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「推し」という言葉を使いたくない話

私はいわゆるオタク気質が甚だしいので、昔から「のめりこんで応援する対象」が常にいました。子供時代のアニメや漫画のキャラクターに始まり、小説の登場人物や作者本人、お笑い芸人や舞台俳優、ミュージシャン、野球やラグビーなどのスポーツ選手、しまいには嵐という国民的スターまで。
これがいわゆる「推し」と呼ばれるものであることは疑いの余地がないのですが、どうにもこの「推し」という言葉を使いたくない。他の人が使っているぶんには問題ないのですが、私が好きな人たちを指して「それがあなたの“推し”なんだね」と言われると、素直に肯定したくない、という感じなのです。その理由を考えてみました。

まず、「推し」だけを名詞として使うことに違和感があります。
昨今よくある文章みたいなグループ名、あれも苦手なので、好きじゃないんでしょうね、そういう言葉の使われ方が(名前が違和感あるというだけで、その方々の創るものへの評価ではありません)
「推し」や文章みたいな名前のグループが流行っているのは、この違和感がフックになり、人の関心を惹くからなんだろうなとも思いますが……。

次に、流行の言葉を使うのが恥ずかしいという気持ちがある。
流行語はその時の雰囲気や空気を捉えているので、あまり親しくない人ともフィーリングが簡単に通じてよいのですが、個人的な美意識というか、ややこしい自意識というかのせいで、とにかく気恥ずかしいのです。
これは「推し」に限らず、「メタ認知」とか「解像度が高い/低い」とか「マインドフルネス」とか、そういった言葉も、概念としては非常に重要なものだし、言葉として便利なので使ってしまうのですが、やはり若干の気恥ずかしさはあります。

そして何より、私の中に「推している」感覚がない。
推す=推薦する、という意味で考えると、私が好きな方々というのは「もはや私ごときに推薦されるとかされないとかいう次元ではない」と感じてしまいます。私が何かすることが、彼らに何らか作用すると思えない。そんな近い範囲にはいない人たちで、別次元の存在として崇め奉るという感覚に近いので、「私が推す」という気持ちがないんだと思います。
ユニコーンというバンドの人気が出始めたころ、前からファンだったという方の「(売れて)遠くに行ってしまうような気がして寂しい」という趣旨のメッセージに対し、奥田民生が「最初から近くにいません」と答えた、というエビソードを聞いたことがありますが、それです。遠くに行くも何も、遠くにありて思うものです、最初から。(エピソードの真偽のほどは定かではありませんが、さもありなんと言いますか、最高です)

おそらく「推し」という言葉も、最初は「自分が好きなアイドルが人気投票で上位になれるようにたくさん投票する」とか、そういう推薦行為と紐づいていたのでしょう。その時点で「推し」というのはしっくりきますが、言葉が一般化されるにつれ、意味もだいぶ広がって、「推す」必要がない状況も含んで使われるようになったんだろうな、と理解しています。

理由はなんとなくわかりました。では、私は世間一般でいうところの「推し」を何と呼べばいいのか。どういう表現をすれば、違和感がないのか。

ファン、というのが一般的で通りもよいので、ふつうはこう言っています。でも、それだと何となくライトすぎる。オタクのややこしいところで申し訳ないが、ただのファンとは違うんだよね、という気持ちが若干むくむくしてしまいます。面倒くさいですね。

「好きな〇〇」という表現もあり、これが最も気持ちに近いのですが、世の中には「好き=恋愛感情」という理解の方が一定数いるので、特に若いころはそれが面倒でした。曰く「ああいうのがタイプなの?」とか「その人と結婚したいの?」とか。的外れすぎて逆に刺さるわーって感じです。
最近ではこういう反応はほとんどないですが、それは単にそういう話をする機会がないからなのか、私が年齢を重ねた結果、そういう質問の対象から外れたせいなのか。それはそれで非常に失礼な話ですが……。

とはいえ、「推し」という言い方も、場合によっては違和感なく使えることがあります。
例えば「ゆのじさん、野球好きだったよね。推しは?」と訊かれた場合。この質問の意図するところが『WBC見て野球に興味が出てきたんだけど、初心者におすすめの選手は?』だとしたら、肩をぶん回して推しまくるでしょう。
しかし『ゆのじさんが、特に応援している選手は?』という意味だとすると、先に述べたような理由で素直に回答できない。つい「推しというか、野球選手として好きなのは……」とか前置きをして回答するでしょうね、私のことですから。
前者の方が「推し」本来の「推薦する」に近い意味合いだからだと思うのですが、我ながら面倒なこだわりだな、と書いていて嫌になってきました。

ここまで来てなんですが、私とていわゆる常識人ではありますから、会社の同僚が世間話として投げかけてきた質問に対し「その“推し”は推薦するという意味でしょうか、それとも好きで応援しているという意味でしょうか」と詰めるほど、頭がおかしくはない。普通に会話します。
でも、自分から積極的に発信するもの、改まって文章にして書き留めるような作業のときは、妥協したくもない。

そこで最近使っているのが「敬愛する」です。
『きもちわる』と思った方もいるでしょう。それでいいのです。オタクの愛は気持ち悪いものなのです。
だってねえ、私は北海道日本ハムファイターズの上沢直之投手のファンなんですけれども、たとえ彼が大活躍して年俸が上がったとしても、私のお給料が上がるわけでもないし、顔面が深津絵里になるわけでも、更年期症状が良くなるわけでもないわけです。
でも、上沢投手のプレーが見たくて時間とお金をかけて球場に行くし、行けなくてもケーブルテレビで全試合見られるようにしているし、その結果に一喜一憂する。調子がよければ私もうれしいし、調子が悪ければ私も悲しい。怪我なんかした日には、治るまで願掛けで好きなものを断ったりするし、メジャーに行きたいという希望を聞けば、かなうように心から願っている。美術館や銭湯のロッカーは、彼の背番号である15を確保してしまう。なんだったら、彼の出身地だという理由だけで、行ったこともない松戸に好感を持っているし、高校野球で専大松戸高校を無条件に応援してしまう。シャウエッセンも買う(これは単に好きだからというのもある)
「何のためにそこまでするのか」と訊かれれば、自分でもよくわからないけれども、そうせざるを得ない。この熱量は我ながら何なのかしらと思うし、気持ち悪いと感じる人もいて当然と思います。

そもそも「敬愛する」は、『相棒』の中で米沢さんが右京さんに対して使っていて、心に残っていた表現です。
性別や年齢、立場や恋愛感情の有無を超えて「人間として好き」という気持ちが、端から見れば若干引く程度に極まった際の表現としては、ぴったりではないでしょうか。さすが米沢守、オタクの鑑と言うべき男。

というわけで、今後は「敬愛する」という言葉を推していこうと思います。
(人以外に対しては、違和感なく使えるものですねぇ……)


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