見出し画像

「一日一度の水やりと」 鴉丸 譲之介


 不本意な転勤だった。本社勤務で出世街道まっしぐらだったはずの男は、仕事でミスをしたこともないのに、どういうわけか片田舎の埃っぽい支社に移ることになったのだ。転勤の理由については知らされていない。送別会などもなく、淡々とことは進んだ。 
 縁もゆかりも無い僻地での新生活。荷解きも済んでいない殺風景な部屋で男を慰めるのは、鉢に植えられた観葉植物だけだ。
『一日一度の水やりと、話しかけるのを忘れないであげてね』——誰にでも優しい同期の女性から餞に贈られた鉢植えには、可愛らしい文字でそう書かれたメモが添えられていた。男は植物の世話などしたことがなく、そもそも興味も無かったので迷惑だと思ったが、転勤に際しただひとり声を掛けてくれた女性の厚意を無碍にも出来ず、受け取ったのだった。真白いセラミックの鉢に植えられた、名前も識らない蔓性の植物は、華やかさこそないが明るい緑が目に優しく、ハート型の葉がなかなか可愛らしい。男はなんだかんだで鉢植えを気に入り、窓際に置いて愛で、一日一度、寝る前の水やりのたびに「可愛いね」や「おやすみ」と声を掛けてやった。返事も無いのに声を掛けるなど馬鹿らしいと思ったが、植物に話しかけるとよく育つなんていうのは古くから言われることだし、実際に植物が音に反応を示すことは科学的に証明されている。なにより、男が苦笑しながら話しかけると、心なしか植物が活き活きとしているような気がするのだ。だから男は声を掛け続けることにした。

 男は新しい勤務地に馴染めなかった。同僚たちは皆一様に無気力で要領が悪く、脂ぎった顔の中年上司は絵に描いたようなパワハラ気質で、手よりも口を動かすことの方が多い典型的な無能上司。任される仕事も煩雑なくだらないものばかりで、サービス残業は当たり前。本社勤務の頃とは大違いだ。夜遅く、仕事を終えてアパートに帰る頃には、男の気力体力とも尽きていた。それでも一日一度の水やりを、声を掛けるのを、男は忘れない。じょうろで鉢に水を注げば、乾き切った心も幾らか潤いを取り戻す気がするのだ。
「本当に可愛いなぁ。君は」 
 愛でれば、植物の葉はより瑞々しく、どこか嬉しそうに茂る気がした。

 男は人との繋がりを保てなかった。学生時代の友人たちとは卒業を機に疎遠になり、本社の同期たちからは転勤して以来まったく連絡が無い。同僚たちは例外なく無愛想で、上司に至っては『お前はそんなんだから友達出来ねえんだよ』と、口を開くたびに男をなじる始末だ。ならばと思って外に出逢いを求めても、男が関心を持てるような相手、時間を割く価値のある者は現れない。友人も、恋人も居ない。毎晩孤独に苛まれて、男は鉢植えの待つ部屋に帰るのだった。一日一度の水やりを、声を掛けるのを、男は忘れない。水とともに涙を零せば、寂しさも幾らか紛れる気がするのだ。
「くだらない他人なんかより、君の相手してる方が気楽だ」 
 呟けば、植物は蔓を垂れて、どこか憐れむように揺れる気がした。

 男は陰口を聞いてしまった。『あいつの性格じゃ、ここに左遷されても不思議じゃないな』——誰からともなく、そんな言葉が出ていた。誰かと揉めた覚えは無い。同僚たちとは仕事以外の会話をしていないはずだ。何故そんな悪評が立つのか見当もつかない。上司に相談してみても『そうやって自覚が無えから、みんなに嫌われるんじゃねえか?』と嘲笑われる始末だ。相談出来るような相手は居ない。嗤われるくらいなら黙っているべきだと、毎晩歯を食いしばって、男は鉢植えの待つ部屋に帰るのだった。一日一度の水やりを、声を掛けるのを、男は忘れない。水とともに愚痴を垂れれば、鬱憤も幾らか晴れる気がするのだ。
「俺は悪くないよな。あいつらが無能なのがいけないんだよな」
 がなれば、植物は葉をしおらせて、困ったように項垂れた。

