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〈オンライン飲みを楽しめない〉のは、どうしてか?

こんにちは、ゆーのです。


軽く自己紹介↓

対話と場づくりの人。散策者所属。東京大学物理工学科。ワークショップ企画運営の軸に《場のゆらぎ》を据えています。関心キーワードは現象学、組織文化。最近はもっぱら、オンラインにおける対話の可能性と限界について考えています。Twitterはこちら


これは、さまざまな学問から知見を借用しつつ「オンラインにおける対話の可能性と限界」について考察をし、毎月6日にnoteを公開するという企画です。そしてこの文章は、記念すべきその第一弾として書かれたものです。



今回は、初回なので比較的卑近な事例を取り上げています。

今回の出発点は、私自身の〈オンライン飲みを楽しめなかった〉という個人的な経験です。以下では、その感覚の構造をひもときつつ、さまざまなところで起きている「対面→オンライン」の変化が私たちにどう経験されているのか、という点について現象学的立場から1つの観点を与えます。

途中、議論のなかでメルロ=ポンティの現象学を引用しており、難しい概念がいくつか出てきます。「読み飛ばしてもらっても大丈夫です!」と言えるほどスッキリと書けてないので、頑張って読んでください。すいません。



1. この文章の動機と射程

緊急事態宣言が出てから、1ヶ月が過ぎました。自粛生活がまだまだ続きそうななか、私たちの身の回りではさまざまなモノ・コトが急速にオンライン化されています。

飲み会も、まさにオンライン化されているコトの一つでしょう。

いわゆる“オンライン飲み”には、移動がないことや飲み過ぎないことなどの利点があり、それはTwitterでもよく見かける意見です。

しかし、その一方で「オンライン飲みと対面飲みは、どこか違うなぁ」と感じられることも事実です。そしてその「どこか違うなぁ」という感覚がどこからくるのか、という点についてはいまだ分析がなされていません。

この文章では、私自身が3月下旬に初めてオンライン飲みに参加した際に〈オンライン飲みを楽しめなかった〉と感じられたことを出発点とし、そう感じられることの構造を現象学の立場から探っていくことを目的とします。

まずは、私自身が〈オンライン飲みを楽しめなかった〉と感じた当時のツイートを分析することから始めようと思います。

これらのツイートは、オンライン飲み会を終えてすぐ「もやもや」が消化しきれず書いたものです。

最初のツイートでは〈オンライン飲みを楽しめなかった〉という感覚の原因について、それを自身の「コミュ障さ」に求めていますが、最後のツイートでは「身体表現や、“無意識な身体的つながり”みたいなのが、オフラインのようにうまくいかない」としており、主張が一貫していません。ここから、当時の私が〈オンライン飲みを楽しめなかった〉という感覚はもっていることは確かでも、それをどう理解していいのかという点については曖昧であることが伺えます。

まさに、「もやもやしちゃった」という状態のままであり、それを名付けられていない状態です。


ツイートでは、対面飲みとオンライン飲みの違いについて「身体表現や、“無意識な身体的つながり”みたいなの」という観点が挙げられていますが、今回は、この点に踏み込みたいとはやる気持ちを抑えつつ〈オンライン飲みを楽しめなかった〉という感覚を基づけている構造を明らかにすることまでを目的とします。



2. 対面飲みにおける自身のふるまいの振り返り

まずは、分析の手がかりをえるため、対面飲みにおいて私自身がどのようにふるまっているか、という点について振り返ってみます。


私はよく渋谷・新宿に飲みに行きます。お店に入るとたいてい座席はかなり狭く、しばしばギュウギュウに押し込められながら座ることになります。友達、机、お皿など、さまざまなものとの距離が近く、友達とは肩が触れ合うほど密接し、まさに手の届く距離で対面します。

席についてすぐ、2、3人で1つのメニュー表を囲んで、ドリンクを決めます。誰かが「みんな決まった?」と確認したら、「すみませーん!」と店員さんを呼び、つまみ・ドリンクをそれぞれ口々に注文します。

たいてい飲み会では盛り上がり、お互いに負けじと声を張るため、どんどんとみんなの声が大きくなっていきます。誰かの恋バナが話題に上がったりすると、その傾向はより一層顕著になるように感じます。

