見出し画像

戦後75年というけれど・・10

今年93歳になる戦争体験者の久保沢さんへのインタビュー最終回である。このインタビューを通じて、戦争体験者は、苦難を苦難とも思わない精神的な強さを自然に身につけることになったのだと強く感じた。

【武装解除の日から日本への帰還まで】

昭和20年10月25日、アメリカ軍の主導で日本軍は武装解除されることになりました。アメリカ軍は蔣介石に肩入れしていた関係から私たちの野砲武器をそっくり蔣介石軍に移譲したいもくろみがあったのでしょう。南苑の飛行場(現北京空港)から北京市内に通じる舗装道路の片側にわが連隊の装備、火砲、牽引車、装輪自動車などが約4キロ以上の長さに徒列してアメリカ軍に収容されました。

私たちは正真正銘の敗残兵となり、丸腰で身軽になり、徒歩で長辛店に帰ったのです。それでも兵舎には蔣介石の温情により、1分隊あたり6丁の小銃と1丁あたり30発の小銃弾の携帯が許可されていたので、12月半ばまで西郊地区テント村の警備を住民の略奪防止のために存続しました。

12月半ば過ぎ、北京から天津の塘沽(たんくー)港に移動することになり、そこで引き揚げ帰還船の手配を待って20日間くらい過ごしました。


朝起きて、日本人が集団で体操などをしていると、米軍の兵士が慌てて制止に飛び込んできました。彼らは沖縄戦経験者であり、日本兵の万歳突撃の怖さを連想したからなのだろうと私たちは噂したものです。

また、帰国までの間、私たち北支派遣軍が実行しなければならないことがありました。それは、北支派遣軍が所持していた化学砲弾の滅失作業でした。米軍に見つかることなく、3日3晩昼夜、大急ぎで港から5時間離れた海に投棄しました。

化学砲弾とは大げさですが、現在暴徒鎮圧に使用されている催涙弾やクシャミ弾の類です。なにや、かにやで、ようやくアメリカ海軍の第七艦隊で帰還することとなり塘沽港を出港。3昼夜で佐世保港に到着し帰国できたのでした。

運のいいことに、武装解除後第一陣の帰国でした。これで私の本当の意味での終戦は終わりを告げました。

10代のこの戦争体験は、後々私の人生に良くも悪くも大きな影響を与えました。特に、大陸にひとり残され任務遂行した体験は、どんな苦難も乗り越えることのできる確信を持てた体験でした。

「神は自分(己)を知るものを助く」

何らかの書物で読んだことわざか格言のたぐいだと記憶しています。それが私の人生の座右の銘でもあるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?