 男は居場所を失くしていった。『左遷』という言葉の響きが、男の心に刺さって膿んでいた。皆が皆、自分を疎んでいるような気がする。誰も信用出来ない。『あいつ、早く辞めてくれないかな』——職場のあちこちから、そんな囁きが漏れ聞こえた。もう嫌だと、逃げるようにして、男は鉢植えの待つ部屋に帰るのだった。一日一度の水やりを、声を掛けるのを、男は忘れない。水とともに心を注げば、鉢植えはそれを受け止め、呼応する。いつからか、植物があるじの感情を吸収し、それに合わせて表情を変えていることに、男は薄々気付きはじめていた。
「あいつらみんなクソだ。君だけだよ。俺のことを分かってくれるのは」 
 抱き締めれば、植物は蔓を伸ばしてそれに応えた。

 男は仕事を辞めた。疎まれ続けることに耐えきれず、職場で怒りを爆発させた。同僚たちからの嘲笑と軽蔑を一身に浴び、感情に任せて退職届を上司に叩きつけた。『やっとか』と、上司はそれを満面の笑みで受け取った。脂ぎった顔が嘲るように歪むのが、男の脳裏に焼き付いて離れない。怒りに全身を震わせながら、男は鉢植えの待つ部屋に帰るのだった。
「どいつもこいつも俺を舐めやがって。あいつらはな、本当なら俺に文句つけられないような無能なんだ……なぁ、君もそう思うだろ」
 水やりも、時間が過ぎゆくのも忘れて、男は滔々とうとうと吐き続けた。
「なんで俺が悪者になるんだよ。クソどもが。みんな俺に嫉妬して足引っ張りやがるんだ!」 
 男が毒づくのを、物言わぬ鉢植えは静かに聞き、黒々とした感情の一切を吸収していた。可愛らしいハート形の葉は歪み、蔦は血潮駆け巡る血管のようなグロテスクな模様を微かに浮かばせる。葉の明るい緑色はくすんで暗くなり、植物は全体的に刺々しく、どこか邪な雰囲気を醸しはじめていた。
「あのクソ上司なんて、俺なんかよりよっぽどタチが悪いじゃねえか! なぁ? きっとあいつ、みんなに俺の悪い噂を流してたんだろうな。クズだからさ」
 男は植物の変化に気付かず、否、気付いていても構わずに、呪詛を吐き続ける。
「そもそもさ、俺が左遷されるってあり得ないだろ? 俺、うちの会社で一番優秀だぞ……あぁ、多分俺が邪魔で追い出したんだな。クズどもめ」
 澱んだ感情が、水の代わりに鉢を潤す。醜い変異を続ける植物は止めどなく注がれるそれを受け入れ、色めきたった。
「あーあ、あいつらみんな消えればいいのにな!」
 男の心を、暗い感情が満たす。口を閉じ、同僚や上司の顔を思い浮かべながら、男は拳を振り下ろし、彼らの首に手を回すような暴力的妄想に耽る。血生臭い妄想にのめり込むあまり、男は気付かなかった。鉢に満ち満ち、細胞の隅々まで行き渡った悪意が、物言う術を持たない植物に悪辣とした意志を持たせようとしていたことを。

 男は異臭に気付いた近隣住人の通報を受けた警官によって発見された。遺体の首の周囲に絞められたような痕が見つかったが、ロープや紐の類いは残っておらず、男が自ら命を絶ったとは到底考えられない。かといって部屋が荒らされた様子は無く、誰かと争った形跡も見られない。実に不可解だった。捜査の結果、男と職場の同僚たちや上司との間に人間関係のトラブルがあったことが明らかになったが、最終的にそれらは男の死と無関係だと結論づけられた。(事情聴取では、全員が男が性格に難ありだったと証言している) 
 男の死は事件性のない孤独死ということで処理された。男の遺品は自治体が処分するらしかったが、幸いにも数が少ないので大した手間にはならないらしい。男が遺したのは幾つかの家具と衣服、そして掘り返されたような土の入った真白いセラミックの鉢だけだった。

〈了〉


**********

『一日一度の水やりと』鴉丸 譲之介 植物のある風景(3092字)
〈鴉丸 譲之介さんの他の作品を読みたい方はこちら〉Amazon Kindle
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B09PBFL1WB/ref=dbs_a_def_awm_bibl_vppi_i0


よろしければサポートお願いいたします。サポートはコンテストに関わるクリエイターのために使わせていただきます。よろしくお願いいたします。