「金連花 ~ナスタチウム~」 管野月子
節くれだった皺だらけの指を開いて、同じように皺だらけの小さな粒を二つ三つと差し出した。大きさは小指の爪より一回りか二回りほど小さい。
爺さんは所々歯が抜け落ちた口元をニッと開くと、今まで何度となく繰り返してきた言葉をこぼした。
「金連花……ナスタチウムの種だよ」
「軽石の欠片のようね」
「石のように見えても種だよ。ちゃんと、ここから緑の芽が出てくる」
「いつ?」
そう言って、瞳を細めて問うと、爺さんはくいっと口をへの字に曲げた。
少し言い方が意地悪だっただろうか。爺さんは首からかけた小さな袋に種を戻すと、大切そうにぽんぽんと軽くたたいた。
まるで眠り続ける我が子をあやすかのように。
「土がいるんだよ」
「うん」
「水と太陽の光も……鉢は、そら、そこに用意してある」
愛用のコップを一回り大きくした素焼きの鉢は、あちこちが薄汚れ、水垢や石灰が白い錆のようにこびりつている。それでも罅は入っていないし欠けも無い。鉢底の穴も十分な大きさで「水はけがいいんだ」と繰り返す爺さんは、この古ぼけた鉢に大切な種を植えるつもりでいた。
私は土色に退色した肩までの髪を掻き上げ、呟く。
「水は……あるけれどさ」
「人工太陽もある。ほら、そろそろ巡回時間――朝、だ」
狭く小さな部屋に、ひとつだけ開いた大きな窓に爺さんは顔を向けた。
下上に伸びたこの建造物群の遥か下には大地と海があり、上には空が存在しているらしいが私は見たことが無い。爺さんも、その爺さんが子供の頃に聞いたことがあるという程度のもの。
爺さんはギシリと軋む椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
幾つも立ち並ぶ建築群は、所々、隣の建物と通路を繋ぎながらてきとうに間隔を開けて立ち並んでいる。その全てに人と、人に似た人工物が暮らしているのだろうか。
立ち並ぶ石柱のような建築群が、この世に何棟あるのか誰も知らない。ただ、いっぱい、というだけで世界の景色はどこも大きく変わらない。
その変わらない景色の間を、人工太陽が飛行している。
この部屋は航行ルートを窓側に持つ――爺さんが生涯に得た金をつぎ込んだ、日の当たる、終の棲家だ。
「あぁ……やっぱり、日の光はいいもんだ」
暫定的に、太陽が来る方向を東と定め、去る方向を西と定めた南に向かい、爺さんは呟く。
「若い頃、わしは工場にいたんだ。植物工場さ。何段にも重なった棚で水耕栽培の野菜を育てていた。あの頃は……誰もが、未加工の食糧を口にできる時代だった……」
「ねぇ、水だけで緑が育ったなら、土が無くてもいいんじゃない?」
「光と水があれば芽はでる。けれど栄養が無い。やっぱり土が必要なんだ」
それならば栄養のある水を与えれば……と思いもしたけれど、きっとその水はとても高価なのだと思う。まぁ、土と培養水、どちらがより手に入れにくいかとなれば、似たようなものだ。
人工太陽に顔を向ける爺さんの横顔を眺める。
白髪が、蜘蛛の糸のように光っている。
私が爺さんと出会った頃、まだその髪には濃い焦げ茶色を残していた。皺の数は今よりもっと少なく、歯は揃っていた。
独りであちこちを放浪していた爺さんが、捨て置かれていた私を拾い、娘……いや、孫娘としてそばに置いて十七万時間あまり。大昔の時間単位で十九年以上――今、爺さんの実年齢は、軽く八十を越えているはず。
ふぅ、と爺さんが息をつく。
「爺さん、少し横になりなよ」
「んん、そう……だな」
萎びた身体を引きずり、窓辺近くの古いベッドに横たわる。
軋むマットレスは薄く、毛布は端が擦り切れ色が抜けている。見渡す部屋には小さなテーブルと椅子が二脚。背もたれには長い旅で使い古した背負い袋が掛けられ、埃をかぶり始めている。キッチンには手鍋がひとつ。
食糧は無い。
手鍋には十二時間おきに新鮮な水を汲んできていた。
爺さんは数日前から、水しか飲まなくなったから……。
目を瞑る爺さんが、ひとつ、大きく息を吸った。
「三十二階層下りた第四区画に、処理施設があるだろう?」
「うん」
「そこのダイさんに頼んである」
何を? とは聞かなかった。
「土がいる」
爺さんは繰り返し呟いた。
「種を植える土だよ。金連花……ナスタチウムを植える土だ」
