「バッタ塚」が挙げられます。

バッタ塚は、北海道に入植した人々が農業を営むにあたって、あまりに強烈な蝗害(こうがい。バッタによる農作物への食害)の減少を願い、また実際に退治した無数のバッタ達を慰霊、鎮魂するものです。飛来するバッタ(主にトノサマバッタ群生相)
https://ja.wikipedia.org/wiki/蝗害#トノサマバッタによる蝗害
がどこからくるのか調査する過程で見つかったのが、今で言うところの十勝平野でした。十勝平野は、人間による開拓によりバッタ生息地が減り、大雨などでバッタの地中卵が打撃を受けたことでほぼ人間の物になりました。

バッタを殺虫しながら鎮魂するのですから一見すると矛盾しているようですが、一概にバッタを悪として切り捨てるのではなく、心痛めながらも生活のために排除した人々の心を、僕は尊重したいと思います。

これこそは、我々が土地を利用したときにもつべき謙虚な心だと思うわけです。つまり、いつの日か十勝平野を放棄することになったなら、土地建物のうち少なくとも自然に還りにくい建材等はある程度破砕して、「バッタ達に土地を返す」のが道理です。

閉じ師は地鎮祭の逆をする

そうしてみると、我々は地鎮祭で所有権は主張するものの、きちんと返すところまで律儀にやっているかというとそちらは不義理であったのではないでしょうか。

新海誠監督は、このあたりの不義理というか不合理を、放棄された廃墟に見ていたのではないでしょうか。これは日本古神道からすれば非常に自然で謙虚な感覚であり、また多くの日本人にとって納得できる感覚でしょう。

そのことが祝詞の文言「かしこみかしこみ、謹んでお返し申す」に現れているのです。つまり、人間の土地としての歴史を「閉じ」て、古来の神々に対しては土地を「開放」するのです。

扉の意味

作中で、人が住んでいる町などでは人の「思い」が「重い」枷のように土地の地下にうごめくミミズを抑えているかのような説明があります。これらがなぜ扉から出てくるのか。ここからは、新海誠監督の頭の中を想像するターンです。

日本神話においては扉の神というのは存在します(家宅六神の一、オオトヒワケ神、天孫降臨に同行したアメノイワトワケノカミ(天石門別神)など)が、作中で言及はされていません。むしろ、扉というものの概念的な意味が重視されています。古来、なにかの境界は、人間の出入り以外に災厄も出入りする危険な場所と認識されていました。村境は「岐(き)」と呼ばれ、道祖神のような守り神を置いて魔よけしました。

同様に家の戸や玄関は外界との境であり、扉や戸はきっちり閉めること、魔よけすることが大事とされてきました。今でも盛り塩や節分の柊鰯、事八日の目籠(めかご)・笊(ざる)・篩(ふるい)は玄関や戸口に設置します。

天孫降臨に同行し、天皇の御所の護衛役となった天石門別神は異界からの侵入者や病気災厄を防ぎ、家内安全を象徴する神です。

すずめにとっての扉

作中で、「扉」は相反するふたつの性質の象徴でした。即ち、
・扉の両側にある「生と死の世界」
・すずめの「母への執着」と「自身への無頓着」
・未来への希望と過去への恐れ
・すずめにとっての「外界」と「内面」
これらはどちらも大切なものですが、自分の意思でコントロールできるべきもので、勝手にあふれ出てしまうようでは困ります。特にすずめの場合、過去に起こった災害への理解度はとても高い反面その記憶に呑まれがち。これはトラウマ、心的外傷後ストレス障害そのものです。すずめにとって災害の記憶は、忘れるべきではない、忘れたいわけでもない、しかし向き合うにはつらすぎる記憶でした。幼いうちは耐えられぬその記憶に蓋をしてきましたが、ついにすずめは向き合うことになります。過去を忘れるのではなく、自身のもつ負の感情、弱い自分も受け入れて、死を過剰に受け入れるわけでもなく、死を極端に恐れるわけでもなく、目の前にある自分の人生に必死に向き合うこと。人間にとってこのバランスは簡単ではありません。

また、すずめにとっての外界と内面をつなぐコントロールとしての「扉」。人は世界とのかかわりで生きていくものですが、一方で世界と自身を同一視してしまうのは危険です。人間は世界の一部ですが、世界そのものではない。真に成熟した人間の「自我の確立」には、世界と自分自身の距離感を保つことが必須です。現実があまりにつらいなら自分と世界との距離をとり、自身の内面が危ないなら世界に向けてSOSを発信するために世界に触れる。そのコントロールができる、成熟した人間としてすずめが大人になる物語ともいえるのではないでしょうか。

おまけ

作中では「常世の国」というものが出てきますが、その描写は日本神道とそれほど違ってはいません。実は、古事記や日本書紀のなかでも若干の混乱が見られるのですが、概ね以下の様な世界観で神話は語られます。

おまけ2



神道における祝詞の解説はここがわかりやすそうです
「かけまくもかしこき日不見の神よ」祝詞の考察。音や掛詞を重視する神道の意味


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