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「洪おばさんと肉まんの夢」 須藤古都離

 こちらにゆっくりと近づいてくるホンおばさんの両目が生き生きと輝いているのを見て、私は不思議な違和感を覚えずにいられなかった。こんなに嬉しそうな洪おばさんを見るのは彼女に孫が産まれた時以来だったし、なによりもここに来てからというもの、誰の笑顔も見た記憶がないのだ。もちろん望んでここに来た人などいないのだし、皆が同じ不安を抱え、緊張した日々を過ごしているのだから、洪おばさんの笑みは恐ろしく場違いなものだった。隣の78番ブースで暮らす洪おばさん自身も、昨日まではこの施設での生活に文句ばかり言っていたのだ。うっすらと赤く染まったおばさんの頬から察するに、なにかとても良いことがあったに違いない。
 洪おばさんはいつもと同じ黄土色の袖がほつれたセーターに、黒のストレッチパンツという出で立ちで、なんら変わった様子はなかった。洪おばさんだけでなく、私も含めてここにいる多くの人は着替えの服などたいして持ちあわせていないのだから、当然といえば当然なのだ。顔を合わせる人たちが一緒、その人たちが着ているものも変わらない、状況も変わらない、私たちがいつまでここにいなきゃいけないのかも正直なところわからない。不安と変化のなさのせいで、ここでは時間が過ぎるのが気が狂いそうになるほど遅い。まるで糊の中で泳いでいるような気分になる。
「ねえ、聞いてよ。私、どんな夢を見たと思う?」
 洪おばさんは挨拶を済ませるなり、大きな声で話しかけてきた。洪おばさんは西の農村出身で、私たちが話す声とは比べ物にならないくらい大きい。七年前に彼女が団地に引っ越してきたときには、あまりの声の大きさに驚いたほどだった。もしかして耳が悪いのかとも思ったが、本人曰く、山間部で畑仕事をする人たちは声を張り上げる癖がついてしまうらしい。
「二人目の孫でも産まれた夢を見たのかい? 随分と嬉しそうじゃないかい」
 どんな良いことがあったのかと思いきや、ただ良い夢を見ただけなのか。私は洪おばさんの能天気さを羨ましく思った。
「いやね、私は肉まんの夢を見たのよ。大きくて温かい肉まん。雲みたいに柔らかい皮を齧ると、大きな肉の団子から汁が溢れてくるの。それに牛乳。牧場で飲む新鮮な牛乳の、甘くてしっとりとした味わい。夢だとは思えないくらいに、現実味があったのよ」
 洪おばさんの言葉を聞きながら、私は思わず笑ってしまった。どんなに良い夢かと思ったら、肉まんと牛乳の夢だとは。最初は馬鹿馬鹿しいと思っていた私だったが、洪おばさんの言葉を聞いていると、思わず唾を飲み込む自分がいた。肉まんなんて、最後に食べたのはいつだろう。
 洪おばさんが「肉まん、肉まん」と朝から大声を出すものだから、いつの間にか私たちの周りに人だかりができてしまった。肉まんがあるとでも思ったのだろうか。代り映えのない私たちの生活の中で、食事は一番の楽しみであることは間違いないが、それでも毎日の配給は味も量も満足のいくものではなかった。誰もが美味しい肉まんを求めているのだ。
 自然と集まってきてしまった人たちが事の顛末を知ると、というか洪おばさんが肉まんと牛乳の夢を見ただけだと分かると、皆一様に洪おばさんを笑った。肉まんと牛乳を食べる夢をみただけで幸せそうなおばさんをからかう者もいれば、配給で肉まんが出されることなんてありえないと断言する者もいた。だが誰も口に出さないだけで、たとえ夢の中だとしても肉まんを食べられた洪おばさんを羨ましく思っていたことだろう。結局のところ、私たちに許されていることなど、夢を見ることくらいのものなのだ。
 事態が思わぬ展開を見せたのは、朝食の時間だった。毎日毎日、朝は白米と搾菜だけだったのにも関わらず、この日に限って洪おばさんが夢に見た通りに肉まんと牛乳が配給されたのだ。配給係が肉まんと牛乳の入った袋をこちらに手渡した時、私は思わず「洪おばさん!」と大声で呼びかけて、一緒に笑ってしまった。
 洪おばさんの夢の話は瞬く間に施設中に広まった。久々に肉まんが食べられただけでも嬉しいことなのに、それを夢で予知した人がいたというのは、退屈しきっていた私たちにとって刺激的な話題だった。興奮した人々は洪おばさんに予知能力があることを当然のように語り、彼女は産まれながらにして仙人の能力を備えた仙骨の持ち主なのだと言う者もあれば、長年山に籠って修行した女道士なのだと嘯く者もいた。人々は肉まんを頬張りながら、口々に洪おばさんを褒め称えた。
 朝食の時間が過ぎても騒ぎは収まらず、78番ブースで暮らす女道士の噂を聞きつけた人が施設中から集まってきた。
「洪先生、明日の朝ご飯はなんですか?」
「洪先生、俺は明日は小籠包が食べたいよ」
「洪先生、いつになったらこの生活が終わるの?」
 人々は洪おばさんが知るはずがないことを尋ね、無理な相談をし、不安を彼女にぶつけた。私はそれを隣で聞いていて、すっかり不愉快な気分になってしまった。朝の出来事はただの楽しい偶然であって、それ以上のものではないはずだ。そこに偶然以上の何らかの意味を見出そうとし、洪おばさんに勝手な期待を寄せる人々の多さに、なにか得体のしれない恐ろしさを覚えずにいられなかった。
 とは言え、洪おばさんは生来のお喋り好きだということもあり、一人一人とゆっくり話しをしていた。何を言われても朗らかに笑って、当たり障りのない返事をしているだけだが、人々は洪おばさんと話しているうちに段々と笑顔を取り戻していった。もはや洪おばさんは肉まんの夢を見ただけの田舎出身のおばさんではなかった。人々の敬意を集める存在となっていた。