「うん」
「どんな色の花、だろうな……」
そう呟いて、爺さんは息を吐いた。
人工太陽が西へ去り、世界を上下に繋ぐ建築群に淡い星が灯り始めた。
どこかで風が動き、排管を通って笛のように大気を震わせている。時折、カーン、コーンと響く音がする。
生きているものの気配は確かにある。
けれど、誰もこの部屋を訪れたりしない。
私と、爺さんの終の棲家に、踏み込む者はいない。
爺さんが最後に息を吐いてから、十二時間が過ぎた。
老齢のせいか通常より早く強張りの解けた身体を抱き起こし、抱え上げ、私は部屋を出る。頭一つ長身だった爺さんはやけに小さくなって、枯れ葉のように軽く感じた。
私の足音だけが、薄暗い通路に響き渡る。
部屋を出て更に十二時間あまりが過ぎた頃、三十二階層下りた第四区画の処理施設にたどり着いた。
巨大な台形の灰色の建築物に窓は無く、長方形に切り取られた入り口だけが、虫食いの穴のように開いている。その入り口を抜け、細く長い通路を突き当りまで行くと、灰色の壁に囲まれた部屋があった。
背の高い長方形の台車がひとつ置いてある。
私は台の上に爺さんを横たわらせ、周囲を見渡す。
入り口側からは見えにくい場所に扉がひとつあり、ほどなくして、薄いタブレットを手にした眼鏡の男が一人、姿を現した。
無精ひげを生やした男は、三十……いや、四十代だろうか。五十を過ぎていると言われても不思議ではないほど年齢は読めず、どこかくたびれた気配をまとっていた。
「来たか」
眼鏡の男は台に横たわった爺さんを一瞥して、こちらに顔を向けた。
私は真正面に男を見据えて言う。
「爺さんが、ダイという人に頼んであると言っていた」
「あぁ、俺がその、ダイだ」
「では……」
「本人の望む形で処理するよ」
淡々とした声だった。
なすべき仕事を滞りなく終える、ただそれだけの人。
男は光るタブレットを爺さんの上に軽くかざして、指を滑らせる。厚いレンズの向こうにある瞳の様子は良く見えないが、不意に口元が不自然に歪んだ。それが……溢れる感情を無理に押し殺しているようにも見えて、私は戸惑った。
私と爺さんが共にいる間、第三者を交えたことはほとんどない。
特にここ数千時間あまりは、誰にも会っていない。
世界に存在している人は皆、爺さんのことを忘れたものと感じていた。けれど爺さんが頼み事をするだけの人ならば、私の知らない繋がりが、このダイという人にはあったのだろう。
それが嬉しくもあり、寂しくもあり、何故か、悔しくもあった。
「爺さんから受け取っておくものは無いか?」
「何も……あ、いや」
私は爺さんの首元を指さした。
「種を、首から下げている袋に入れている。それを貰い受けたい」
「そうか……お嬢さんが引き継ぐんだね」
そう言うと、眼鏡の男はタブレットを台に置いてから、爺さんの首に下げていた小袋をそっと外した。思いのほか丁寧な指の動きに、私はじっと見つめてしまう。
男は一度手のひらの上で袋を眺めると、「生きているから」と囁き、私に向かって腕を伸ばした。
両手で受け取った私は言葉の意味を取りかねて、顔を上げる。何がと問う前に、男は次の作業に移っていた。
「処理に十六時間かかる。その頃にまた来てくれ」
「この建物の前で待っている」
「そう、だったら届けるよ」
言うと、男は片手を上げた。
同時に壁の一面が上がり、広い通路が現れる。等間隔に並んだ明かりが、遥か向こうまで続いていた。
「別れの言葉を、かけるかい?」
「別れ?」
私は首をかしげる。
「爺さんは帰ってくるんでしょう?」
「そうだね」
男は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、再び不可解な形で唇の端を上げた。そして再び手をかざすと、爺さんを乗せた台は音もなく動き、通路の向こうへと進んでいく。
わずかな時間を置いて壁は閉じ、部屋には私一人が残った。
建物の外に出ると、遠く、人工太陽が飛行していく様子が見えた。
部屋から眺める太陽は熱いくらいなのに、この階層から見上げる太陽は小さく、どこか頼りない。有機体の中に収められているという魂というものが目に見えるのなら、きっとこんな光なのではと思う。
「生きている……か」
外壁を背に座り込む。手の中の小袋を開くと、種が転がり出て来た。
