金子みすゞと科学1(大漁)
金子みすゞ(金子みすず)は大正から昭和のごくわずかな期間に流星のごとく現れ、500編あまりの詩を遺して26才で亡くなった天才詩人です。文芸に疎い人でも名前くらいは聞いたことがあると思います。最も有名なのは「私と小鳥と鈴と」でしょうか。
今回、どうしても推したいのは、彼女の科学者としての才能です。彼女に詳しい読者はご存知でしょうが、彼女は科学者ではありませんし、僕の知る限り科学に関わったこともありません。しかしながら、彼女が作詞の際に自然を見つめる眼は、僕が科学の素養として大切に思っている感覚そのものなのです。本当にすごいんです。この眼、視点を持てる人間は多くありません。
このことを如実に示すのがこの詩「大漁」です。大変有名な詩ですが、あらためて引用します。
鰮はイワシ(鰯)の別字体です。
詩の前半は、浜の描写です。活気にあふれた人間の営みです。ところが、次の段落になると一旦祭りという描写で持ち上げておいて、
突然、視点が海の中に、そしてイワシたちの心情にスポットします。
まるでジェットコースターのように祭りと葬式、葬祭を見せ付けてくるわけです。同じ「大漁」という事象を、彼女は全く反対の視点から見つめています。物事には、多面性があります。見つめる者、観測者の立場によってその見え方が全く違うことがあります。天動説と地動説なんてその典型。太陽が上って沈む現象を、天動説と地動説ではまったくことなる世界観で解釈しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8B%95%E8%AA%AC
同じ現象でも見方が違う。科学者にとって、これは極めて厄介な問題です。ひとつのものの見方に満足してしまうと、他の見方ができなくなる人はとても多いのです。有名な科学者でも、というよりも、ある程度実績を積んだ科学者ほど、物の見方が固定されてしまうことは良くあります。
過去には、新しい視点を提示した天才科学者が認められず、集団いじめのような目にあい、自殺してしまうという悲劇も起こっています。
ボルツマンは熱というものに対して「物質(粒子)のランダムな振動」という新たな定義を与えました。今では全くの当たり前ですが、当時は物質が原子でできているという原子論すらまだ立証されていない時代です。彼は当時の科学にパラダイムシフトを起こしかけたのですが、当時のヨーロッパ物理学会は極めて頑迷な人物が多く、生きている間に正当な評価を受けることはありませんでした。
もうひとつ、金子みすゞの視点変化を見てみましょう。題は「ひがんばな」。
これを初めて読んだとき、本当にひっくり返りそうにびっくりしました。彼女は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%8A
彼岸花のあの花を見て、「地底からのびる線香花火」という見方をしたのです。彼女は地底人として、地下から物を見れたのでしょうか?このような見方、どういう経験をしたらできるのか、どういう訓練を受けたらこんな豊かな視点をもてるのか、彼女はいったいひとつのものをどれほど深く観察しているのか・・・
彼女と話をできないのは本当に口惜しい限りです。彼女とお話できたなら、どんなに楽しいことか。
さて、科学の話になると、これら視点変化はまさに「コペルニクス的転回」です。あるいは、ニュートンの万有引力の発見にも似ています。それまでの見方を一新し、「こう見てもいいのでは?」という視点を提供するのです。
科学の才能として、視点をかえることは極めて特異な才能といえます。彼女は科学者にならなくても、彼女と雑談をした科学者がインスピレーションを受けて新たな発見をする、そんな未来もあり得たかもしれません。
今回はこれにて。
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