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小娘はサラリーマンを語りたい

 今日は、なんと大胆にも”サラリーマン”について語ります。

 私の母は大学教授で、父は鹿児島の小さな離島で僧侶をしている。親戚筋は歯医者や医者や農家ばかりで、姉は哲学科の大学院生、私自身も芸術学科なんてところに進学してしまった。必然、私の周りには、スーツを着て企業に勤めるような“サラリーマン”がいない。そんなステレオタイプのイメージ鼻で笑われちゃうかもしれないけど、何が偏見か分からないレベルで会ったことがない。だからずっと憧れてきた。満員電車に乗り合わせるスーツ姿の大人たち。コメダで名刺交換をする2人組。浜松町。新橋。ドント節 by クレイジーキャッツ。バイト先で、ワンコール鳴った瞬間に華麗な身のこなしで電話をとる社員さんの背中には、いつもONE PIECEに出てくる「ドン……!」という効果音が見える。大学でキャリア論を受講したときも、リアクションペーパーの”1番印象に残ったこと”の欄は「本物のサラリーマン、、、、すご、、、、」という初歩の初歩の感想を書いてしまった。

 だからこそ、こんな浅識の小娘がサラリーマンへの憧れを語っていいのか、人々の切実な営みをセンスのない言語化で台無しにしてしまうんじゃないか、そもそも根がオタクすぎるので推し語りなんてしたら特有の気持ち悪いとこ余すところなくお届けしてしまうんじゃないか、心配で、出来るだけ内緒にしていた。本当は、サラリーマンという言葉が「画一的で格好悪いよね、毎日電車に揺られて規則的な日々を送ってさ、」みたいな文脈にされるたび、納得できなくてとても悲しかった。違うのに、少なくとも私にはめっちゃかっこよく見えてるのに、ってずっと言いたかった。


 でも、今日は好きなものを思いっきり語っていいことにするもんね。宣言します、私は最高にcoolなサラリーマンが大好き、F4(花男)と同じくらいキュンキュンする、異論は認めない、だって私が好きだから。



今日も世界が動いている

 テレビでコントを見ていたら、登場人物のひとりがサラリーマンに向かっって「お前が動かしているのはパソコンじゃねぇ、世界だ」と叫んだ。私は、ほんまそれ〜〜〜〜〜〜と机をバシバシ叩いた。
(芸人さんが人を笑わせるために書いた作品を勝手に主張の材料にするのは品がないだろうか、ごめんなさい空気階段さん好きです、めちゃくちゃ面白いです)

 自室でこのnoteを書いているので、私の視界は範囲精一杯、すべて、”誰かの仕事の結果”で埋め尽くされている。小学校で習うような事実に、未だにクラクラしてしまう。
 仕事。アイデアでみんなを驚かせたかもしれないし、誰かは指示をナイスに遂行したのかもしれない。愚痴を言ったかもしれないし、忍耐の人だったかもしれない。人生をかけて打ち込んだのかもしれないし、記憶にも残らない些細な作業だったのかもしれない。関ジャニ∞のライブDVDを脳内再生しながら苦手なことを乗り切ったかもしれないし、或いはもっと切実で、暗くて冷たい日々を抜け出そうともがいていた最中かもしれない。能動でも受け身でも、なんでもいい。ただ、この生きていくには喧しすぎる世界の中で、思いついたり、形にしたり、研究したり、計算したり、運んだり、元気づけたり、整えたり、守ったり、遥か続くエトセトラ。その結果が、形になって私の元に届く。そこに雇用形態や業種や能動性は関係ない。大企業も町工場も自営業も芸術家も研究者もすべて、彩度バキバキのかっこよさに満ちている。

 

 語ると長くなってしまうので、ここからサラリーマンの個人的で具体的な推しポイントを箇条書きにしてみます。
【復習】オタクは興奮すると語彙力がなくなる

ビジネススーツほんとすき

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・たくさんの人が同じルールに則った服を着て、でもひとりひとり違う組織で違う役割を担っているの。違う結果をこの世に生むの。ユニフォームに見えて唯一無二であるところのバランスが最高にかっこいい。

・糊の効いたビシっと折り目スーツもメイちゃんの執事(世代)みたいでエモいし、くたっとした年季を感じるスーツもエモい。時代を作り続けていることに裏付けされれば、どうせなんだってエモなのよ。

・ネクタイってただの布なのに、難解な手順によりどうしてそんなに立体感を持つのか?  あの、磯野波平さんって確か衣装箪笥の扉の裏側(冷蔵庫だと牛乳を入れる位置)にネクタイ掛けてはるよね伝われ、あれヒーロースーツが並ぶ秘密基地みたいでとても好きなので富豪になったら買う家に超置く絶対に

・毎日スーツを着るということは、自分の人生をこの服で築いていく、とさっぱり腹を括っている表明。もちろん途中で道を変えることもたくさんあると思うけど、少なくとも、あの服を着ている瞬間の潔い存在の仕方。ちなみに界隈には生きてるだけでファンサっていう言葉があるんですけど