私は話す内容が決まっていない場が苦手なので、積極的に話の輪には入りません。ただ、話の輪に入らないからといってつまらないと思っているわけではなく、会話の内容に笑ったり驚いたりと、私も私なりに、みんなと一緒に話に耳を傾け、楽しんでいます。

たまに話を聞くのに飽きると、自分の周囲数人を見回して、同じように少し飽きていそうな人を見つけて話しかけます。私自身が面白い話をできるわけではないけれど、そういう1対1の話も楽しく、そういうときは少なくとも相手に「つまらないのかな」と思わせないよう、声を大きめにしたり相槌の頻度を増やしたりと、ノリの良さを心がけています。


改めて書き連ねると、飲み会での私の普段のふるまいも少し滑稽ですね。しかし、少なくともこのような仕方で対面飲みを楽しんでいた、ということは私の感じる事実です。

それに対して、どうして〈オンライン飲みは楽しめない〉のでしょうか?


ここでは、未だこの振り返りを分析せず、「身体図式」の導入を待つことにします。



3. 「身体図式」の導入

打って変わって、この章では「身体図式」という概念を導入するために、大雑把ではありますが現象学の立場を紹介していきます。今回取り上げる重要な概念は以下の3つです。

(1) 意識の志向性
(2) 運動志向性
(3) 身体図式


(1) 意識の志向性

突然ですが、例えばこのような状況があったとします。

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右の人が「雨」と言い、左の人はそれを聞いて「雨のことだな」と理解しているようです。普段私たちはこのプロセスを当然だと捉えていますが、現象学はその当然さに注目し、ここで右の人の発話(もっと極端に言うと、空気の振動)がどのようにして、左の人にとって意味があるものとして捉えられるのか、という過程を詳細に記述しようします。

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つまり、現象学は「意味現象・意味経験がどのように成り立っているのかについて、意味現象のいわば手前で・・・「意識の志向性」の機能にまで遡って明らかにしようと」(※1)するのです。

ここで『意識の志向性』という言葉が登場しました。この概念を最初に使ったのはフッサールという哲学者ですが、彼の言う『意識の志向性』とは「意識に現れる何か何か “として” 捉える意識の働き」です。ここで「一つ目の「何か」が意識に与えられる「与件」であり、二つ目の「何か」が意識の志向性によって捉えられる「意味」」(※2)だとされています。

新しい言葉がたくさん登場しましたが、これはすでに挿絵に登場している概念で説明することが可能です。

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つまり意識の志向性とは、私たちが聞こえている(知覚している)何かを、意味のある何かとして理解しようと対象に向かう、私たち自身の意識の働き(矢印)のことなのです。


(2) 身体の志向性

先ほどはフッサールという哲学者を紹介しましたが、この「身体の志向性」という概念は、フッサールを引継ぎつつ独自の現象学を発展させたメルロ=ポンティという哲学者がもちだした概念です。

身体の志向性も意識の志向性と同じく、普段生活している私たちに意識されることはありません。それでは、意識の志向性と身体の志向性はなにが違うのでしょうか?ある本に、直観的にわかりやすい例があったので紹介してみます。

たとえば、あなたが、幼いころ通っていた小学校を、大きくなってから久しぶりに訪ねたとしよう。よく友達と遊んだ校庭だ。ところがどうだろう。昔は広かった校庭が今はとても狭く見える。あんなに遠かった校庭の端に、今は少し歩けばすぐに行けそうだ。昔は高くて逆上がりができなかった鉄棒もずいぶん低い。今ならできそうだと思い、思わず鉄棒に手を伸ばす。そう、何もかもが小さいのだ。しかし、昔広かった校庭が何らかの理由で物理的に狭くなり、昔高かった鉄棒が物理的に低くなったのではない。あなたが成長して身体が大きくなったことで、同じ校庭が、同じ鉄棒が、異なる意味を帯びて現われ経験されたのである。(※3)

ここで注目すべきは「校庭が今はとても狭く見える」や「何もかもが小さい」という感覚が、どのように感じられたのか、という点です。

ここで意識の志向性と身体の志向性の違いが見えてきます。

もし「校庭が今はとても狭く見える」や「何もかもが小さい」などの感覚を、私たちが「はっきり意識して判断し、言語的に述定すれば、そこで働いているのは意識の志向性」(※4)だということになりますが、はたして、普段私たちはこのような狭さや小ささをそのような仕方で理解しているのでしょうか?

