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覚え書き

ああ、この人、私に全く興味がないんだろうなと思ったことはある?
「興味を持たれない自分」を無価値だと思ったことは?その人に傷つけられて、でも相手はそんなことにも全く興味がなくて、枕を濡らすしかなかったことは、人生に何度ある?


私の姉は昔、私に徹底的に興味のない人だった。私のことをただ後に入って来ただけの同居人だと思っていて、「お姉ちゃんなんだから」という言葉を全力で拒否していた。
当時も今も、気の毒だなあとは思っている。血は繋がってるけど縁があるわけではないグズな同居人と勝手にセットにされて、姉と妹なんてラベリングされて。そんなむちゃくちゃな不本意は、きっと平等を愛する姉にとって耐えがたい苦痛だっただろう。
家の外には彼女が向き合うべき広大な世界が広がっていて、日が沈んで家に帰ればまったく興味のない人間と共同生活をする。必然、家にいるときの彼女は大抵イライラしていた。姉の友達と遊ぼうとしたらおもちゃのマジカルスティックで頭を思いっきり叩かれて、「いや、それ物理攻撃用ちゃうねん」と思ったことくらいしか覚えていないけれど、とにかく、私にとっての姉は恐怖の存在で、それと同時に、自分より3年遅く生まれたとろくてインテリジェンスがなくて煩わしい人間と同居しなければならない可哀想な人だった。最小単位の共同体の中でそんな人の妹役をやっていた私は、人から興味を持たれることと、未だに上手く向き合えない。


それとは別の話で、少し前、「この人、私に本当に興味ないんだな」と思っていた相手から思いっきり蹂躙された。そりゃあもう、一年間くらいナイトルーティーンに「そのことを思い出して苦しみ悶える」ということが追加されるくらい、思いっきり。だって貴方に興味ないんだもん、と言わんばかりの。
人と怒りを共有することの重要性を知らなかった私は、一年のナイトルーティーンを経て、ようやく自分は踏み躙られて怒ってる、という結論を得た。同時に、それまでも減退しつつあった言葉を使うことへの興味が、また少し減った。


「興味がない」と「蹂躙」には、何故か相互作用がある。興味を持てないんだから仕方ないじゃないと身も蓋もない正論を言う人は、興味がないなら放っておけばいいのに、という身も蓋もない正論を、何故無視できるのだろう?

興味のない人間が、興味を持たれなかった人間を傷つけた瞬間に、ふたりの間に名前のある関係性を作ってしまったのは興味のない側なのに。


興味がないことは「ごめんあそばせ」で他人を蹂躙していい理由にはならない。それは単なる加害だから、「ああ自分はこの人に興味がないな」と思ったときは何も言わずに離れるべきだ。できれば靴をそっと抱えて、足音を立てないように。
興味を持たれなかった側はそのときに、袖にされることを覚悟で相手の背中を追うかどうかを決めればいい。


人間性にレベルなんて存在しない。もしあるように見えても、そんなのは尊く愛すべきどんぐり達の背比べだ。本当の本当の本当に賢い人だって、たぶん、この世界にはいない。少なくとも私の世界には。だから、「興味を持てない側」に責任がないのと同じくらい「興味を持たれなかった側」にだってなんの責任もないのだ。興味を持たれなかった自分に価値がないのではなくて、ふたつの価値観がただただすれ違っただけなのだ。
それはとても悲しいことかも知れないけれど、でもだからってその悲しみを、どちらか一方が背負う必要はないよな、と思う。相手の興味関心なんて知らねーから、ただただ踏み躙られたことに腹を立てていいよな、と思う。その足どかせよ、お願いだからそう思わせてほしい。

「興味がない」に付随するものが無視でも蹂躙でもなく、両者の選択権だったらいいなあ、と思うこの頃。

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