こんな小さな軽石のようなものが生きているとは思えない。古い資料では、発芽率は六十から七十%とあった。それは採取して、八千から九千時間程度までの比率だろう。
どんなものでも時間と共に劣化していく。
この種がいつの時代のものか分からない。
――ならば、あまり期待はできない。
「土……」
爺さんは土さえあればこの種を植え、花を咲かせることが出来ると信じていた。その願いを、かなえたい気持ちは……ある。
種をしまい、瞼を閉じる。
爺さんと旅をした道行や、数え切れないほどに繰り返された夜と朝を思う。
好きだった食べ物、嫌いな飲み物。子供の頃の嬉しかった思い出、哀しい別れ。私を見つけ出した時の驚き。それが……独り身だった爺さんにとって、どれほど嬉しいことだったかを繰り返し語っていた。
この種のことも。
「待たせたね」
不意に声を掛けられて、私は閉じていた瞼を開いた。
いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。私は袋の紐を自分の首にかけ、声をかけてきた眼鏡の男の前で立ち上がった。
男は、両手にのるぐらいの大きさの瓶を手にしていた。
中には爺さんと出会った頃の髪色のような、濃い焦げ茶色の荒い粉状の物が収められている。
「土だよ」
私は男の顔を見上げた。
「……本当に?」
「ああ、他の施設では食糧に加工するところが多いが、ここでは、土にするんだ」
そう言って、土を収めた瓶を手渡してきた。
ほんのりとあたたかいそれは、まるで息をしていた頃の爺さんのようだ。
「頼まれていたからね」
土さえあれば、そう爺さんは言っていた。
「お嬢さんが見守ってくれるなら、きっと大丈夫だ」
きっと咲く、とは言わなかった。
私は眼鏡の男に見送られ、爺さんと暮らした終の棲家へ上っていく。行きよりも手にしたものは小さく軽くなったはずなのに、何故か足取りは重く、倍近い時間をかけて部屋にたどり着いた。
窓の外はぼんやりと明るい。
間もなく、人工太陽が飛行してくる時間だ。
私は種を手鍋の水に浸してから、手早く鉢と受け皿を用意して、一つまみもこぼさないよう慎重に土を入れていく。後で入れる水がこぼれないよう、土を入れすぎないように注意しながら。
先に土を湿らせ、小指の先ほどの深さに穴を三つ開ける。
そこに、種を一粒ずつ落とし、隠れるように土をかぶせた。
窓辺に椅子を運び、私は人工太陽が訪れるのを待つ。
日の光が種を包んだ土を照らすように。爺さんが話した緑の芽が出るまで。
それは……何十時間、いや何百時間ほど要するのだろう。
「爺さん……私、制限時間内に次の有機生命体に引き継がれなければ、記憶が初期化されてしまうよ」
多くの人工生命が捨て置かれていたスクラップ場で、爺さんが私を見つけた時、以前のマスターの記憶はリセットされていた。個人情報を流出させないための仕様だという。
今、ここにある爺さんが望んだ有機体が、生きて、姿を現さなければ、私はマスター不在として今までのデータは消えてしまうだろう。
花を咲かせたいと願った爺さんのことも。この手のひらにある種と土のことも……。十七万時間に及ぶ、他愛ない日々の、全ての記憶が……消える。
人工太陽が西へと過ぎ去っていく。
闇に浮かぶ建築群。風が流れ、星々が瞬く。
私は窓辺の椅子に座ったまま、また東から飛来してくる太陽を待つ。東側から巡る太陽は窓辺を温め、また西へと。
繰り返し。
繰り返し。
時折、土を湿らせ。
ただじっと小さな命の目覚めを待つ。
制限時間のカウントが、一つ、また一つとゼロに近付く。
生きている。
そう信じて。
いや……生きていて欲しいと。
生きたい、と。
爺さんが望んだ命と共に、私は……生きたい、と。
東から何度目かの人工太陽が飛来してきた。
今朝は少し湿度が高いのか、建築群が朝靄に霞んでいる。その淡い光の中で、私は閉じていた瞼を開いた。
手元の鉢に視線を落とす。
――そこには、緑の、小さな手のひらの形の芽がひとつ、私に向かって光る夜露を差し出していた。
『金連花 ~ナスタチウム~』管野月子 植物のある風景(4987字)
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