それはどうも無理があるように感じられます。ここで登場するのが、身体の志向性です。つまり、「そもそも校庭や鉄棒がそのような意味を帯びて現われ経験されたのは、成長して大きくなった・・・身体の作動志向性による」(※5)ものなのです。

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この絵のように、大きな岩を見たときに「デカっ」と感じられることも同じです。このとき、岩を見ている人にとってこれは、意識的に「これはデカい」と判断される前に、身体を基点として「デカい」という意味を帯びて経験されるのです。

したがってメルロ=ポンティによると、身体の志向性は「前意識的・先言語的につねにすでに働いていて、この志向性によって身の回りの世界がそのつど自らの身体を基点として、全体として意味を帯びて現われてく」(※6)るのだといいます。

これは今回の文章の大きな前提となりますので、もう一度確認しておきましょう。

身体の志向性は、意識の志向性の手前にあります。そして、私たちが対象(世界)を「大きな岩だ」「小さな校庭だ」などと理解するとき、そのような対象(世界)は、身体の志向性によってこそ、私たちの前に「意味のある何か」として立ち現れるのです。


(3) 身体図式

さて、ここからあと一歩だけ踏み込んでみましょう。

以下のような、ある状況を想定してみます。

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一枚の紙のようなものが落ちていて、それが柱の陰からちょっと見えているようです。このとき、もし私たちがこの人であれば、たとえこれまでその紙を見たことが一度もなくても、きっと「おや、あれは紙かな」と気づき、すぐさまその全体像を浮かべることができるのではないでしょうか?

これはよく考えてみると不思議なことです。どうして私たちは、全体の半分以上も隠れているような紙を見て「紙だ」と知覚することができ、そして、その全貌を思い浮かべることができるのでしょうか?

少し考えてみると、この場合の私たちの理解の仕組みは、先述の身体の志向性とはちょっと違ったものであることがわかります。

身体の志向性は確かに対象の意味を理解しようと無意識的に働く作用のことでしたが、それはあくまで、すでに身体が置かれた状況において働くものです。この場合では、紙を発見した人にとって、これまでその紙を見たことは一度もなく、ましてやその半分以上が柱の陰に隠れて見えていません。

つまりこのとき、身体は未だ紙の全貌を経験していないうえ、しかもこの特定の紙とは初対面だ、ということになるのです。


それでは、それが身体の志向性でないならば、私たちはどういう仕方で現に世界を理解していると言えるのでしょうか?


私たちは普段、「これは机だ」「これは床だ」というように、文節化する(=区切りをつける)ことによって世界を理解することができています。そうでなければ、私たちは机と床の境目さえも区別がつかなくなってしまって、世界はまるでのっぺらぼうのように映ってしまうことでしょう。

ここで問題になるのが、どうやって文節化がおこなわれるのか、という点ですが、その文節化を可能にするのがまさしく「身体図式」なのです。

身体図式とは、「身体がいつでもそれぞれの可能な状況でみずからの習慣や技能を動員できる体制にあり、それによって状況に意味を与えるような可能性を開いていることによって成り立つ」(※7)ような「恒常的な準備体制」(※8)のことです。

もう少し詳しく考えてみましょう。

身体図式には2つの方向性が含まれています。1つは、私たちの身体から世界への向き、もう1つは世界から私たちの身体への向きです。

世界が理解されるためには、まず初めに、私たちの身体が対象(世界)に対して「みずからの習慣や技能を動員できる体制」でなければなりません。

それは、実はまったく難しいことではありません。初めて入ったカフェで、たとえ見慣れないコーヒーカップが出されても、それを持ち上げられることと同じようなことです。私たちは見慣れないコーヒーカップであっても、それが持つことができる、という習慣や技能の観点から私たちは見慣れないそれをコーヒーカップとして理解することができるのです。

