神の審判 [short story]
A市市内、夜の繁華街。
その少女は、人が最も多く行き交う、一番街の真ん中に建つビルの階段を登っていた。この非常用階段が、ふだん使われていないことは良くわかる。ネオンのほのかな明かりに照らされている、大量に置かれたダンボールには、厚く埃が積もっていた。
少女はすでに、この屋上まで続く階段の最後の扉が、常に開いていることを知っている。一度下見に来ているのだ。
なぜ少女は、夜、多くの人々が行きかう繁華街にあるビルの屋上を目指しているのか?
簡単なことである。自殺するためだ。
しかし少女が、自殺しようとしたことはこれに始まったことではない。過去に二度も自殺未遂を起こしている。しかし二度とも少女は無事で、しかも無傷で、誰もそれには気づかなかったのだ。なぜか?
それは、ここ一週間で少女が経験した、奇妙な出来事に由来しているのだ。
今から一週間前の真夜中、少女は学校の屋上で自殺を図ろうとしていた。もともと内気で勉強も運動もできず、家では親になじられ続け、同級生からはいじめられるので友達も出来ず、先生も味方についてはくれなかった。孤独だった。自分の叫びをどこにもぶつけられず、かといって非行に走る勇気も出ず、いつしか少女には自殺願望が芽生えた。一度やり直そう。どこかで自分は間違えたのだ。出会う友達が偶然悪かったのかもしれない。出会った先生が偶然合わなかったのかもしれない。いや、自分を生んだ、親の組み合わせが悪かったのかもしれない。
そうして屋上のフェンスを乗り越え(身長は高かったのだ。)、視線をさえぎるものが無くなった夜の空を眺めた。真下の校庭は小さな蛍光灯の明かりでぼんやりと光り、少し頭を上げれば、遠くに眠らない繁華街の明かりが輝くのが見える。少女は小さく深呼吸し、少し微笑んだ後、夜の闇の空気へ一歩踏み出した……。
そこで、思いがけないことが起こった。少女も一瞬、何が起こったのか、わからなかった。眼に地面が大きく写った途端、ぐるりと視線が回転して、星空が飛び込んできた。そうか、これが死ぬことなのか。いや、違う!
少女は、空を飛んでいた。
地面に衝突すると思った瞬間、急に体が、何かの力に引っ張られるように持ち上がったのだ。今度は地面がみるみる離れてゆく。自分が立っていた屋上の高さも越え、自分が暮らしていた町が一気に俯瞰できる高さまで上昇していった。
きれいだった。あちらこちらぼうっと光る住宅地、遠くに見える繁華街の明かり、そして満天の星空。少女は体で風を感じながら、夜の街の空を飛んでいった。
手を広げ、鳥のような格好になった少女は、ピーター・パンになったように空を舞う。風を切り、家々の上を飛んでいく。身震いしながら、少女は美しい光のキャンバスをただ眺めていた。
風が少女を空から降ろしたのは、少女の家の庭だった。ふわりと着地した少女は、しばらくあっけにとられていたが、やがてとぼとぼと家の中へ入っていった。両親は少女の帰りを待ちもせずに、既に眠っていた。
次に自殺を図ったのが、三日後。今度は自宅からかなり離れた、付近には人も住んでいない廃ビルの屋上。この場所は普段人の出入りもろくにないので、たぶん死体になって転がっていても、しばらく誰にも気づかれないだろう。ここを選んだ理由はもうひとつあって、このビルは他のビルに囲まれていて死角であり、風があまり入ってこない。この間の出来事は夢であると片付けてはいたが、まだ少し不安ではあったのだ。
廃ビルのコンクリートの屋上の上で、星が美しく瞬く。少女は覚悟を決め、何もない空間へ足を落とした・・・
そのとき、目の前のビルとビルの間から、突然、突風が吹いてきた。少女は空中でのバランスを崩して、体が大の字になったとたん、また視線が回転した。
少女は一気に気流に乗って上昇し、ビルとビルの間を抜け出して、空高いところまで勢いよく運ばれた。再び、少女は空を飛んでいたのだ。
風がやさしく頬をなで、上空でくるくるっと風に遊ばれた後、やさしく運んでいくように、少女は空を進み始めた。自宅のある方向へ……。
彼女は翌日、考えた。やはり夢ではない。自分が自殺しようとすると、必ず空を飛んでしまう。けれど今のところ、誰にも見られた気配はない。ならば、たくさん人がいるところで自殺を図ったらどうなるのだろうか? もし空を飛ばずに地面に落ちれば、自分の願い通り死ぬことができる。そしてもし、またしても空を飛べば、自分は多くの人に見られ、話題になる。さまざまなうわさが流れ、学校の友達も先生も親も、自分に注目してくれるに違いない。どっちに転んでも、自分は今の無残な生活から脱するのだ。
少女には、最初の頃には無かった違う感情が生まれていた。
そして四日後、つまり今。少女は繁華街のビルの屋上にいる。少し高めの柵だったが、彼女は乗り越え、狭いスペースの上に立った。下ではたくさんの人々が行き交っている。そのうち一人がふと上を見上げると、少女を指差して悲鳴を上げ、一人、また一人と自分に注目し始めた。
空を見上げた。ネオンの輝きで星は見えない。
たくさんの人が大声を上げる。今、自分は人生最大のヒロインになったような気がした。少女はふっと笑い、目の前へ体を倒した。もう無残な生活には、どちらにしろオサラバ。もう孤独にはならない。不思議な確信があった。だって今、こんなに……。
少女は飛ばなかった。しかし地面に激突もしなかった。
少女の体はモザイク上のコンクリートを突き抜け、それでもまだ落ちていく。少女は暗闇に悲鳴を上げ、必死にもがくが、もう上昇しそうな雰囲気も無い。
少女は風を切るように、暗い地面の中を、どこまでも、どこまでも、落ちていった。
(2005)
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