 翌朝、私はいつもより早く起きてしまった。私は他の皆とは違う、そう自分の中で言い聞かせていても、どうしても洪おばさんがどんな夢を見たのかが気になって仕方なかったのだ。
 しばらくただ寝転がっていると、洪おばさんが起きてきた。今日も笑顔だが、昨日のような満面の笑みではない。嬉しそうではあるが、眉の下がり方は少し困っているように見えなくもない。洪おばさんは私の隣に座ると、彼女らしくない小さな声で呟き始めた。
「昨日も夢を見たの。変な夢だったわぁ。私ね、どこか森の奥にいたの。周りの木々は葉っぱだけじゃなくて枝も幹も、全部緑色なの。空も綺麗に晴れていて、とても良い気分で森の中を散歩していたのよ。そしたら黄色い池があったの。それから、その黄色い池の上に、何か赤い水が浮いているの。ね、変な夢でしょ?」
 洪おばさんは愉快そうに話すので、私は適当に相槌を打ちながら話を聞いた。
 なんだ、今日は肉まんじゃないのか。そんな風に思ってしまった自分が恥ずかしかった。
 二人で雑談をしていると、人々が洪おばさんの夢を聞きに来た。皆、楽しい話題に飢えているのだ。だが、洪おばさんの見た夢が肉まんやその他の料理ではなかったことを聞くと、皆同様にがっくりと肩を落とした。所詮、ただの夢の話で、それ以上の意味などなかったのだ。
 朝食の配給係がゆっくりと通路を歩いてくるのが見えた。感染防止の白い防護服、大きな青いビニール手袋、それにフェイスシールド。いつもと何一つ変わらない光景だが、彼らから朝食を受け取った人たちの顔には、明らかに失望の色があった。朝食が白米と搾菜に戻ったのだ。肉まんが二日連続で出るなんてあるはずないよね、と私は洪おばさんと軽く立ち話をしてから、それぞれのブースに戻って朝食をとることにした。
 しばらくすると、一人の中年男性が怒りで肩を震わせながら大股でどかどかと近づいてくるのに気が付いた。樽のように膨らんだ腹を揺らしながら歩く彼は洪おばさんのブースの前で立ち止まると、おばさんを指さして大声で怒鳴り始めた。
「あんたのせいで、今日は肉まんが食べられないじゃないか! どれだけ肉まんを楽しみにしてたと思ってるんだ! あんたがおかしな夢なんか見るからだ! 皆を騙しやがって……、俺は……、俺は……」
 男は唾を飛ばしながら捲し立てたが、やがて言葉に詰まって両目に涙を浮かべた。床に膝をつくと両手で顔を覆い隠し、おいおいと泣き出してしまった。私は男の激しい感情表現に驚くよりも、男の口から飛散する唾を見て反射的に嫌悪感を覚えてしまった。
 男は肉まんが食べたいと言って泣き出した。だが、ただ肉まんが食べたくて泣いているのではないということは、誰の目にも明らかだった。収容されている誰もが、その男と同じ気持ちだった。誰もが不安で泣きたかった、怒りを爆発させて怒鳴り散らしたいと思っていた。騒ぎを聞きつけた施設のボランティアが男に近寄り、なだめるように優しく話しかけると、そのまま男のブースまで肩を貸して案内した。
「ごめんなさいね。私にはなにもできないの」洪おばさんは、去っていく男の背中に残念そうに言葉を寄せた。
「あの男は洪先生のことを誤解してる」男の後姿を見守る私たちのすぐ後ろから、突然別の男の声がして、私たちは驚いて振り返った。
「洪先生の今度の夢は前のものよりずっと複雑で、もっと遠くのものを見ているんだ」頬の瘦せこけた男は先ほどの太った男を見ながら力強く言った。
「緑の森は豊かな自然、黄色の池は人間が引き起こした環境汚染、その池の上の赤い液体は人間の血が流されることを意味しているんだ。人間が滅んだ後、自然がこの星を支配する日のことを洪先生は夢見たに違いない。そうですよね?」男は洪おばさんに向き直って、懇願するような視線を投げかけた。
「そうなのかしらねぇ。私には分からないわ」洪おばさんは男の言葉を軽く受け流すと、自分のブースの奥に引っ込んで、ごろりと床に寝転んでしまった。