・ていうかもうハンガーに掛かってるだけで修学旅行のときホテルのロビーで見た甲冑みたいな凄み(顔の部分が真っ黒になっててビビるやつ)とエモさisある。 

・もちろんビジネススーツだけじゃなく、働く人の服はとてもかっこいいです。異世界感たまらん駅員さんも爆裂イケメてる大工さんもみんな大好きエプロンの店員さんも常識というふわっとした概念を素敵に着こなせるオフィスカジュアルも服装に縛られず働いている人もエトセトラみんな大好物ですね、ぜんぶ書くと長くなっちゃうので今度きいてねありがと

名刺交換は武士の所業

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・名刺っていうのは、「私はこれの人です」と活字で記載できるような具体的な肩書き、所属、断定を持っているということ。例え一側面だとしても自分について何かを断定できるのは、人としてすごいことだと思う。

・一挙手一投足、相手への敬意に基づいた細かなルールがある。名刺に書かれた名前や御社名、その黒いインクに血が通っていることを前提にした世界観つよすぎ、何回でも優勝するやん。

・宣戦布告の合図であり、天下泰平への一歩であり、隠密が如く相手を見極め信頼を交換し合うヒリヒリした情報戦の瞬間でもある(と聞いています)。それが、表面上は穏やかな口調で腰低くにこやかに行われる。自明のエモ


他にもいっぱい

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・正しくメールを打つとか無駄なく簡潔に話すとかそういう"社会人としての言語を使いこなしてる感”ほんとすこ。私も早く大人の言語を使って、理性で、いい塩梅にうまいこと自分を表現してひとりでニヤニヤしたい

・これはサラリーマンというか人類の話なんですけど、駅の改札を通る人の後ろ姿めっちゃ好き。ダンジョンの扉を開く勇者の背中みたい。地球が推した。

・新幹線に乗ったとき、自分流の寛ぎ方というか、ルーティーンがあるように見受けられる大人かっこよくないですか? あの、出張に慣れてる感? 自分の地理座標をひかりやのぞみの速さで動かすことなんて余裕だぜ、みたいな。この前は発車のあと手早く昼食を済ませ足を寛げて書類鞄の中からおもむろにNINTENDO Switchを取り出した方がいらっしゃったんですけど、地に足ついてる感とワクワクのバランスが最of高ですしおすし



明日も世界が動いていますように


 昔から「社会の歯車」という言葉がピンとこない。いや、自分を奮い立たせることはとても切実で、重要なことだ。知っている。凡才極まれり、の私だって、矮小なりにたくさんの怒りや孤独、”突き付けたさ”を飼い慣らして生きてきた。飲みくだせない溜飲は、(もしかすると一部の)人間にとって、クリエイティブというより寧ろ人生の必須項目だと思う。凝縮させた疎外感や絶望に依拠した、圧倒的なパワーが作る作品に、私は今日も生かされている。

 それでも「毎日電車に揺られて言われたことをやるだけの社会の歯車になんてなりたくねえ」という言葉は、あまりにじれったくて、じれったくて、中森明菜ちゃんになってしまう。「多数派であること」「個人事業主でないこと」を見下す優越感は、本当に人を自由にするのか? 服装が似ているから無個性だと判断する審美眼は、どんな真実を捉えるのか?  
 朝起床の清らかさを押し付けたいのではなく、だるい疲れたやめたい楽したいお金ほしい優位に立ちたい、何だよ、そういうのぜんぶ、みんなお互い様の人間の凄惨さぜんぶが、この世界を動かしているんじゃないか。常識をひっくり返すのはそれを全部飲み込んでからじゃないか。

 初めて新宿に行ったとき、喧騒の中、とっさにテレビを連想した。♪JR新宿駅の東口を出たら”歌舞伎町の女王”がいたからじゃない。「誰かの仕事」「誰かのおかげ」「誰かのせい」「誰かの存在」や「誰かの不在」がピクセルになって、液晶みたいに集合して風景を光らせているからだ。得てしてモアレするその粒々は気持ち悪いほど寸分の隙なく世界を形作っていて、恐ろしくて、同時に美しさや喜びによって私を圧倒する。
 それは、(今はオンラインになった)大学の授業で私が学ぶ、文学や美学や哲学と同じくらい、世界の真理に近いことのような気がした。恐いのは生産しないことでも、俯瞰しないことでもなく、主観を信用できなくなることだ。物語も思想も人の間に生まれるものだから、領域や外見なんかに騙されるのは悔しい。誰に何と言われても、私は肩書きや生活を軽んじる美意識なんて信用しない。ちょっとキツイ言い方しちゃったかな。 



「私はサラリーマンひいては働くことそのものをめちゃくちゃかっこいいと思っているの卍」と言ったときに1番怖い反論は、「あなたはまだちゃんと社会に出ていなくて、責任も厳しさも何にも知らない子どもだから夢見て称賛していられるのよ」と言われることだ。うーん、その通りだと思います。近い内に、(件の情勢に挫折しながらも)運良く社会人になることが出来て、具体的な職業を手に入れられたとして、「あーはいはいこれが噂に聞いてた社会の厳しさってやつっすねあーーーーーやっぱ結構きついっすね!?」となる日がきたら、やっぱり20歳の自分の感覚を疎ましく思うのだろうか。20歳の私が15歳の私にするように、苦悩しながら見出す希望を些末だと簡単に切り捨てるのだろうか。でも、まあいいか、って思う。だってそういう主観のエネルギーこそ、きっと人間の営みが泥臭さを抱えながら極彩色に光って続いていく所以だから。

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