そして、それと同時に、対象(世界)も私たちの身体に対して「状況に意味を与えるような可能性を開いてい」なければなりません。

たとえ紙の全貌が見えておらず、その紙を見ることが初めてであっても、それが「つまめそうだ」「ザラザラと触ることができそうだ」などという(紙から身体への)「行為への可能性」が、それが「紙だ」ということを私たちに理解させてくれます。

身体図式という、私たちが世界を理解するための「恒常的な準備体制」は、世界による身体的な可能性への訴えかけと、身体の技能や習慣による世界を行為する可能性の、そのどちらもによって成立しているのです。

つまり、「身体図式が世界を(私にとって)理解可能にし、それゆえまた、世界内の対象や領域に(私が)関係する可能性を構成」(※9)し、「現在の実際の状況にかんする私たちの経験だけでなく、(まだ行為されていないが、行為)可能な状況にかんする経験も構造化する」(※10)のです。


私たちが世界を知覚し理解する枠組みは、可能性を提供する世界に対して身体図式のカップリングが成立してはじめてもたらされる、ということになります。


4. どうして 〈オンライン飲みを楽しめない〉 のか

ようやく現象学のお話が終わりました。

ここからはいよいよ本題である〈オンライン飲みを楽しめない〉という感覚について、手引きしてきた現象学を骨組みに用いながら、対面飲みとの対比において分析していきたいと思います。


2.では対面飲みにおける私の普段のふるまいを書き出してみましたが、その状況を今一度思い出してみましょう。

・手の届く距離で対面する
・2、3人でメニュー表を囲む
・店員さんを呼ぶ
・負けじと声を張る
・みんなと一緒に話に耳を傾ける
・自分の周囲数人を見回す
・1対1で話す
・声を大きめにしたり相槌の頻度を増やしたりと、ノリの良さを心がける

2.では、対面飲みでは以上のような行為が記述されていましたが、現象学での議論を踏まえると、私たちはこのような行為(または行為の可能性)を通して、飲み会という世界や状況を理解していると言えます。そして、そのような行為が可能であるのは、メニュー表があること、全員が同じ空間に居合わせること、お互いの声が聞こえること、お互いの様子が見えること、などの条件によって、対面飲みにおける世界がそのような行為に開かれているためです。

また、私たちは居酒屋や飲み相手を変えても、変わらず飲み会を楽しむことができますが、それは先ほど紹介した「身体図式」が「恒常的な準備体制」を整えてくれているからです。

つまり私たちはみな、以上に列挙したような行為に基づけられた枠組み(身体図式)をもっており、それによってこそ、対面飲みにおける対象(世界)を文節化し、「飲み会の場にいる」という自分自身を位置づけ(=実感を感じ)、そして飲み会の場全体をも理解することができていたのです。

一方、オンライン飲みでは、「習慣的な可能性と実際の可能性のあいだに、一種の齟齬がある」(※11)状態だと言えるのではないでしょうか?

私たちの身体が、依然として対面飲み特有の行為の可能性に習慣的に開かれたままであることに対して、オンライン環境はそれを拒絶します。つまり、オンライン飲みにおいては、スクリーン・マウス・キーボード・イヤホンが、私たちの身体に、見る・クリック・タイプ・聞くなどの行為を訴えかけてくるのに対して、私たちの身体が未だ保持している対面飲み特有の行為に基づけられた枠組み(身体図式)のカップリングが失敗しているのです。

その結果として、対象(世界)が文節化されず、「自分は今、果たして何をしているのだろうか」と自分自身の位置づけに失敗し、飲み会の場全体をそれとして理解可能できない状態になっているのです。

もちろん、全ての対面飲みが楽しいというわけではありませんが、逆に言えば、そのような楽しくない対面飲みにおいても「習慣的な可能性と実際の可能性のあいだに、一種の齟齬がある」ことが原因である可能性が示唆されます。

対面飲みとオンライン飲みでは私たちに開かれている行為は全く別物です。それなのに「飲み会の場にいる」という理解を可能にするはずの身体図式は依然として対面飲み特有の行為への開かれに基づいており、そこに齟齬が生まれています。この齟齬こそが、〈オンライン飲みを楽しめない〉という感覚を基づけているものです。