 洪おばさんに裏切られたと怒鳴り散らした男も、無理な解釈をしてまで信じようとする男も、おばさんに勝手な希望を見出したことは一緒だった。私たちはここで、何をするわけでもなく、ただ生かされている。不安を乗り越えようとして、小さな喜びに救いを感じてしまうのは仕方のないことではある。私も一人で床に寝そべりながら天井を見つめていると、洪おばさんの夢のことを考えずにはいられなかった。黄色い池と赤い液体に関してはただのナンセンスなものだが、緑の豊かな森というのはとても魅力的に思えた。もうどれほど外に出ていないだろう。この施設には観葉植物がなく、殺風景で寂しい。外の近くの公園では、春を彩る花が咲き乱れる時期だ。きっと洪おばさんも植物を見たかっただけなのだろう。
 私は部屋が緑の植物でいっぱいになるところを想像した。勢いよく植物が下から生えてきて、太い幹が床を突き破る。地面が裂け、壁が音を立てて砕ける。天井が落ちたら、きっと綺麗な青空が見える。爽やかな春の風は花の薫りを運んでくる。私たちは崩壊した建物から外に出ていくのだ。こんな窮屈な思いをして生きていくなら、豊かな自然のなかでさっさと死んでもいいんじゃないだろうか。
 人類が滅びて植物がこの星を支配するのは、あと何万年後の未来なのだろう? もしかしたら、それは明日なのではないだろうか? いつも白米と搾菜だけの朝食が、なんの前触れもなく突然肉まんと牛乳に変わることもあるのだ。なんの前触れもなく突然、人類が滅びることだってあるかもしれない。
 私はそんなことをいつまでも想像して、日が暮れるころには自己嫌悪に陥った。夢はただの夢。意味なんてない。私たちの生活もただ生きているだけ、なんの意味もないのだ。

 ちなみにその日の夕飯には茹でたブロッコリーと炒り卵が出され、黄色い卵の上には赤いケチャップがかけられていた。

〈了〉

〈追記〉
 こちら、知人が上海の隔離施設で実際に体験した出来事をモチーフにしてます。同じフロアで隔離されている人が肉まんと牛乳の夢を見た次の日に、実際に配給されたそうです。


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『洪おばさんと肉まんの夢』須藤古都離 植物のある風景(4691字)
〈須藤古都離さんの作品を読みたいかたはこちら〉須藤航介 - pixiv



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