したがって、特にオンライン飲みの場にはじめて身を置いた人が「対面飲みとは、なにか違うな」と感じることがあるとするならば、それはこの身体図式の失敗(=「習慣的な可能性と実際の可能性のあいだに、一種の齟齬がある」状態)に基づけられている感覚であると言えるでしょう。

以上の分析からは、逆にオンライン飲みを楽しむためには、経験を積み、オンライン飲みの数をこなしていくことが大切であることがわかります。そうすることによって、オンライン飲みに特有の(スクリーン・マウス・キーボード・イヤホンを介した)行為の可能性に適応し、「オンライン飲みの場に関わる」という身体図式を獲得することができるようになるからです。

メルロ=ポンティは、幻肢(怪我などで手足がなくなってしまったにもかかわらず、まだ自分の手足があるかのように感じる現象のこと)の事例を用いて自身の分析を進めていますが、そこにはこんな記述もあります。

歩いたりつかんだりするための新たな習慣を獲得すると、古い可能性からの誘引が小さくなり、幻肢経験はおさまる。(※12)

〈オンライン飲みが楽しめない〉私たちは、まさに幻肢を経験していることと同じなのです。


5. 結論と限界

今回の文章では、ここまで〈オンライン飲みを楽しめない〉という感覚の構造を探ってきました。

結果としてその感覚は、飲み会の場がオフラインからオンラインへ移行したことで、世界から提示される「行為の可能性」が大きく変化したために、これまでの身体図式が失敗していることによって生まれるものであると考えられることがわかりました。

これは、(当たり前かもしれませんが)オンライン飲みでは対面飲みと同じような楽しみ方が通用しない、ということだとも言えます。特にオンライン飲みにおいて「飲み会をしたという実感がない」や「飲み会っぽくない」と感じた人がいれば、その感覚はこの身体図式の失敗に基づけられているということです。

また、オンライン飲みを楽しむためには、オンライン飲み特有の行為の可能性に適応し、オンライン飲みならではの身体図式を獲得することが大切だということも、幻肢の事例にかんするメルロ=ポンティの分析から考えることができました。

一方で、この文章で含むことのできなかった議論もあります。

まずは、2.で挙げた、対面飲みにおける行為や行為の可能性についてはあくまで筆者個人の経験から(ほとんど強引に)仮定しただけのものであること。そして、オンライン環境においては具体的にどのような行為が開かれているのかという点について考察が及んでいないこと。以上二点を、この文章における限界としてここに明示しておきます。

今後も、以上二点を含め、「オンラインにおける対話の可能性と限界」というテーマのもとで、ヒアリング等を行いながら引き続き分析を進めていく予定です。


次の記事は、6月6日に公開予定です。また、1ヶ月後にごゆるりと読んでいただければと思います。

ここまでお読みいただきありがとうございました。



引用、参考文献等

引用箇所

※1榊原哲也『医療ケアを問いなおすーー患者をトータルにみることの現象学【シリーズ】ケアを考える』(kindle版)、ちくま新書、2018、No.339
※2榊原、前掲書、No.349
※3榊原、前掲書、No.859 - No.878
※4榊原、前掲書、No.878
※5榊原、前掲書、No.878
※6榊原、前掲書、No.878
※7ステファン・コイファー、アントニー・チェメロ『現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために』(田中・宮原訳)、勁草書房、2018、p.123
※8コイファー、チェメロ、前掲書、 p.121
※9コイファー、チェメロ、前掲書、 p.121
※10コイファー、チェメロ、前掲書、 p.126
※11コイファー、チェメロ、前掲書、 p.120
※12コイファー、チェメロ、前掲書、 p.120

参考文献

榊原哲也『医療ケアを問いなおすーー患者をトータルにみることの現象学【シリーズ】ケアを考える』(kindle版)、ちくま新書、2018

榊原哲也、『哲学概論Ⅰ』講義内容(筆者書き取り)、2019

ステファン・コイファー、アントニー・チェメロ『現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために』(田中・宮原訳)、勁草書房、2018


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